知恵の木の下で
夕暮れの光が落ちてくる頃。
ローワンはいつもと同じように、林の小道を辿って丘を下って家路を急いでいた。
胸の奥は、ついさっきまでの温かな時間でふわりと満ちている。
風は昼よりも涼しく、汗を乾かしていく。
香草畑の薫りを吸い込みながら小さな納屋の横を通りかかった時だった。
「……ローワン?」
背後から呼ばれ、ローワンは肩を跳ねさせた。
振り返ると、井戸のそばで草花を水に浸している母と目が合う。
しゃがんだままの姿勢で、彼を静かに見ていた。
(……どれくらい前から見ていたんだろう)
別にやましいことはない。
けれど母と乳母に黙って通っていた手前、胸の奥がざわりと落ち着かない。
「ただいま」
努めて何でもない風を装う。
「どこに行っていたの?」
母の声は柔らかく、責める色もない。
だからこそ、ローワンは胸のどこかをちくりと刺された。
「……えっと……その……」
言葉が曖昧に喉で転がった。
ほんの一瞬、セリウスとの温かな時間を思い出し、背中がむず痒くなる気がした。
「丘の上の……お屋敷に。セリウス様に、会いに」
その名を出した時──
母の指が、ほんのかすかに止まった。
水音が一拍だけ沈黙した。
けれど、本当にそれだけ。
「そう。……失礼のないようにしなさいね」
すぐにまた草花を水に浸し、静かに言った。
視線は既に手元に落としていて、ローワンは母の表情を読み取れない。
叱りもせず、問いただしもせず。
淡々とした声。
けれどどこか、これ以上踏み込んではいけない気がした。
「うん、もちろん!」
ローワンはぱっと表情を明るくして駆けていく。
母の視線から逃げるように──いや、自分でも気づかぬまま。
リディアはその背中を目で追い、そっと息をついた。
夕暮れに照らされた横顔は、いつもの柔らかさを保っている。
ただ、その瞳だけが深い湖面のように静かで、何も映していなかった。
「……よろしいのですか?」
勝手口から乳母が姿を見せ、小声で尋ねる。
リディアは花を揺らしながら答えた。
「……わからないの」
それ以上は語られない。
乳母もまた、それ以上は踏み込まなかった。
風が林を揺らし続けていた。
*
ローワンは今日もダンテと共に双子の遊び相手と出荷用の麦の梱包を手伝っている。
「ローワン坊ちゃん、ありがとう存じます」
まだ少し疲れの残る体で微笑むマリーに、ローワンは手を止めず「気にしないで」と返した。
“坊ちゃん”と呼ばれても、もう照れも気負いもない。ただ、肩の力を抜いて笑えるようになっていた。
双子達は母親の姿を見つけるや直ぐにダンテの元から離れていく。両手をいっぱいに広げて向かってくる二人を丸ごと抱き上げるマリーの腕は以前よりずっとしっかりとしてきたようだ。
「なんだよ、現金なやつらだ」
ダンテが肩をすくめてわざとらしく口を尖らせるので、ローワンもたまらず笑ってしまう。
「二人とも、今日はもう大丈夫よ。母さんだいぶ動けるようになったから、双子のことは心配しないで遊んでらっしゃい」
やった!とダンテが言い、ローワンも行こう!と二人で駆け出す。
畑を抜け、緩やかな坂を上がり、オリーブ畑に差し掛かった頃だった。
「っく、ひっく…」
一本のオリーブの木の陰で誰かが泣いている。
ローワンとダンテが顔を見合わせて、それから二人はそっと近づいた。
「どうしたの?」
先に声をかけたのはローワン。
肩が小さく跳ねてから、そろりと顔をあげた少年にダンテが「エド?なんで泣いてる?」と問いかけた。
「……お父さんが、今日は出荷に行けなくて…」
エドは指先で地面をいじりながら、言葉を探した。
「代わりに、ぼくらで……行ったんだ。隣の町の商人のところまで。いつもみたいに、帳簿に名前を書いて、代金も……受け取ったはずなんだけど」
そこでエドの声が揺れた。
「でも、帰ったら……お父さんが、お金が足りないって言って。ぼくが…ぼくが取ったんじゃないかって……っ」
最後の言葉は涙に溶けて聞き取りづらい。
ダンテが眉をひそめる。
ローワンも胸がきゅっと締めつけられ、そばにしゃがみ込んだ。
「エド。そんなこと、君がするわけないよ」
ローワンの言葉に、エドの肩が小さく震えた。
エドの話を聞いたダンテは眉をひそめ、ローワンは胸の奥にざわりとした違和感を覚えた。
「エド。商人さんに、何て言われたの?代金を受け取る時」
ローワンが静かに尋ねると、エドは鼻をすすりながら答えた。
「えっと……『坊主らだけで来たのか。じゃあ今日は特別に、こっちの値段で取ってやる』って。『父さんの代わりに偉いなあ、いい買い物ができたよありがとう』って、気のいいおじさんなんだよ」
エドの言うことは本当なのだろう。
子どもは疑う余地もない。
「…ねえエド。お父さん、出荷の時いつもいくらもらってる?」
「えっと……その……俺、数字あんまり読めなくて……兄ちゃんも……」
エドが俯くと、ダンテがハッとしたように言った。
「じゃあ!相場よりずっと少ない銀貨を渡されててもわかんないじゃないか!」
エドはびくりと肩を震わせた。
「……俺、そんなつもりじゃ……でも、商人さんがこの値段だって……。兄ちゃんも、字が読めないから……サインも、名前の形だけなんとか……」
ローワンはそっとエドの丸まった背中を優しくさすった。
泣き腫らした目がゆっくりとローワンを向く。
ローワンはその視線をしっかり受け止め、柔らかく続けた。
「悪いのは、子どもだと思ってごまかした商人だ。もしかすると……、たぶん他にもあるんじゃないか」
その言葉に、ダンテも黙り込む。
町の子どもたちは読み書きが苦手な子が多い。
領地の農家たちは真面目で働き者だが、商売については詳しくない人も多い。
(知らないというだけで、損をし続ける人たちがいる……)
ローワンの胸の奥で、さざ波のように何かが広がった。
「気に食わないな…」
ボソリと、ローワンは無意識に口にする。
隣でダンテが小さく息を飲むのが分かって、切り替えるように明るく話しかけた。
「エド。まずは一緒にお父さんのところへ行こう。それから……商人の人にも、ちゃんと話をしてみよう」
エドが不安そうにローワンの袖を握る。
「こ、怖いよ……怒られたりしないかな……」
「大丈夫。僕がいるよ」
にっと笑って見せると、ダンテも勢いよく腕をまくった。
「おう!俺もついてくぞ!あの商人、うちにも来てるんだ。絶対タダじゃ帰さねえ!」
「いや、ダンテ……暴力はだめだよ」
「わ、分かってるって!」
泣き顔のままエドにも、ようやく小さな笑いが漏れた。
ローワンはその笑みを見て、そっと心の内で思う。
(読み書きができれば、こんなことで泣く必要はなかったのに……)
そして確信した。
──この町には“学び”が必要だ。
子どもたちにも、大人にも。
知らないせいで損をする人生なんて、あってほしくない。
風が吹き、オリーブの枝がゆらりと揺れる。
ローワンの中で芽生えた思いは、静かだけれど確かな光を帯び始めていた。
エドの涙をぬぐいながら、三人は急いでダンテの家へ戻っていた。
*
事情を聞いた町長は深く息をつき、そばに置いた帳簿を手に取る。
「……その商人、名前は?」
「ミルスって人。いつも同じ。父さんが言ってた」
エドは鼻をすすりながら答える。
町長は帳簿の、取引額の欄を指で追った。
そこには毎年の取引額が整然と並んでいる。だが、今年記載された数値は——露骨に少ない。
「……なるほどな。これは“二人が間違えた”んじゃない。元から、こうするつもりだったんだ」
普段穏やかな町長の声に、低い怒気が滲んだ。
ローワンもダンテも、息を呑む。
町長は椅子を立つと、エドの肩をやさしく叩いた。
「お前たちのせいじゃない。大人がつけるべき落とし前だ」
そう言うと、すぐにエドの父にも連絡を取り、リディアのもとで話し合いが設けられた。
リディアは事情を聞くなり眉をひそめる。
「子ども相手の不当取引……見過ごすわけにはいきませんね」
町長とうなずき合いながら、対応を話し合っていく。
「商人側にはこちらから通達しよう。今後は必ず大人が立ち会うこと。署名は読み書きのできる者に限定する」
「私からも領主として商会に書状を送ります。二度と同じことをさせません」
落とし前の方針がまとまりかけたとき、部屋の奥からカタリ、と小さく物音がした。
リディアが椅子を引き「ルナかしら?」と口を開いたが、二階へ行ったはずのローワンが棚の陰からこっそり出てきた。
「……あの、それじゃあまた同じ事が起きます」
リディアと町長が驚いた顔を向ける。
ローワンはぎゅっと拳を握りしめながら、それでもまっすぐ二人を見た。
「読み書きができなかったり、取引のことを知らないせいで……困る人が、まだいると思うんです。
子どもも、大人も。
だから……村のみんなが学べる場所を作れないでしょうか?」
少年の声は震えていなかった。
ただ、必死に、誰かの痛みを自分のことのように抱えた声だった。
部屋の空気が、すっと静まった。
町長は腕を組み、むずかしい顔で唸る。
「気持ちはわかる。だが……教えられる人間が少ない。農繁期は皆が忙しいし、子どもたちの手も必要だ。
現実には、なかなか——」
リディアもまた、すぐには返事ができなかった。
「……そうね、もちろんそれは大切なことよ。けれど、そう簡単ではないのよ。私たちの暮らしを考えれば、収穫量はなるべく下げたくないのが本音ね。……わたしも引き続き考えてみるわね」
静かな、明らかに“保留”の空気だけが落ちる。
大人たちの言葉には確かに現実があった。
それでもローワンの胸の奥は、じわじわと熱くなるだけだった。
唇を噛んだまま、それでも諦めたような顔はしない。
その瞳を、リディアはふと優しく見つめた。
“あの子の中には、光がある”
そんな確信が胸に灯るようだった。




