Sanctus
季節は秋を迎えようとしていた。
母リディアと連れ立ってローワンはいつもより少し歩を緩めて町を歩く。
桶を抱えた老農夫と目が合って、いつもなら軽く会釈して通り過ぎていたはずが、気付けば口が動いていた。
「こんにちは!」
老農夫は少し驚いた顔をしたが、すぐに皺だらけの笑みを返してくれる。胸の奥に、温かな波紋が広がり、足取りも軽くなった。
(……あれ、こんなに嬉しいことだったっけ)
町長のアンディとリディアが話をしている最中、ローワンは二人の間に置かれた紅茶や数字だらけの帳簿の束をなんとは無しに眺めながら、テーブルの下で足をばたつかせていた。
「退屈でしょう?外でみんなと遊んで来ても良いのよ?」
小さく笑ってリディアが覗き込み、ついでアンディも「うちの孫たちも畑の手伝いを終えたころだろう」と口添えるので、ローワンは邪魔しては悪い、と外へ出ることにした。
ちょうど今はオリーブの収穫がそろそろ始まるか、という頃。ここから先ジャガイモの収穫や来期の麦播きと領民の忙しさは増してゆく。
ローワンも外へ出て町長の孫たちと今年収穫した麦を袋詰めする作業を手伝った。
子どもたちの輪に混ざるとき、胸の奥でちくりとする気恥ずかしさがあった。
以前なら、この“ちくり”を避けて帰ってしまっていたのに、ローワンはもう、気にしたりはしない。
のぎの取れた茶色の粒がザザッと音を立てて袋に入るたびに香ばしい香りがローワン達の鼻をくすぐった。
「いい匂いだろう?」
ローワンより一つ年上のダンテが、自慢げに言う。
「そうだね、とても美味しいんだろうなってわかるよ」
ローワンの言葉にダンテは少し照れくさそうに、でも「だろう?」と笑った。
ダンテの両隣にちょこんと座って、彼らのやり取りを見ているのはダンテの妹たち。双子のリルとリラ。
まだよちよちと頼りなく歩いては簡単に転んでしまうので、ダンテは他の家族が畑に出ている間こうして二人の面倒を見ながら麦詰めをしている。
「母さんが調子悪いんだ。二人もいっぺんに産んだろう?あんまり食べないからお乳も出なくってさ」
自分だってまだ子どもなのに、すごいなあと、純粋に思った。
「僕で良かったら、時々手伝うよ」
思ったままの言葉が、自然と口から出ていた。
ダンテは一瞬驚いた顔をして、それからくしゃりと破顔した。年相応の少年の笑顔に、ローワンもつられて笑った。
それからローワンは、ひとつ思い当たって、ダンテに「君のお母さんのこと、ちょっと僕もある人に相談してみても良い?」と訊いた。
セリウスなら何とかしてくれるかもしれない。
まずは彼の意思を訊いてみなければならないが、彼ならきっとイエスと言ってくれる気がした。
ダンテは意図が分からず少し躊躇ったが、リルとリラの顔をちらと見てから「うん」と短く答えた。
*
それから数日経った午後のこと。
セリウスは屋敷の一室で、薬草を仕分けながら書き物をしていた。
昼下がりの光が机の上を淡く照らし、風がカーテンを揺らす。
扉が静かに叩かれた。
「セリウス様、入ってもよろしいですか?」
「ああ、構わないよ」
入ってきたのは、ローワンだった。
少し埃のついた袖を払って、彼はきちんと姿勢を正す。
「……少しだけ、お話を宜しいですか?」
「どうした?畏まって」
ローワンは一歩前に出て、まっすぐに彼を見つめた。
「……実は、相談があって来たんです。ダンテの…あ、麓の町長さんの娘さんのことなんですけど……最近、体調が良くないみたいで」
セリウスの表情が自然と真剣なものに変わる。
ローワンは今日の出来事を丁寧に話した。ダンテが一人で双子の面倒を見ていること、食欲が落ちて母乳も出にくくなっていること──そして、ダンテが心配していること。
話し終えると、ローワンは少しだけ不安そうに唇を結んだ。
「僕、力になれるかわからないけど……セリウス様なら、きっと何かできるんじゃないかと思って」
その言葉に、セリウスは一瞬、胸の奥が温かくなるのを感じた。
「ごめんなさい、僕、勝手に…」とローワンは付け足したが、セリウスは笑って首を横に振る。
誰かのために、自分の力を求めてくれるのが嬉しかった。
「ローワン、連れて行ってくれるかい?まずはその子のお母さんの様子を見せてもらおう」
「……はい!」
ローワンの返事は明るく、そしてどこか誇らしげだった。
ダンテも、彼の母マリーもセリウスの姿に驚いた様な見惚れる様な反応をしたが、当のセリウスは気にも留めない様子で名乗った。
「ベルトラン・モルフォンドの甥、セリウス・モルフォンドと申します。王都では医官をしておりました」
その名に一番驚いたのは同席していた町長で「モルフォンド卿でしたか!」と声を上げた。
それが"白い悪魔"を恐れるものでも、忌むものでもなかったことの方がセリウスには不思議だった。
「かなり衰弱していますね。まずは水分をよく摂るようにしてください。食事は無理して食べようとせず粥等消化の良いものを」
ダンテの祖母が、聞き逃さないようしっかりとセリウスを見ながら頷いている。それに気付いたセリウスは少し話すペースを落として続けた。
「産後半年は経っているようですし、なるべく一日一回は日に当たって、寝たきりは避けてください。少しずつ筋力をつけていきましょう」
言い終わると、ローワンやダンテ達男性陣を部屋から出し、部屋にはマリーとダンテの祖母ユイリーの二人だけになった。
ユイリーがお湯を張ったタライを持って来ると、セリウスは持参したアルコールで自身の手を消毒するとマリーの腹の戻りを確認する。
「…モルフォンド先生、どうですか?」
下腹部の不快感にくぐもった声でマリーは訊ね、その母ユイリーも不安そうな顔で娘の額に掛かる髪を指で梳かす。
「ええ、思ったより大丈夫そうです。まだ少し出血がありますがそれももう古いものです。先ほども言いましたが体調が良い時はなるべく起きていた方がいい」
本来なら授乳することで伸びた腹が元の大きさに戻るのを助けるのだが、マリーの場合は母乳が出ないことでそれが叶わなかった。
「腹が元の大きさに縮むことで古い血の塊が出ていくのですが、それが遅れているのです。不安はあるかと存じますが、かと言って寝かせすぎは逆効果です。ゆっくりで構いません、少しずつ筋力を戻していきましょう」
ゆっくりと、二人がイメージできるようにセリウスが説明すると、二人の顔にもようやく安堵の色が戻った。
ダンテの家を出る際に、セリウスはハーブの入った袋をユイリーに手渡した。
「腹の収縮を助けるお茶です。薬というほどではないので特に制限はありません。よければ普段のお茶代わりに召し上がって下さい」
西陽を浴びた彼の髪が金色に染まり、ユイリーは息を飲む。
美しき聖人に深々と頭を下げると彼女は言った。
「セリウス様、本当に、ありがとう存じます。この様な形でしたが、あなたにお会いできて、私達家族も、領民も嬉しく思っております。
王都ではきっとご不便もあったでしょうが、ここではあなたの故郷と思って気兼ねなく私共を頼って下さいませ。
ここは亡きセリーヌ様の故郷。皆、あなたの家族です。」
ユイリーの隣で、夫のアンディも笑顔を湛えて静かに頷いた。
セリウスは油断すれば泣いてしまうかもしれない自分をぐっと抑えた。心が熱くて、どうにかなってしまいそうだった。
彼は静かに、けれど優しく通る声で「こちらこそありがとう存じます」と返した。
心を込めて。
外の空気は室内よりも少しひんやりしていて、ローワンはそこで待っていたダンテと目を合わせた。
「どうだった?」と緊張した面持ちで訊くダンテに、ローワンはほっとしたように微笑む。
「大丈夫そうだよ。おばさん、しばらく休んでゆっくり戻していけるみたい」
その言葉に、ダンテは肩の力が抜けたように深く息を吐き、空を見上げた。
「……よかった」
そこへセリウスも加わり、穏やかな声で言った。
「焦らず、少しずつだ。きみも無理をしすぎないように」
ダンテは目を丸くし、すぐに耳まで赤くして「は、はい!」と返事をした。
ユイリーたちに見送られ、ローワンとセリウスは家を出た。
しばらく歩きながら、ローワンはちらりと横を見る。
夏の盛りに比べると日差しも和らいだものになり、外套は必要ないようだったが、その美しい空色の瞳は眼鏡によってうっすらと隠されている。
セリウスは無言のまま、指先をそっと胸元に添えていた。眼鏡の下の表情はどこか柔らかく、けれど揺らいでいるようでもある。
「セリウス様……?」
「少し、胸が熱くてね。悪いものじゃないんだが」
ふっと息を漏らして笑うと、彼は歩調を緩めた。
「ローワン、帰ったら少し本を読まないか?なるべく帰りが遅くならぬ様にはするから」
珍しい彼の頼みに、ローワンは胸が高鳴るのを感じながら、静かに頷いた。
麦の袋を結び直していたダンテは、遠ざかる二人の背中を一瞬だけ羨望の色で眺めたが、すぐに頭を振って双子の妹たちを抱き寄せた。
「よーし、もうちょっとで終わるぞ。がんばろうな」
小さな手がダンテの袖をつまんで揺れ、それに応えるように少年は笑った。




