実りゆく心
夏の間、セリウスはほとんど外に出ない。
陽が強くなる前の早朝か、夕日に照らされた畑が金色に沈む頃──そのわずかな時間だけだ。
だから今も、屋敷の窓辺に腰掛け、従者たちが麦の刈り取りに汗を流す様子を眺めていた。
幼い頃、彼もあの輪に入りたくて畑仕事を手伝ったことがある。
けれど日差しに弱い体を知らぬ彼は、見る間に顔を真っ赤に腫らして倒れ、養母は半ば泣きながら「気持ちだけで十分よ」と抱きしめたものだった。
思い出して、セリウスはふっと笑った。こんなふうに自然に笑えるのも、最近のことだ。
王都にいた頃は、常に誰かの視線にさらされ、不安を押し隠すように背筋を伸ばしていた。
“癒し”の力のおかげで断罪は免れたが、その力ゆえに聖者のように崇められる一方で、災厄の器のように忌み嫌われもした。
矛盾する感情が絶えず降りかかり、どこに立っていても足場が安定しなかった。
本当はただ、誰かの役に立ちたかっただけなのに──。
そう願った幼い日の自分を、救ってくれたのは養父母の温かい手だった。
そして成長してからは王族でありながら彼を当たり前のように利用したりはしない国王と王弟、彼を信頼して助けを求めてくれた子どもたち。
ローワンが不安を吐き出したあのとき、胸の奥に静かに波紋が広がったのは、その記憶があるからだ。
目の前の少年の揺れる心は、かつての自分にも似、そして本来なら一番支えてやりたかった彼にもよく似ていた。
──守ってやりたい。
その気持ちは、善意というより本能に近い。
とても傲慢で、相手の望みかどうかも分からない。
けれど、養母やアルヴェル、自分を信じてくれた人々の様に、自分も誰かの支えになれたらと願ってしまう。
その気持ちの根源が何であるかなど、どうでもよかった。
ローワンがこちらに気づき、眩しいほどまっすぐに手を振ってくる。
人好きのする、それでいて芯の強い少年の姿を見ていると、自分の情けなさに苦笑が漏れた。
彼は、誰かの手にしがみつかなければ立てない子どもではない。
助けを乞うより先に、歩く道を自分で見出そうとする。
あの揺らいだ瞳でさえ、沈むことなく前を向けるだけの力をもう持っている。
こちらが「守る」などと考えること自体、もしかするとずいぶん思い上がっているのかもしれない。
だからこそ、セリウスはそっと息を吐いた。
(では私は……あの少年のように、自分の足で強く立ち上がれるだろうか)
ローワンの姿はいつしか丘の向こうへ消えていた。
セリウスは窓辺に立ったまま、柔らかな風が渡る麦畑の向こうへ静かに目を凝らした。
その胸には、守るためではない、自分自身のための強さへの願いが、ゆっくりと息づき始めていた。
*
「セリウス様、よろしいですか?」
ローワンの声だった。
訪ねてくる時間としてはいつも通り──けれど、どこか足取りの弾む気配がある。
「入っておいで」
ローワンは小さく頭を下げて部屋に入った。
セリウスは手元の本を伏せる。古びた装丁の医学書で、治療技法の図が細かく描かれた少し難解なものだ。
「難しそうな本を読んでいますね。どんな本なんですか?」
少年の瞳が、自然とその表紙に吸い寄せられる。
驚きと好奇心の混ざった視線を向けられ、セリウスは思わず苦笑した。
「薬草や治療技法についての書だよ。少し古い書物でね。いずれ、役に立てばと思って読み返していた」
ローワンは興味を隠せず、そっと机に近づいた。
「……すごい。こんなに細かい絵、初めて見ました。すごいですね」
その言葉に、セリウスの胸の奥がやわらかく揺れた。
つい先ほど、窓辺で思い描いた“強さ”とは違う、少年らしいきらきらと澄んだ光のようなものがローワンの瞳の中にあった。
「ローワン」
「はい?」
「もし興味があるのなら……もっとたくさんの本がある。見てみるかい?」
「はい、ぜひ!」
少年が間髪いれずに二つ返事をすれば、セリウスは堪らずふふっと笑ってしまう。
二階に続く階段の脇にある大きな扉の前に二人は立っていた。
美しい彫刻が刻まれたマホガニーの扉は、艶やかな光沢を帯び、きちんと手入れされていることが一目でわかる。
「ここは客人にはあまり見せない場所だが……君なら、いいだろう」
ギギ…と軋んだ音を立てて扉が開くと、乾いた香りが流れ出した。
書架が壁一面に並び、床から天井まで本で満ちている。
けれど圧迫感はなく、光を柔らかく受けとめる静かな空気があった。
「すごい……」
ローワンは息を呑んだ。
書架には自分の屋敷では見ない本が数多く並んでいて、とても興味深かったがいかにも高価そうなそれらに気安く触れていいものか些か躊躇われた。
「遠慮せず、手に取りなさい。ただし、乱暴に扱わないこと」
少年の心中を察してセリウスはそう声を掛けた。
読書が好きなのだと聞いたときから、見せてやりたいと思っていた。
自分では持て余す膨大な書籍が前途ある若者に使ってもらえることはセリウスにとっても嬉しい。
「もちろん!」
ローワンは背伸びをして一冊の本を抜き取る。
羊皮紙の手触り。重み。
知らない言葉。知らない土地。知らない歴史。
ページをめくるごとに、世界が開いていく。
セリウスは横で自分の分も本を選ぶ。
ちらとローワンを見ればきらきらと瞳を輝かせて紙面を見つめている。
その様子がとても可愛らしくて、ほんの少し息をもらす様にして笑った。
「ローワン」
「ええ?」
ローワンは顔を上げた。
セリウスの声は、風に混じるほど静かだった。
「知りたいという気持ちは、きっと君の足元を照らしてくれる。得た知識が、君にたくさんの選択肢をくれる。だから、存分に自分の思うままに学ぶことだ」
かつて自分が救われた知の世界で、目の前の少年は何を見つけるだろう。
きっと彼のことだ。深く潜っていくのではなく、彼の世界を広げる方に向かうのだろう。
漠然と、そんな気がした。
「……うん。もっと知りたい」
ページをめくると現れる精細な筆致で描かれた大陸。交易の路。軍路。水脈。国境線。
世界は広い。少年が今見ている空の、ずっと向こうまで続いている。
ローワンの目が、燃えた。
セリウスはその光を見て、少し羨ましいとさえ思った。
ああ、また彼は強くなる──。
その予感が嬉しくて、頼もしい。
自分も、強くなりたい。
祈るだけでは、もう足りない。
あの少年が光へ向かうなら、自分もまた少しでも進み出さねばなるまい。
*
その夜、セリウスの部屋の灯は遅くまで消えることがなかった。
あのとき──子ども達の命をほんの数日繋ぐだけの食事を与えるよりももっと、彼らのためにできた事。
自己満足に終わらない何かを見つけたい。
──自分が女神の子であるのなら。
窓の外で、虫の音だけが響いていた。




