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女神の国 1  作者: 大福駒子


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Identity


 昼下がり。ひと仕事終えた従者たちの集まるテーブルには冷ましたハーブティーが置かれていた。


 「そういえば、ローワン。姓は?」

と、執事のクロムウェルが何でもないような口調で尋ねた。


「あ、そうでしたね!僕、ローワン・ランドフォードと申します」

 

 その名を聞いて、クロムウェルの手が止まった。


「おやおや…ランドフォード男爵家の。そうでしたか」


「麓の町の領主の家だろう?」と、別の従者。


「ご当主様がお身体を悪くされてからは、辺境にあるこの分領地を遠縁に預けるとのことだったが…。では、ローワンはそのご子息なのですな」


 クロムウェルの話を静かに聞き終えた後、ローワンは、ふ、と薄く微笑んだ。

 胸の奥にぎゅっと潰して閉じ込めていた恐れがジワリと滲み出す。


「実は僕、…込み入った事情は、あまりよく知らないんです。母から聞いたのは、僕が赤ん坊の頃に父が他界してしまったとだけ。」


 さらりと言ったつもりだった。

 でも、自分の声がどこか“触れられまい”とする薄い膜に包まれているのが分かる。


 従者たちの表情が曇った瞬間、ローワンの心に小さく波が立つ。

 ──だから、言いたくなかったんだ。

 可哀想な子だと見られる感覚が、ほんの少し怖い。


「ああ、そんな顔しないで?

 僕は僕、もう今はそう思えているんですって」


 慌てて笑う。でも、その笑顔も“相手の心配をそっと押し返すためのもの”に近い。

 それでも話さなければ、ずっと自分の中に澱のように沈んだままになる気がした。


 視線を上げたとき、台所の入り口にセリウスの姿があった。


「セリウス様!」


 従者たちが一斉に姿勢を正す。

 その緊張感の中で、セリウスだけがひどく柔らかい空気をまとっていた。


「ああ、すまない…。話が弾んでいるようだったから」


 そっと眉を下げる。

 その表情を見ただけで、ローワンの胸のざわめきがすうっと落ち着く。


 ここに来てから、息がしやすいと感じる理由が分かる。

 彼も、彼の従者たちも、男爵家の“子息”ではなく──ただのローワンとして扱ってくれる。

 その距離感が、胸の奥の重石のようなものを少しずつ溶かしていく。


 幼い頃、父の死後に援助してくれた遠縁の男性。

 母にしてみれば頼るしかなかったのだろう。

 けれど、成長するにつれローワンは、周囲の視線の意味を理解してしまった。


 “結局はそういうことだったのだろう”

 “大人たちの噂は、全部的外れではないのだろう”


 そう考えてしまうたびに、胸がきゅっとなる。

 あれは母を守るための選択だったはずなのに。

 なぜ自分がこんな気持ちにならなければならないのか、と。

 だからこそ、名を名乗らずにいられる場所で、ほんの少し自由になれたのかも知れない。


「ではローワン、これからは君をただのローワンとして扱おう。君がこれからも自分は自分だと思えるように」


 彼のその言葉が胸に触れた瞬間、張っていた薄い膜がひとつ音を立ててほどける。


 温かいものが、ゆっくりと胸の奥に広がった。


「……はい。ありがとうございます」


 ローワンは、今度こそ素直な笑顔で返した。



 その言葉に呼応するように、新しいカップを出しながらシンディがローワンに目配せをして、ナディアは笑みを浮かべ、ティーポットからローワンのカップにお茶を注ぐ。

 全てが調和した優しい空気だった。


「セリウス様、お茶の用意が整いました」


 ナディアがそう告げると、セリウスは盆に置かれたカップへ視線を落とし、ためらうことなく指先で取った。

 本来なら主人の席に用意された場所へ戻るべきだと、クロムウェルがすぐに椅子を引いて控えめに促す。ナディアも思わず「まあ…」と小さく息を漏らした。


 だがセリウスは、その二人の気遣いをさらりと受け流すように、口元へいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「ここで構わないよ。たまにはね」


 そう言って、立ったまま従者たちと同じ距離で一口含む。

 彼のその姿に、場の空気がふっと和らぎ、ローワンも少し照れながら、しかし嬉しそうにカップを手に取った。

 爽やかなハーブティーの香りが鼻をくすぐる。


 季節は鮮やかな夏の盛りを迎えていた。



 それは、胸の奥をそっと撫でられたような安心を覚えた日の、ほんの数日後のことだった。


 ローワンは、玄関先でストールを整える母をじっと見つめていた。


「──行くの?」

 リディアが気配に気づいて振り返る。


「ええ。町長さんのところへ、少し相談があってね。それから、パン屋にも寄ろうかと思って」


 いつも通りの、やわらかい物腰。

 これまではローワンも、こうして母が領地の細々とした用件で外に出るとき、屋敷に残るのが当たり前になっていた。


 “領主の子息”らしき振る舞いを求められたくない。

 噂の視線がどこかに潜んでいるかもしれない。

 そんな気持ちを持て余して、外の世界に自分の姿を投じるのが億劫だった。


 ……けれど。


「母さん」


 呼び止める声が、自分でも驚くほど明るかった。


「今日は、僕も…ついて行ってもいい?」


 言った瞬間から、肩に力が入る。

 断られるとは思わない。けれど、母はどう反応するだろう……。

 幼い頃からずっと、ローワンの繊細な気質を誰よりも理解してきた人だ。


 リディアは一度、瞬きをした。

 それから、ほんのり頬をゆるませる。


「ええ? ……ええ、もちろんよ。ローワンが一緒なら、きっと良い日になるわ」


 その反応に、胸がじわりと温まる。

 嬉しそうな母の顔を見るのは久しぶりだ。

 以前なら“無理をして外に出なくてもいいのよ”とそっと抱き締めてくれたかもしれない。

 けれど今日は違う。

 母は、ローワンの変化をそっと受け止め、誇らしげに微笑む。


「じゃあ……えっと、ちょっと待って。帽子だけ取ってくる!」


 ローワンは踵を返し、小走りに階段を駆け上がった。

 胸の内には、あの日セリウスに触れられた優しい温もりが、まるで灯りのように小さくとも確かに灯っている。


(僕も……ちゃんと、この町の一人でいいんだ)


 そんな気持ちが、ほんの少し勇気を押してくれたのだった。


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