Identity
昼下がり。ひと仕事終えた従者たちの集まるテーブルには冷ましたハーブティーが置かれていた。
「そういえば、ローワン。姓は?」
と、執事のクロムウェルが何でもないような口調で尋ねた。
「あ、そうでしたね!僕、ローワン・ランドフォードと申します」
その名を聞いて、クロムウェルの手が止まった。
「おやおや…ランドフォード男爵家の。そうでしたか」
「麓の町の領主の家だろう?」と、別の従者。
「ご当主様がお身体を悪くされてからは、辺境にあるこの分領地を遠縁に預けるとのことだったが…。では、ローワンはそのご子息なのですな」
クロムウェルの話を静かに聞き終えた後、ローワンは、ふ、と薄く微笑んだ。
胸の奥にぎゅっと潰して閉じ込めていた恐れがジワリと滲み出す。
「実は僕、…込み入った事情は、あまりよく知らないんです。母から聞いたのは、僕が赤ん坊の頃に父が他界してしまったとだけ。」
さらりと言ったつもりだった。
でも、自分の声がどこか“触れられまい”とする薄い膜に包まれているのが分かる。
従者たちの表情が曇った瞬間、ローワンの心に小さく波が立つ。
──だから、言いたくなかったんだ。
可哀想な子だと見られる感覚が、ほんの少し怖い。
「ああ、そんな顔しないで?
僕は僕、もう今はそう思えているんですって」
慌てて笑う。でも、その笑顔も“相手の心配をそっと押し返すためのもの”に近い。
それでも話さなければ、ずっと自分の中に澱のように沈んだままになる気がした。
視線を上げたとき、台所の入り口にセリウスの姿があった。
「セリウス様!」
従者たちが一斉に姿勢を正す。
その緊張感の中で、セリウスだけがひどく柔らかい空気をまとっていた。
「ああ、すまない…。話が弾んでいるようだったから」
そっと眉を下げる。
その表情を見ただけで、ローワンの胸のざわめきがすうっと落ち着く。
ここに来てから、息がしやすいと感じる理由が分かる。
彼も、彼の従者たちも、男爵家の“子息”ではなく──ただのローワンとして扱ってくれる。
その距離感が、胸の奥の重石のようなものを少しずつ溶かしていく。
幼い頃、父の死後に援助してくれた遠縁の男性。
母にしてみれば頼るしかなかったのだろう。
けれど、成長するにつれローワンは、周囲の視線の意味を理解してしまった。
“結局はそういうことだったのだろう”
“大人たちの噂は、全部的外れではないのだろう”
そう考えてしまうたびに、胸がきゅっとなる。
あれは母を守るための選択だったはずなのに。
なぜ自分がこんな気持ちにならなければならないのか、と。
だからこそ、名を名乗らずにいられる場所で、ほんの少し自由になれたのかも知れない。
「ではローワン、これからは君をただのローワンとして扱おう。君がこれからも自分は自分だと思えるように」
彼のその言葉が胸に触れた瞬間、張っていた薄い膜がひとつ音を立ててほどける。
温かいものが、ゆっくりと胸の奥に広がった。
「……はい。ありがとうございます」
ローワンは、今度こそ素直な笑顔で返した。
その言葉に呼応するように、新しいカップを出しながらシンディがローワンに目配せをして、ナディアは笑みを浮かべ、ティーポットからローワンのカップにお茶を注ぐ。
全てが調和した優しい空気だった。
「セリウス様、お茶の用意が整いました」
ナディアがそう告げると、セリウスは盆に置かれたカップへ視線を落とし、ためらうことなく指先で取った。
本来なら主人の席に用意された場所へ戻るべきだと、クロムウェルがすぐに椅子を引いて控えめに促す。ナディアも思わず「まあ…」と小さく息を漏らした。
だがセリウスは、その二人の気遣いをさらりと受け流すように、口元へいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「ここで構わないよ。たまにはね」
そう言って、立ったまま従者たちと同じ距離で一口含む。
彼のその姿に、場の空気がふっと和らぎ、ローワンも少し照れながら、しかし嬉しそうにカップを手に取った。
爽やかなハーブティーの香りが鼻をくすぐる。
季節は鮮やかな夏の盛りを迎えていた。
*
それは、胸の奥をそっと撫でられたような安心を覚えた日の、ほんの数日後のことだった。
ローワンは、玄関先でストールを整える母をじっと見つめていた。
「──行くの?」
リディアが気配に気づいて振り返る。
「ええ。町長さんのところへ、少し相談があってね。それから、パン屋にも寄ろうかと思って」
いつも通りの、やわらかい物腰。
これまではローワンも、こうして母が領地の細々とした用件で外に出るとき、屋敷に残るのが当たり前になっていた。
“領主の子息”らしき振る舞いを求められたくない。
噂の視線がどこかに潜んでいるかもしれない。
そんな気持ちを持て余して、外の世界に自分の姿を投じるのが億劫だった。
……けれど。
「母さん」
呼び止める声が、自分でも驚くほど明るかった。
「今日は、僕も…ついて行ってもいい?」
言った瞬間から、肩に力が入る。
断られるとは思わない。けれど、母はどう反応するだろう……。
幼い頃からずっと、ローワンの繊細な気質を誰よりも理解してきた人だ。
リディアは一度、瞬きをした。
それから、ほんのり頬をゆるませる。
「ええ? ……ええ、もちろんよ。ローワンが一緒なら、きっと良い日になるわ」
その反応に、胸がじわりと温まる。
嬉しそうな母の顔を見るのは久しぶりだ。
以前なら“無理をして外に出なくてもいいのよ”とそっと抱き締めてくれたかもしれない。
けれど今日は違う。
母は、ローワンの変化をそっと受け止め、誇らしげに微笑む。
「じゃあ……えっと、ちょっと待って。帽子だけ取ってくる!」
ローワンは踵を返し、小走りに階段を駆け上がった。
胸の内には、あの日セリウスに触れられた優しい温もりが、まるで灯りのように小さくとも確かに灯っている。
(僕も……ちゃんと、この町の一人でいいんだ)
そんな気持ちが、ほんの少し勇気を押してくれたのだった。




