【Side-story】illuminare
花街の外れにある小さな酒場は、王城から最も遠いのに噂だけは一番近い。
色の薄い酒を舐めるように飲みながら、ヘリオスは周囲のざわめきを面白そうに聞き流していた。
「聞いたか?あの“白い悪魔”がとうとう王都を出ていくってよ」
「モルフォンド卿も肝を冷やしただろうよ。神の子の力だか何だか知らんが、あんな異端を養子にしたばかりに一族の誇りに泥を塗るところだったんだからよ」
「王宮仕えなんぞにしておくからだ。教会に閉じ込めていれば、王弟殿下が惑わされることもなかったものを」
「やれやれ、これで王弟殿下もようやく妃を迎える“おつもり”になるだろうよ。悪い寄生虫がいなくなったんだからな」
ヘリオスはグラスの縁を指でなぞりながら、小さく息をついた。
(——まったく、好き勝手言うもんだね)
グラスの底に残った、ほとんど真水のそれを飲み干して、わざとらしく靴底を鳴らして店を出ていった。
*
《ヴェラーダ》の帳場——
薄紫の煙が絡む中、主人は笑顔のまま額に汗を浮かべていた。
まるで香の匂いよりも、恐怖の方が濃く立ちのぼっているようだった。
「……おや、そんな顔をしなくても。
ただの世間話だよ。ね、あんたもお喋りは嫌いじゃないだろう?」
ヘリオスは指先でグラスを傾け、卓上に映る光を弄ぶ。
その声はいつものように柔らかく、勧められた酒を愉しむ客そのものだ。
ただ。
彼の目だけは、相変わらず笑っていない。
「どうして、子どもが消えた夜に"あの"荷箱が積まれていたんだろうね。酒箱とは別に何を仕入れたの?それとも、あんたが送ったのかな?」
「……な、何を——」
眼前で細められたヘリオスの鋭い眼光に、店の主人は身慄いした。
「はは、まあそうだよね。あんたは上手くやったよ。ただ、運が悪い」
そう、運が悪かったのだ。
子どもが消える数時間前、ヘリオス達近衛師団は「たまたま」あの路地にいた。
火が落ちればほとんど何も見えないあの場所が、松明の灯に照らされるはずなどなかったのだ。
酒や食材を入れるにはやや大きめの箱を、その時はまだ「気前のいい客からの袖の下」か何かだとヘリオスは思っていた。
だが実際は——。
主人が何も言えず俯くと、ヘリオスの手の下に見慣れた帳簿の写しがあるのに気づく。
彼はそれを指先で軽く叩いた。まるで退屈な講義のリズムみたいに。
「ご存知ないのなら説明させていただこう。あんた以外にも"お誘い"を受けた者が結構いてね。
似たような積荷が出なきゃ、こうして今僕と話なんてしていなかっただろうに」
主人の顔色が、まるで砂のように崩れていく。
何かを言いかけて、飲み込み、唇が震えて上手く話せない。
「……あの、わ、私は…いえ、こ、この店はどうなるのですか……?」
「うん、そうだよね。大丈夫」
ヘリオスは立ち上がった。
外から吹き込む夜風が、煙を払うように通り抜ける。
「僕は正義が好きってわけじゃない。
でもね、嘘が下手な奴は、どうにも見ていられないんだ」
窓の外の灯りを背に、彼は振り返る。
「あんたを"お誘い"した御仁、僕も会ってみたくてねぇ…。どうだい、悪い話じゃないと思わないかい?」
彼に選択の余地など、なかった。
*
教会本部から戻ったアルヴェルは、やれやれと執務室のソファに沈み込んだ。
国王曰く「教皇はあれでいて案外まともだ。あとのことは任せてやれ」とのことだったが、あの爺のしたたかさを知る彼には、どうにも釈然としない。
教会の権威に傷がつかぬよう、いつの間にか“手柄”の形を整えてしまうのだろう——そんな未来が目に浮かぶ。
それに納得いかない気もして、アルヴェルは眉を寄せて拗ねた子どものように鼻を鳴らした。
静かに扉が叩かれた。
入ってきた従者はアルヴェルの様子に表情一つ崩さない。
少年の頃から仕えているからか、彼が時折こうして王弟の仮面を外しても、驚きもせず淡々と受け止める。
「……殿下。文が届きました」
頃合いを見て声を掛ける従者の名はノエルドという。
彼は数刻前アルヴェルが単独で教会本部に向かう気だと察し、すぐ王へ報告した“功労者”でもある。
信じた道に一直線の行動力は頼もしいが、夢中になると周りが見えなくなる——そんな主に、これまで何度振り回されてきたことか。
「……手数をかけた」
アルヴェルは小さく咳払いをして姿勢を正し、文を受け取った。
差出人の名を確認した途端、表情がわずかに揺れる。ノエルドは静かに下がった。
静かに封を切る。
紙は一枚だけ。
「アルヴェル王太子殿下」と恭しく書き出しながら、内容はどうにも穏やかではない。
茶会の誘いのように軽やかな筆致で、毒を一滴垂らしたような名が綴られていた。
アルヴェルはわずかにその名前を注視した後、元の通り折りたたんで暖炉に投げ入れた。
——どのように使うか、
あなたのお気に召すままに。
炎が最後の文字を呑み込むのを見届けて、誰にも知られぬまま——彼は静かに決意した。




