大聖堂
聖堂本部。
荘厳な回廊を進むアルヴェルに、随行者たちは息を張りつめてついてゆく。
出迎えた高位司祭たちは、王弟が単身で訪れたことに露骨に戸惑いを見せた。
「王弟殿下?…本日はどのような──」
「単刀直入に申し上げます」
柔らかな物腰の裏で、言葉は刃のように鋭かった。
「北東聖堂にて“重大な疑念”が発生しています。本部のご査察を、直ちにお願いしたい」
司祭たちは困惑の色を濃くする。
「な、何かの行き違いでしょう。あそこは既に閉堂されているはずで──」
「その閉じたはずの聖堂が…今何に使われているかをご存知でしょうか」
アルヴェルの声は一段低く落ちた。
その静けさが、むしろ司祭たちの背筋を震わせた。
「聖域を、醜悪な企てに利用するものがいる、との報告が上がって来ております。誠であれば一刻も早くお耳に入れていただきたく馳せ参じた次第です」
アルヴェルは胸の内の烈火をひた隠すように殊勝な態度で述べた。
しかしその眼差しだけは、どこまでも冷たく澄んでいた。
「陛下としては──教会の名誉が傷つく事態を望まれません」
司祭の口元がわずかに動きかけたが、アルヴェルは言葉を重ねる。
「どうか本部のご査察をお待ちしております」
“拒めば、もっと都合の悪い形で世に出る”その意味を、聖職者たちも悟ったのだろう。
「し、少々…お待ちを」
一人の助祭が足早に奥へと消えて行った。
*
「やれやれ……どなたかと思えば、王弟殿下ではないですか」
声とともに姿を現したのは、 女神エルメリアの代理人、教皇ラドクリフ・アルメスト。
白金の法衣は華美だが、本人はまるで“隠居した老楽師”のような余裕をまとっていた。
アルヴェルが礼を取ると、周囲の空気は一層張り詰める。
教皇はその緊張を楽しむように微笑んだ。
「“我々の弟”は息災かね?」
敢えて挑発的な言い回し。
アルヴェルは奥歯を噛んだ。
ラドクリフはその反応を楽しむように、肩をすくめて続ける。
「あれは本当に美しく育った。養子になど出さねば、今頃この手で立派な聖職者に仕立ててやれたのだがね……」
教皇は愉快そうに目を細め、指先で白い髭を撫でた。
「……ああでも、殿下の “手ほどき” を受けて、あの子はもう“神の御子”ではなくなってしまったのだろうか?」
わざと語尾を甘く落とす。
露骨に。
耳に触れるほど生々しく。
「まさかとは思うが……若君の“純潔”を奪ったのは、そなたではあるまいね?」
瞬間、アルヴェルの喉奥で何かが爆ぜた。
怒りが胸を焼き、喉までせり上がる。
握りしめた拳が、白くきしむ。
もしここが神殿でなければ——
一歩、踏み込んでいた。
刃を剥きかけたアルヴェルを我に返らせたのは、部屋の外のどよめきだった。
バラバラとした足音が近づいてきたかと思うと、部屋の扉が開かれた。
「アルヴェル、下がれ。ここからは私の領分だ」
誰もが無意識に背筋を伸ばす——そんな“場を制する”静かな威圧。
国王アーサーの登場に場の空気がガラリと変わる。
ようやくアルヴェルは自分の身体に血がめぐるのを感じ、怒りを鎮めようと静かに息を吐き出した。
教皇ラドクリフはといえば、まるで玩具を取り上げられた子どものように肩を落とし——しかしすぐに、愉快そうに笑った。
「まったく……お前は昔から、私のお楽しみを横取りする」
悪戯を見つかった子供のように肩をすくめる教皇にアーサーは軽くため息をつくと穏やかに言い返す。
「……陛下と呼ばれる身の私より、よほど堅苦しい方が何をおっしゃるのですか。
それに——あまり弟をからかわないでいただきたい。爺さまが面白がるのは分かりますが、彼は怒ると本気ですので」
教皇が「ふふん」と鼻を鳴らす。
「まあまあ。わしとて、教会の名を騙って好き勝手している連中を放置するつもりはありませんよ。
そんな真似を許すほど、年寄りは耄碌しておりませぬ」
アーサーは微笑んだ。
「では、協力を。教会の威光が揺らげば、我が国もまた困りますので」
その一瞬——アーサーと教皇だけが、悪戯を共有するよ笑った。
だが周囲の司祭たちは、国の権威が戯れ合う様子に圧倒され、背筋に汗をかきながらただ黙って見ているより他なかった。
*
白い石畳に足を踏み出した瞬間、張りつめていた空気がふっと解けた。
春はもうすぐそこだというのに、陽が落ちれば忽ちに気温は下がっていく。
冷たい外気が肺に満ちて、さっきまで胸を灼いていた怒りの熱が、ようやく落ち着きを取り戻していく。
気づけば、アーサーと肩の高さが並んでいた。
横に並んで歩くのは、いつ以来だろうか。
王と王弟ではなく、ただの“兄弟”に戻るような感覚が、少しこそばゆい。
沈黙を破ったのはアーサーだった。
「……く、っ……」
妙に肩が揺れていると思ったら、堪えきれないというように喉の奥で笑いが漏れた。
アーサーは手で口元を覆いながら、それでも目尻にじんわり涙を溜めて震えている。
「……あのジジイ、また遊んでたなぁ……」
言い終わるより早く、ぷっと吹き出した。
堪えようとして堪えられていない辺り、実にアーサーらしかった。
アルヴェルはまだ苛立ちの尾を引いていて、訝しげに兄を横目で見る。
「兄上……聞いていたのなら早く入って来て下さい」
「いや、悪い……おまえの顔がな。くく…っ、あれは怒るなと言う方が酷だろうな」
アーサーはそう言うと、ぐっと目元を拭った。
そして、ふっと表情を緩め、少しだけ歩みを緩めてアルヴェルの横顔を見た。
「……よく耐えたな、アルヴェル」
その声音には、王の威厳ではなく、兄としてのあたたかさだけがあった。
「……独断で動いてしまい、申し訳ありません」
「それは確かにそうだな。まあでも、あの爺はそういうお前を愉しんでいるところがあるから」
言ってまた、アーサーはくすくすと笑った。
思えば二人とも随分と笑っていなかったなと、アルヴェルはこっそり口角を上げてみる。
「お前がいてくれて良かったよ」
キンと冷えた夜風が吹き抜ける。
そのやわらかな言葉に、胸の奥が急に熱を帯びた。
アルヴェルは堪えるように瞬きを落とし、視線を地へ逃がす。
「時にアルヴェル、あれには報告してやらないのか?」
歩きながら、アーサーが気恥ずかしそうに額をかいた。
その声音は不器用な兄そのものだ。
「今の任も、そのためなんだろう?」
なんでも見透かされているな、とアルヴェルは小さく笑う。
けれど、次に口から出たのは、弟ではなく“王弟”としての言葉だった。
「いいえ。
私にそのような権限はありませんから——国王から、お伝え願えますか」
足を止め、アーサーの前に立ち、静かに頭を下げる。夜の闇が二人の影を地へ長く伸ばした。
その姿を見たアーサーは、ふと胸がつまるような思いを覚えた。
もう、あの頃ただ真っ直ぐに自分の背を追っていた弟ではない。
国の中心に立つ覚悟を宿した、ひとりの“継ぐ者”だ。
ほんの少し、誇らしくて。
ほんの少し、寂しかった。




