冬の時代
季節は巡り、王都の空気もすっかり色を変えていた。
セリウスがいなくなり、代わりに新たな医官が配置されたくらいで、王宮の空気は大して変わらない。
その冷たさが、アルヴェルの胸に一層の隙間風を吹かせ、隙間を埋めるように政務に打ち込ませる。
アルヴェルは今、近衛服の代わりに落ち着いた濃紺の上衣をまとい、執務室の机に山積みになった文書に目を落としている。
かつて剣を携え守っていたものを、今は言葉と判断で守らなければならない立場になった。
──ヴァルセニア王国の版図は、大きく三つの支柱と、それらをつなぐ細流のような領地によって成り立つ。
南には海と交易の玄関口となる ソレイヴァン侯爵領 が広がり、深い港湾は常に異国の香りを運んでいた。
西から中央に向けて弧を描く肥沃な平原は、国の糧を支えるモルフォンド侯爵家の所領。
その中心に 王都が位置し、行政・軍事・宗教の心臓部として機能している。
険しい山岳地帯を境に他国と接する北東部は一年を通して比較的気温の変わらない場所ではあるが、急峻な山道が旅人に試練を与える。
海に面した北部の麓には小規模な酪農や海産資源に依る諸侯領が点在し、一方ゆるやかな丘陵地帯を南下していくと、ぽつりと 最東端の小領地 が現れる。
そこが、セリウスのいる場所だった。
アルヴェルは地図を頭の中でたどった。
その地は、亡き前妃セリーヌの母方──すなわちアーサーと自分の祖母に連なる一族が、かつて所有していた地である。今は王都に暮らす当主から遠縁の者へと管理が移り、役割だけが残されたような領だ。
高台にありながら往来の路は細く、諸侯の領地に囲まれ、視界は開けているのに世界から切り離されている──
まるで誰かが “目に触れさせたくないもの” を置くために選び取ったかのような、静かで孤独な場所。
彼が身を置く領地は安定しているのだろうか──彼の健康や日常は乱れていないだろうか。
政務書類に目を落としながらも、意識は自然と東の領地へと飛んでいく。胸の奥で小さな不安がくすぶっていた。
王弟として王城政務局へ籍を移したアルヴェルは、今では財務と流通の監督を任されていた。それ自体は能力を考えれば自然な配置とみなされたが、その胸にはもうひとつの理由が潜んでいた。
──いなくなった子どもたちの行方は、金と物資の流れの中にある。
軍事・治安からは掴めなかったものが、交易の数字からなら浮かび上がるかもしれない。そう考え、希望してこの職に就いたことを誰にも言えはしなかった。
その日、商隊記録の束をめくっていたアルヴェルの手がふと止まった。
──中央関所発、北東経由、最終目的地《アスロンド公国・港湾都市エレファール》。
南大陸沿岸に位置し、香水原料、染料、珍奇動植物の取引で栄え、そして 「競り市」 文化が発達している。
希少品であれば生体・芸術・技術者すら取引対象となる国だ。
穀物、薬草、織布、乾物類、果実──内容だけを見れば何の不自然もないが──。
(あの国を相手に……“布地と果実”を、か?)
今でこそ交易により栄えているが、一年を通して春のような気候に、南に面して緩やかな台地のあるエレファールの特産は柑橘類だ。わざわざ時間と労力のかかる陸路で、高い需要があるとも思えない品目を運ぶメリットはあるのだろうか。
だがそれよりももっと不自然なのが、商人なら誰しもが気にするはずの積載率。
物の容積に対して明らかに大きな規格は輸送費をドブに捨てるようなもの。
本来ならもうふた回りほど小さな規格に詰めば、ロット数も稼げる上に、荷揚げ作業もしやすいものだが。
最初は単なる記入漏れか、担当役人の凡ミスだと思った。
だが帳簿を遡っても、まったく同じ規格の木箱が、およそ三ヶ月周期で必ず輸送されている。
(……なら、中身が最初から “記載通りではない” か、あるいは “記載してはいけない類” のものだとしたら?)
少なくとも需要を考えたら希少鉱石や兵器の類はこの重さでは少なすぎる。それとは逆に禁制薬物や生薬では嵩張ってしまう。
形状がほぼ一定で、重量の誤魔化しが可能、規格の大きい木箱に入っていても荷の上げ下げに苦慮しない…。
(荷揚げの必要がない?…家畜、いや…)
喉の奥が、小さく軋んだ。
心臓が「そうだ」と言っている。
記録には積荷はアスロンド公国入国前に、一度北東の聖堂にて積み替えをしていた。
(聖堂……?そんな場所、地誌にも寺院録にも載っていない)
喉の奥に、氷片のような気配が落ちる。
──待機場所か。
選別し、整え、商品にするための。
「まさか……。子どもを……競りに出すのか」
その瞬間、背に冷たい汗が落ちる。
拐かされた子どもたちが貴族や商人に売られることは予測していた。だからこの職務に就いたのだから。
だが、それは国内で起こっていることだとアルヴェルは思っていた。
もしこの仮説が正しいならば──
国を守る者として、見過ごすことはできない。
アルヴェルは長く息を吐き、帳簿を静かに閉じた。
もう二度と、守り損なわない。
もう二度と。
椅子を押しやる音が、ひどく冷たく響いた。
向かう先は一つ──
王、アーサーの執務室。
扉を叩く音にアーサーは短く「入れ」と返した。
静かに入室したアルヴェルは一礼し、まっすぐ顔を上げた。その険しさに、アーサーは無意識に姿勢を正す。
空気を悟った従者が退室すると、アルヴェルは一歩だけ前へ進み、告げた。
「兄上。定期交易記録の一部に、看過できぬ不整合が見つかりました」
アーサーは手元の文書を静かに置き、続きを促す視線を送る。
アルヴェルは息を整え、淡々と、しかし淀みなく語り始めた。
「表向きは“布類・果実・薬草類”ですが、梱包規格、重量比、輸送便数──整合性がありません。
経由地に登録されている北東の聖堂は司祭名不明、記録も欠損。
更に最終輸送先がアスロンド公国エレファール──競の盛んな地で、北東山岳を越える迂遠なルートを使う理由が見当たりません」
その一言一句に、抑えた怒りと理性が交じる。
アーサーの眉がわずかに揺れた。
「……つまり、お前は“何か良からぬもの”が運び出されていると考えている、ということだな」
「断定には至りません。しかし、“物資”とするには不自然すぎます。隠し、選び、移している。それは意図のある動きです」
静寂。
アルヴェルは言葉を選ぶように、一瞬だけ目を伏せ、そして刺すような静けさで続けた。
「もし仮に……それが人であるなら。
我が国は“神に選ばれた民”を自ら捨てたと見なされるでしょう。
エレファールにとっては格好の口実──『神に護られた崇高な国が、己の民を家畜と同列にした』と」
アーサーの喉が、わずかに鳴った。
そこでアルヴェルは、王弟の外套を静かに脱ぎ落とすように、素の声で踏み込んだ。
「兄上……仮に、その中に ティアベアラー がいたとしたら?」
瞳が揺るがぬ灯火のように燃えた。
怒号よりも強い、祈りにも似た願い。
「守るべきは領土でも威光でもありません。
私たちの国を形づくる“魂”です」
*
仮に人命がかかっているのなら早いに越したことはない。
アーサーが決断すると、たちまちに視察調査団が招集され、アルヴェルはその中心となって任務にあたった。
旅人を装った先駆け隊の内偵調査では何も証拠は出なかった。だがそれも想定内。アルヴェルは建物裏手側の雑木林に潜伏させた第二隊に引き続き状況を追うよう命じた。
その二日後、現地視察団からの報告が早馬で届いた。
──奴隷輸送に、閉鎖されたはずの聖堂が使われていることを確認。表向き孤児の共同生活施設だが、敷地の外には出られぬ様徹底した管理体制あり。
確認できただけでも数十人単位の規模。
男児は主に農耕、厩仕事を行っており、お清めと称する虐待が横行。時に拘束具を装着されている。
女児については不明だが、おそらく女児のものであろう衣服が干されている事を確認済み。聖堂内に監禁されていると推測される──。
「……やはり。これは、慈善事業の皮を被った“何か”だ。」
アルヴェルは息をひとつ落とし、報告書の角を揃えながら目を細めた。
冷静であろうと努めてはいるが、胸中では小さく軋むような怒りが熱を持つ。
──聖堂が、か。
神の御名を掲げ、民に安寧を説く場であるはずの場所が、よりにもよって人を囲い、売り捌く拠点になっている。
もしこれが公になれば、“人を神に捧げている”と捉える国も必ず出てくるだろう。
ヴァルセニアの信仰の根が腐ったと──その程度では済まない。
アルヴェルは、ゆっくりと深く息を吸った。
怒りを飲み込んだのではない。
燃え上がる火を、理性で形に整えるための呼吸だった。
「兄上の御代を……貶めるような真似は、決してさせぬ。」
ぽつりと落とした声は低く澄んでいた。
聖堂は教会本部の管轄だ。
王が勝手に踏み込めば“神への冒涜”と喧伝されかねない。
しかし、このまま見過ごせば、今度は神の名を騙り民を売った罪が、国王の頭上に落ちる。
どちらも最悪。
ならば、間を切り開くしかない。
アルヴェルは椅子から立ち上がり、窓外に広がる王都を一瞥した。
石畳の向こう、聖堂本部の尖塔が見える。白い塔は今日も光を受け輝いていたが、その美しさが今は妙に空々しい。
「行こう」
呟くと同時に、決意はもう揺らぎもしなかった。




