出立の日
夜明け前の王都は、すでに冬の息を吐いていた。
馬の蹄が石畳を叩くたび、薄い霧が音もなくほどけていく。
その日の早朝、王弟アルヴェルは近衛師団の任を下りることをアーサー王に願い出た。
近衛から罪人が出た責任だけが理由ではない──それを分かっていても、アーサー王は怒らない。
むしろ申し訳なさを滲ませて言った。
「……お前に剣を与えた私に、責任はある。あまり、自分を裁きすぎるな」
アルヴェルは答えない。
ただ、胸の前で剣を水平に捧げて差し出した。
同じ朝、セリウスは療養の名目で辺境の地へ送られることになっていた。
同じ王都の空の下で、異なる旅立ちを告げようとしていた。
支度を終えたアルヴェルの部屋に、ヘリオスが入ってきて、言う。
「いやいや、良かったじゃないか。これで朝から晩まで書類に追われずに済む」
いつもの軽口も宙を滑って落ちた。
「……会わないのかい?」
代わりに、短く問う。
逃げ場のない問いだった。
アルヴェルは鞍袋を締める手を止めずに、低く答える。
「行っても結果は変わらない。
会えば……きっと、言うべきでないことを言ってしまう」
「結果なんて、いつだって後から変わるものだろ」
ヘリオスの声は、珍しく尖っていた。
「伝えなければならないことがあるだろう。
謝るでも、言い訳でも、なんでもいい。
何かを渡してやらなきゃ、あの御仁の事だ、ずっと──」
「──分かっている」
アルヴェルが、静かに遮った。
その声には、抑え込まれた熱があった。
「だがもうこれ以上、苦しめたくはない」
ヘリオスは黙り込んだ。
やがて小さくため息をつき、窓の外の霞んだ街並みを見た。
門の向こう、王都の東端に並ぶ馬車の列の中に、
療養地へ向かう隊列が見える。
あの中に、セリウスがいる。
「……王族ってのは、ほんと孤独な生き物だな」
呟きながら、ヘリオスは背を向けた。
「でもな、孤独を盾にするのは、少し卑怯だぞ。」
アルヴェルは返さなかった。
ただ、机の上に投げ捨てられた筆を見つめていた。
“セリウス・モルフォンドを療養地へ送る”
──あの決定にサインをしたのは他ならぬ自分自身だ。
記憶の中に残るのは、あの夜。
困惑に揺れた瞳。
氷のように無表情な自分の声。
扉の外から、出立を告げる号令が響いた。
アルヴェルは深く息を吸い、外套の襟を立てる。
じっとしていては気が狂いそうで、一走りすることにした。ヘリオスが珍しく付き合う気でいるらしく、情けなくも救われる気がした。
馬に跨る時にはすでに、東の空が淡く色付き始めていた。
風が頬をかすめる。
その瞬間、遠くの馬車の列がゆっくりと動き出すのが見えた。
すれ違う道。
もう一度交わることがあるのかも、分からない。
「ところでさ、次の近衛師団長って誰になるんだい?」
「心配するな。お前を推薦しておいた。ほら、せいぜい勤しめ」
「……は?」
ヘリオスが珍しく言葉を失い、目を瞬かせる。
アルヴェルはその反応に、ほんの一瞬だけ肩の力が抜けた。
そのまま馬の手綱を軽く引き、薄明の道へ先に進む。
ヘリオスの小さな舌打ちが追いかけてきたが、その響きはなぜか暖かかった。
馬の腹に軽く脚を当てながら、目だけが東の空を探していた。
*
数十日ぶりの外気を胸いっぱいに吸い、セリウスは先導する兵士に続いた。
自らの潔白は証明されたが、まだ完全には自由になれないらしい。何が起きていたのか知る由もないが、穏やかでなかったことだけは容易に想像できた。
それでも、濡れ衣を被らされたまま断罪されるよりは、ずっとましなのかもしれない。そう思うくらい、セリウスの心はすり減っていた。
前を行く兵士たちは近衛とは違う黒い上衣を纏っており、おそらくはどこぞの私兵だろう。石塔を抜け、王城の庭に出ると、少し気が緩んだのか小さな声で囁き始めた。
「王弟殿も、お気の毒な話だ」
「塔に入れたのだって…“保護”の一面もあったのかもしれんぞ。侯爵様は…話のまわし方がお上手だ」
「おい、そこまでにしろ。どこで誰が聞いているか分からん」
一人がちらりとセリウスの顔色を窺ったが、セリウスは眉一つ動かさず、数歩前の地面に視線を固定したまま。
兵士たちは気味悪がり、それ以上は何も言わず、馬車まで黙々と歩いた。
気付けば、秋も深まっていた。
消えた子たちは今頃どうしているのか──それが、セリウスにとっては自分のこと以上に心配だった。
こうして他人の心配だけに集中できたのは、セリウスの中に「アルヴェルだけは信じてくれる」という確信にも似た気持ちがあったからだ。
なぜそう思えたのかは分からない。ただ、そう願いたかったのだろう。
「どうぞ、お乗りください」
声に応じて顔を上げると、見慣れたモルフォンド家の馬車が目に入った。ようやく助かった実感が込み上げる。
手綱を持つ私兵と先ほどの兵士が、護送の段取りを確認しているのを横目に、セリウスは馬車に乗り込んだ。
続いて乗り込んできたのは、モルフォンド家執事クロムウェルと侍女のナディア、そしてシンディだった。
「セリウス様!」
「良かった、ご無事で!」
「まあ…っ、お窶れになって…!」
目を瞬いて驚くセリウスに、クロムウェルが言った。
「当主様より、セリウス様をお助けせよと命を受けています」
「そうか…父上らしい」
あの父のことだ。きっとこんなことになって、心底心配させたことだろう。申し訳なさと、同時にその計らいが嬉しかった。セリウスは微かに眉を寄せ、ようやく笑った。
「全く酷いですよ!セリウス様にこんな思いをさせて…!」
キャリッジに乗る前から泣いていたシンディは、さらに涙を溢れさせる。
「セリウス様があんなことを…するはずないのに! 深窓の淫魔だか何だか知らないけれど、みんな勝手なことばかり言って!夜鷹を襲っただなんて…穢らわしい!」
「シンディ、落ち着いて」
ナディアが咄嗟に叱責するのを、セリウスは手だけで制止した。
「シンディ、心配してくれてありがとう。けれど、彼女たちは悪くないだろう?懸命に、生きていたただけなのだから……分かってくれるね?」
セリウスは微かに微笑み、シンディの表情を確かめた。
「はい、申し訳ありません…」
シンディは小さく頭を下げ、涙を拭った。
馬車の御者が鞭を鳴らすと、馬の蹄が軽く地面を蹴った。
木漏れ日を受けて、馬車はゆっくりと庭を抜け、王城の石畳の道へと進み始める。
窓の外に視線をやりながら、セリウスは先ほどの兵士の言葉を反芻した。
──自分が巻き込まれたせいで、アルヴェルまで面倒に巻き込んでしまった。
いつも自分は、護られてばかりだ。
支えになりたいと願っているはずなのに、気付けば足を引いている。
西の高台へ、赤い近衛服に身を包んだ騎士が馬に乗り、走り去る。
アルヴェルが平穏に過ごせるなら、自分は遠く離れてもいいのかもしれない──そう思った。




