第3話 インド編――暑い! 知らない! でも、食べてみたい!
マカオを出た船は、さらに西へ向かった。
海の上で過ごす日々は、相変わらず長い。
船が揺れる。
風が吹く。
食事をする。
眠る。
そして、また海を眺める。
「ねえ、マンショ」
ミゲルが声をかけた。
「なんだ?」
「陸地に着いたら、すぐに歩けると思う?」
「どういう意味だ?」
「船の上にいると、歩かなくてもいいだろう。でも、陸に着いたら、歩かなければならない」
マンショは、少し考えた。
「……それは、そうだね」
「それに、暑いところらしいぞ」
ミゲルは、真剣だった。
「暑いのは、嫌なのか?」
「嫌というわけではないけれど、暑いと疲れるじゃないか」
マルチノが笑った。
「ミゲルは、旅に出る前から、疲れる心配をしているのか?」
「旅に出てから困るより、先に考えておいたほうがいいだろう!」
ジュリアンは、海の向こうを見つめていた。
「まあ、行ってみればわかるよ」
その言葉に、三人は頷いた。
彼らはまだ知らない。
インドの暑さが、どんなものなのか。
どんな町があり、どんな人々が暮らしているのか。
そして、どんな料理が待っているのか。
* * *
やがて、船はインド西海岸のゴアへ向かった。
陸地が見えたとき、四人は甲板に集まった。
「着いたのか?」
「もうすぐだろう」
マンショは、遠くの景色を見つめた。
マカオとは違う。
海岸の様子も、建物も、港の雰囲気も違って見えた。
船が港に近づくにつれて、人々の姿がはっきりしてくる。
荷物を運ぶ人。
船のそばで働く人。
見慣れない衣服を身につけた人々。
四人は、目に入るものを追いかけるように眺めた。
「……本当に、遠くまで来たんだな」
マルチノが呟いた。
「日本から、こんなところまで来られるんだね」
ジュリアンが答えた。
マンショは頷いた。
「でも、まだローマには着いていないよ」
「わかっているさ」
ミゲルが笑った。
「だから、まずはこの土地を見てみよう」
* * *
船を降りると、四人はすぐに、あることに気づいた。
暑い。
とにかく、暑い。
マンショは額に手を当てた。
「……暑いな」
ミゲルも、首筋をぬぐった。
「思っていたより、ずっと暑い」
マルチノは、衣服の襟元を少し緩めた。
「日本の夏とは、違う感じがするね」
ジュリアンは周囲を見回した。
「暑さだけじゃない。空気の感じも違うよ」
四人は、しばらく歩いただけで汗をかいた。
しかも、知らない町を歩くのだから、気を抜くわけにもいかない。
「まずは、水が飲みたいな」
ミゲルが言った。
「私もです」
マルチノが頷いた。
メスキータ神父は、四人を休ませ、飲み水を確保するよう手配した。
「慣れない土地では、無理をしてはいけません」
神父は言った。
「旅を続けるには、体を大切にすることも必要です」
四人は素直に頷いた。
冒険というのは、もっと華やかなものだと思っていた。
しかし、暑いときには休む。
喉が渇いたら、水を飲む。
疲れたら、無理をしない。
そんな当たり前のことも、遠い異国では大切なのだった。
* * *
町を歩いていると、ミゲルが突然、足を止めた。
「……牛だ」
道の向こうに、牛がいた。
荷物を運ぶ人々のそばを、ゆっくりと歩いている。
「牛なら、日本にもいるだろう?」
マンショが言った。
「そうだけど、ここにもいるんだな」
「そりゃあ、いるだろう」
マルチノが笑った。
「牛は、世界中にいるのかもしれないね」
ジュリアンは、牛と、それを取り巻く人々を眺めた。
同じ動物でも、土地が違えば、人々との関わり方も違う。
何を運び、どんな仕事をし、どのように大切にされているのか。
それを知るだけでも、四人にとっては新しい発見だった。
そのとき。
耳元で、ブーンという音がした。
「うわっ!」
ミゲルが、思わず手を振った。
「何だ、今のは!」
「虫でしょう」
マルチノが答えた。
「それはわかっているよ!」
ミゲルは、首筋を押さえた。
「でも、近くを飛ばれると気になるじゃないか!」
マンショは笑った。
ところが、次の瞬間、自分の耳元でも羽音がした。
「……これは、確かに気になるな」
ジュリアンも、思わず笑った。
四人は、異国の町で、牛や虫にまで気を取られていた。
教皇に会うための重大な旅だというのに、今の彼らにとっては、目の前の一つひとつが珍しかった。
* * *
そして、待ちに待った食事の時間がやってきた。
四人の前に並んだ料理から、知らない香りが漂っていた。
肉や魚、野菜。
それに、香辛料を使った料理。
日本で食べてきたものとは、見た目も香りも違う。
マンショは、皿をじっと見つめた。
お腹は空いている。
とても空いている。
だから、早く食べたい。
しかし、どんな味なのか、まったくわからない。
「……これ、何が入っているんだろう?」
ミゲルが尋ねた。
「肉は見えるけれど、この香りは何だろうね」
マルチノも、皿をのぞき込んだ。
ジュリアンは、料理を運んできた人に尋ねようとしたが、言葉がうまく通じない。
「どうやら、香辛料を使った料理らしい」
「香辛料か……」
マンショは、もう一度、料理を見た。
食べてみたい。
でも、味がわからない。
「……まあ、食べてみなければ、わからないか」
思い切って、ひと口。
三人が、じっと見つめた。
マンショは、ゆっくりと噛んだ。
「……あれ?」
「どうした?」
ミゲルが身を乗り出した。
「思っていた味と違う」
「まずいのか?」
「いや、そうじゃないんだ」
マンショは、もうひと口食べた。
「なんだか、おいしいかもしれない」
ミゲルも、匙を手に取った。
ひと口食べて、目を丸くした。
「何だ、この香りは!」
「だから、香辛料でしょう?」
マルチノが笑った。
「それはわかっているよ。でも、こんな味は初めてだ!」
ミゲルは、もうひと口食べた。
「辛い。でも、もう少し食べたい」
ジュリアンも、自分の皿に手を伸ばした。
「知らない料理でも、食べてみると、意外においしいものですね」
四人は顔を見合わせた。
日本では見たことも、食べたこともない料理。
味の想像もつかなかったのに、ひと口食べると、もっと知りたくなる。
「この香りは、何からできているんだろう?」
マンショが尋ねた。
「どんな香辛料を使っているのかな?」
マルチノも興味を持った。
ミゲルは、空になりかけた皿を見つめた。
「……帰国したら、もう一度食べられるかな?」
ジュリアンは笑った。
「まずは、ローマまで行って、無事に帰国することを考えましょう」
「それは、そうだな」
ミゲルは頷いた。
「でも、食べ物のことも忘れたくないよ」
* * *
食事を終えたあと、四人は、旅に必要なものについても考え始めた。
衣服は、汗をかけば手入れが必要になる。
長く旅を続ければ、傷むものも出てくる。
靴や履物、身の回りの品も、いつまでも同じ状態ではいられない。
「神父様」
マンショが尋ねた。
「服が傷んだら、どうするのですか?」
「直せるものは直します。必要なものは、旅先で調達することもあります」
メスキータ神父は答えた。
「では、どこでも同じように手に入るのでしょうか?」
「いいえ。土地によって違います。だから、必要なものを考え、準備しておかなければなりません」
四人は顔を見合わせた。
日本なら、慣れた服がある。
家に戻れば、着替えもある。
困ったときには、知っている人に相談できる。
しかし、ここは日本ではない。
欲しいものが、いつでも手に入るとは限らない。
そして、何かを手に入れるには、お金も必要になる。
「……旅というのは、いろいろと大変なんですね」
マルチノが言った。
「今ごろ気づいたのですか?」
ジュリアンが、少し笑った。
「気づいてはいました。でも、実際に来てみると、思っていた以上です」
マンショは、素直に答えた。
メスキータ神父は、四人を見つめた。
「そうでしょう。だからこそ、準備が必要なのです。皆さんには、果たすべき使命があります。好奇心を持つことは大切ですが、体を休め、必要なものを整え、次の旅に備えることも忘れてはいけません」
四人は、真剣な顔で頷いた。
* * *
その夜。
マンショは、昼間の出来事を思い返していた。
暑かった。
喉も渇いた。
知らない虫に驚かされた。
食べたことのない料理を口にした。
そして、衣服や生活用品のことまで考えなければならないと知った。
日本にいたときには、旅とは、遠い土地へ行き、珍しいものを見ることだと思っていた。
もちろん、それも間違いではない。
しかし、遠い土地で暮らすということは、そこで食べ、眠り、体を休め、明日の準備をすることでもある。
「……冒険って、思っていたより大変だな」
マンショは、ぽつりと呟いた。
そのとき、ミゲルが声をかけた。
「何を考えているんだ?」
「今日のことだよ」
「暑かったな」
「うん」
「虫もいた」
「そうだね」
「でも、料理はおいしかった」
マンショは笑った。
「それは、確かだね」
ミゲルも笑った。
「明日は、どんなものが見られるだろう?」
マンショは、しばらく考えてから答えた。
「まだ知らないものが、たくさんあるはずだよ」
四人には、日本から託された使命がある。
遠いローマへ向かい、教皇に会わなければならない。
その道のりは、まだ長い。
けれど、彼らは少しずつ学び始めていた。
世界は広い。
そして、世界を旅するということは、知らないものを見つけるだけではない。
知らない環境で、自分たちの暮らしを続けていくことでもある。
明日もまた、暑さが待っているかもしれない。
見たことのない人々や、知らない料理にも出会うだろう。
それでも、四人は先へ進む。
まだ見ぬ世界を、自分たちの目で確かめるために。
少年たちの冒険は、続いていく。




