第2話 マカオ上陸 / 海の向こうは面白い 改訂版
【少年たちを導いた宣教師 / 宗教改革と東アジアへの夢】
天正遣欧使節の四人の少年たちを理解するためには、彼らに同行した宣教師ディエゴ・デ・メスキータ神父と、イエズス会について知っておく必要がある。
そして、もう一つ。
彼らが旅立った1582年のヨーロッパが、どのような時代だったのかも。
### 海を越えて広がるイエズス会
イエズス会は、1534年にイグナチオ・デ・ロヨラらによって創設され、1540年にローマ教皇から正式に認可されたカトリックの修道会である。
その活動の柱の一つが、海外への布教だった。
16世紀、ポルトガルやスペインの船は、ヨーロッパからアフリカ、インド、東南アジア、そして東アジアへと航路を広げていた。宣教師たちもまた、その航路に乗って遠い土地へ渡っていった。
日本にフランシスコ・ザビエルが到着したのは1549年。
以来、イエズス会は日本で布教を進め、キリスト教を受け入れた大名たちとの関係を築いていった。
日本は、イエズス会にとって重要な布教地となった。さらに、その先には中国という大きな文化圏があった。
異なる言語、思想、社会制度を持つ人々に、どのようにキリスト教を伝えるのか。
それは、宣教師たちにとって大きな課題だった。
### ヨーロッパを揺るがした宗教改革
同じころ、ヨーロッパでは宗教をめぐる大きな変化が起きていた。
1517年、マルティン・ルターによる宗教改革が始まり、カトリック教会のあり方を批判する動きが広がった。やがてルター派やカルヴァン派など、プロテスタントと総称される諸教会が各地に成立する。
イングランドでも、ローマ教皇との関係が断たれ、イングランド国教会が形成されていった。
1582年には、カトリックとプロテスタントの対立は、すでにヨーロッパの政治や社会を左右する大きな問題になっていた。
カトリック教会も、内部の改革を進めるとともに、海外での布教活動に力を注いでいた。イエズス会は、その活動を担う重要な修道会の一つだったのである。
ただし、宣教師たちが海外へ渡った理由は、宗教改革への対抗だけではない。新しい土地の人々に信仰を伝えること、現地の言葉や文化を学ぶこと、そして各地のキリスト教徒との結びつきを築くことも、彼らの重要な目的だった。
日本での布教もまた、この世界規模の動きの中に位置づけられる。
### 四人の少年に託された使命
この時代、日本での布教活動を進めるうえで重要な役割を果たした人物が、アレッサンドロ・ヴァリニャーノだった。
彼は日本の事情を理解し、日本の文化や言葉を尊重することの重要性を認識していた。そして、日本のキリスト教徒の存在をヨーロッパに伝え、ローマ教皇をはじめとする要人との結びつきを深めるため、少年たちをヨーロッパへ派遣する計画を進めた。
こうして、天正遣欧使節が誕生した。
正使は伊東マンショと千々石ミゲル、副使は中浦ジュリアンと原マルチノ。彼らは九州のキリシタン大名たちの名代として、長い海の旅に出ることになった。
同行したメスキータ神父は、少年たちを支え、導く立場にあった。
四人の旅には、ローマ教皇への謁見という明確な使命がある。
しかし、彼らは使命を帯びた使節であると同時に、まだ若い少年たちでもあった。
初めて見る港町。聞いたことのない言葉。食べたことのない料理。日本とは異なる服装や習慣。
目の前に広がる世界を知りたいという気持ちは、きっと彼らにもあったはずだ。
歴史の記録には、彼らの名前や旅の足跡が残されている。
けれど、記録だけでは、彼らが何を見て驚き、何を食べて喜び、何を不思議に思ったのか、そのすべてを知ることはできない。
だからこそ、この物語では、史実を大切にしながら、歴史の記録の隙間にいる少年たちの姿を想像してみたい。
彼らは、何を見たのだろう。
何を知りたかったのだろう。
そして、遠い異国で何を感じたのだろう。
宗教改革がヨーロッパを揺るがし、イエズス会が海を越えて布教を進めていた16世紀。
四人の少年たちは、日本から世界へと踏み出した。
その旅は、ローマ教皇に会うための旅であると同時に、彼ら自身が、まだ知らない世界と出会う旅でもあった。
船がマカオに近づいたとき、四人の少年たちは、甲板から身を乗り出すようにして港を眺めていた。
船がある。
一隻や二隻ではない。
大きな船もあれば、小さな船もある。港には荷物を運ぶ人々が行き交い、聞いたことのない言葉が飛び交っている。
「……すごいな」
マンショが、思わず声を漏らした。
「これが、マカオか」
ミゲルも、目を輝かせていた。
「日本の港とは、ずいぶん違うね」
マルチノは、行き交う人々の服装に目を向けた。
ジュリアンは、船の数を数えようとして、途中で諦めた。
「数えても、きりがないよ」
「それだけ、たくさんの船が来るということだろう?」
マンショが答えた。
四人は、まだ知らない。
この港が、遠く離れた土地を結ぶ交易の拠点であることを。
そして、自分たちの旅もまた、この港を経由して、さらに遠い世界へ続いていくことを。
* * *
船が港に入ると、すぐに上陸できるわけではなかった。
船の乗組員や、乗っている人々の身元を確かめる必要がある。どこから来た船なのか。何のために来たのか。誰が乗っているのか。
港は、見知らぬ船を何でも受け入れる場所ではない。
海には商人だけでなく、海賊もいる。
船の安全を守り、港の秩序を保つためにも、確認は欠かせなかった。
四人は、メスキータ神父が関係者に説明する様子を見守っていた。
神父は、使節団の目的を伝え、日本から来た少年たちがローマの教皇に会うために旅をしていることを説明した。
もちろん、四人が自分たちの使命を忘れているわけではない。
ただ、目の前の港があまりにも珍しく、つい周囲に目を奪われてしまうのだった。
「神父様」
マンショが尋ねた。
「船が港に入るだけでも、いろいろと確認が必要なのですね」
「そうです。船がどこから来たのか、誰が乗っているのか。それを明らかにすることは大切です」
「なるほど……」
マンショは頷いた。
世界を旅するというのは、ただ船に乗って海を渡ればよい、というものではないらしい。
* * *
上陸が許されると、四人は初めてマカオの町を歩いた。
目に入るものが、どれも新鮮だった。
建物の造りも違う。
人々の服装も違う。
聞こえてくる言葉も違う。
四人は、あちらを見たり、こちらを見たりしながら歩いた。
「ねえ、あの人たちは何語を話しているんだろう?」
ミゲルが尋ねた。
「わからないな」
マルチノが答える。
「こちらの人たちは、中国の人々とも、ポルトガルの人々とも、商売をしているのでしょうか」
ジュリアンが言った。
「だから、いろいろな言葉が聞こえるのかもしれないね」
マンショは、納得したように頷いた。
日本にいたとき、海の向こうにこんな世界が広がっているとは、どれほど想像できただろう。
彼らは日本から遠く離れた場所に立っていた。
そして、これからさらに遠い土地へ向かうのだ。
「ところで……」
ミゲルが、急に真剣な顔をした。
「お昼は、何を食べるんだろう?」
三人は、思わず笑った。
* * *
食事の時間になった。
四人は、用意された料理を前にして、顔を見合わせた。
見慣れたものもあれば、見たことのないものもある。
香りも違えば、味付けも違う。
「これは、何という料理ですか?」
マンショが尋ねた。
説明を聞いても、すぐには想像できない。
「食べてみるしかないな」
ミゲルが言った。
「そうですね」
ジュリアンも頷いた。
四人は、それぞれ料理を口に運んだ。
「……あれ?」
マルチノが、少し驚いた顔をした。
「思っていた味と違う」
「おいしくないのか?」
ミゲルが尋ねる。
「いや、そうじゃない。知らない味なんだ」
その言葉に、マンショも頷いた。
日本で食べてきた料理とは違う。
けれど、違うからといって、まずいわけではない。
知らない味に出会うということは、知らなかった世界に出会うことでもある。
「帰国したら、こういう料理の話もしたいね」
マンショが言った。
「旅の話をするのに、食べ物の話ばかりになりそうだな」
ミゲルが笑った。
「それも、旅の思い出でしょう?」
ジュリアンの言葉に、四人はまた笑った。
* * *
ところが、旅には楽しいことばかりがあるわけではなかった。
食事をすれば、お金がかかる。
宿泊すれば、お金がかかる。
船を乗り継ぎ、必要な品をそろえれば、また費用がかかる。
四人が自分たちの旅費を細かく管理していたわけではない。旅を支えるのは、彼らを送り出した人々や、同行する宣教師たちの仕事でもあった。
それでも、少年たちにも、旅に必要なものがたくさんあることはわかり始めていた。
「神父様」
マルチノが尋ねた。
「私たちは、これから何年も旅をするのでしょう?」
「そうなるでしょう」
メスキータ神父は答えた。
「それだけ長い旅なら、着替えも必要ですよね」
「もちろんです」
「では、服が傷んだら、どうするのですか?」
神父は、少し考えた。
「直せるものは直します。必要なものは、旅先で調達することもあるでしょう」
四人は、顔を見合わせた。
日本なら、家に帰れば着替えがある。
困ったことがあれば、知っている人に相談できる。
しかし、今は違う。
帰る家は、遠い海の向こうにある。
「……服まで、心配しなければならないのか」
ミゲルが、ぽつりと言った。
「当たり前でしょう。ずっと同じ服を着るわけにはいきませんからね」
ジュリアンが答えた。
「それは、そうだけど……」
ミゲルは、自分の服を見下ろした。
冒険とは、未知の世界を見に行くこと。
そう思っていた。
しかし、未知の世界で暮らすには、食べるものも、寝る場所も、着るものも必要なのだ。
しかも、必要なものが、いつでも手に入るとは限らない。
「ねえ、マンショ」
ミゲルが声をかけた。
「なんだ?」
「冒険って、もっと楽しいことばかりだと思っていたよ」
マンショは、少し笑った。
「私もだよ」
* * *
夜。
四人は、それぞれ旅の疲れを感じていた。
見たことのない町を歩くのは楽しい。
知らない料理を食べるのも楽しい。
けれど、言葉が通じないこともある。
慣れない食事に戸惑うこともある。
そして、いつ日本へ帰れるのか、まだわからない。
「……日本が、少し懐かしくなってきたな」
マルチノが呟いた。
ミゲルも頷いた。
「家で食べていたものが、急に食べたくなるね」
「でも、まだマカオに着いたばかりだよ」
ジュリアンが言った。
「この先には、もっと知らない世界が待っているはずだ」
マンショは、窓の外を眺めた。
港には、さまざまな船が停泊している。
その向こうには、まだ見たことのない土地が広がっている。
彼らには、日本から託された使命がある。
遠いローマへ行き、教皇に会う。
そのために、長い旅を続けなければならない。
けれど、それだけではなかった。
彼らは、自分たちの目で世界を見たいと思っていた。
知らない人々に会いたい。
知らない言葉を聞きたい。
知らない料理を食べてみたい。
その気持ちは、今も変わらない。
「明日は、どんなものが見られるだろうね」
マンショが言った。
「おいしいものがあるといいな」
ミゲルが答えた。
「また食べ物の話ですか」
マルチノが笑う。
ジュリアンも、楽しそうに笑った。
四人はまだ知らなかった。
これから先、マカオよりも暑い土地があることを。
見たこともない香辛料の料理が待っていることを。
そして、旅の途中で、世界の広さだけでなく、自分たちの知らなかった現実にも出会うことを。
冒険は、思っていたより大変だ。
それでも、次の港へ行ってみたい。
その気持ちは、四人の中に、まだしっかりと残っていた。




