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夢幻泡影

 お昼時になって客足が緩やかに下降しだし、ぽつりぽつりと空席が現れ始める人の流れとなった。

 私達にも会話するくらいの余裕ができ、手の空いている者同士が怒涛の時間に対しての労いの言葉を掛け合ったりしている。

 この隙に交代で1時間ずつの休憩に入ることになり、海李君と私は後半組になった。私達が同時に休憩を取ってもいいのか疑問に思って尋ねると副委員長が言った。

「もう目標金額は十分に達成してるから大丈夫。嫌な思いをさせてまでウェイターをやってもらっておきながらこう言うのもなんだけど……。 君らが2人揃うと客入りが凄すぎて裏方が回らない。既に目標を越えてるから午後は惰性でやればいいし、奴らを少し楽にしてやりたいから一緒に休憩を取ってほしい。なんなら残りの時間は君らの希望する場所に変更してもいいけど」

気まずそうな顔で告げられた。

 あの地獄のような労働から解放されるのであれば私としても嬉しい限りだった。

「ありがとうございます。変更の件は海李君と相談してみます」

私が笑顔で答えると、副委員長は「じゃあ」と片手を上げて調理場に向かって歩いて行った。

 その後ろ姿を見送りフロアに視線を戻す。今は5席が埋まっているだけの状態で、オーダーも配膳も終えているので特にやることがない。


 海李君はトイレに行ってしまって話す相手もいないので、窓辺まで歩きのんびりと外を眺める。校庭には沢山の人の姿があった。制服や学校指定のジャージ、クラスで揃えたであろうお揃いのTシャツ、私服姿の外部からの訪問者。それらが入り乱れて広いグランドを埋め尽くしている。

 いくつかのお店の前で連なる列や、運動場の半分ほどを使用して行われている脱出ゲームの様子、自分がその場に居なくても心が躍り出すような楽しくなる光景だった。

「ねえ、下野伊君」

女性の声がして振り返ると、ウェイトレス役の加藤さんが立っていた。

「何度も助けてもらってありがとう」

そう言って彼女は頭を下げる。

『海李君か私でなければ』というお客さんからオーダーを拒否される度に私が交代していた。そのことについてのお礼なのだろう。

「いえ、僕のせいで嫌な思いをさせてしまってすみません」

「なんで下野伊君が謝るのよ。むしろ謝るべきは私達じゃん?」

口をへの字にして小首を傾げる。 

「ところでさ、休憩は有富君とお店とか回るの?」

彼女は窓辺に移動して壁に寄りかかると、横に立つ私に視線を向けて腕を組んだ。茶色のショートヘアが陽の光に当たり、室内で見るよりも明るい髪色に変化する。活発なイメージの彼女にとても似合っていた。

「まだ話していないですが、そのつもりです」

「でもさぁ、2人で回るの大変そうだよね」

「そう、……ですね」

加藤さんの指摘に口ごもる。

 お店巡りを楽しみにしていたけれど彼女に言われて現実を考えた。目先のことばかりに気を取られてその点を視野に入れていなかった私は、海李君と一緒に歩いているところを想像して一気に気持ちが落ち込んだ。

「そこでね。私ね、思いついたことがあるんだけど試してみない?」

意味深な笑みを浮かべて彼女が言った。

「試してみるとは?」

「ちょっと耳貸して」

そう言って壁から背を離し、右手を上げて小さく手招きした。私は体を横に倒して彼女に顔を近付ける。その行為に対して客席から悲鳴が上がったけれど、加藤さんはお構いなしで話を続けた。

 少し興奮気味な彼女の囁きと息使いが耳をくすぐる。そのこそばゆさに耐えながら私は話に聞き入っていた。

「と言うことなんだけど、もし下野伊君が嫌じゃなかったら」

簡単な説明であっても、おおよその計画は把握できた。私が体を元の位置に戻すと、小柄な彼女が少し顎を上げた状態で微笑んでいる。

「嫌、ではないですが……。 バレませんか?」

「大丈夫! 私、腕に自信あるし」

得意げな顔で親指を立て「任せて」と念を押された。

「そうですか。 ……では、宜しくお願いします」

私がそう言うと、彼女は携帯をポケットから取り出して友達に連絡をし始めた。

「支度が終わるまで内容は誰にも話さないでね」

画面から目を離さずに告げて携帯でのやり取りを続ける。その作業を終えると私を見て嬉しそうに言った。

「いっやー、楽しみ。腕が鳴りますなぁ。それじゃ後でね」

彼女は私に手を振ると、まるで準備運動をするように両手を組んで上げ、体を左右に揺らしながら調理場へと消えて行った。



 再び一人になって時間を持て余した私は、頑張った体を労わろうと前かがみになってパンパンになったふくらはぎを揉んでいた。慣れないことをして至る所が悲鳴を上げている。

「凌、大丈夫? 疲れた?」

トイレから戻って来た海李君が声を掛けてきた。

 体を戻して彼を見ると、心配そうな顔をしながらこちらに歩いて来て私の前で立ち止まる。

「うん。凄い疲れた。こんなに忙しくなるなんて思ってなかった」

「ほんとに。俺、途中で放棄したくなった。それより休憩どうする? どこか回る? って言っても2人で歩いたら騒がれるだろうけど」

少しウンザリしたような顔をして海李君は小さく息を漏らす。その曇り顔に向かって言った。

「なんかね、加藤さんが協力してくれるんだって」

『内容は誰にも話さないで』と言った彼女の言いつけを守り、私は手助けをしてくる存在があることだけを伝えた。

 その言葉を聞いて海李君は目を見開き不思議そうな顔をする。

「協力? どういうこと?」

「それは終わるまで言えない」

「ん? 秘密ってこと?」

「うん。そうしろって」

「よくわからないけど、じゃあ詳細を聞かない方がいいのかな?」

会話の途中で助っ人本人が私達の前に静かに現れた。

 海李君と私を交互に見てにっこりと笑うと、その視線を私に固定して彼女が口を開く。

「じゃあ裏に行こう」 

「まだ休憩まで15分くらいありますけど」

私は壁の時計を見て答えた。

「大丈夫。委員長に許可取ってある。有富くん、私達2人抜けちゃうけど大丈夫?」

「それは構わないけど。何するの?」

「秘密。楽しみに待ってて。じゃあ下野伊君、行こう」

加藤さんは私の服の袖口を掴むと急ぎ足で調理場へ向かう。「行ってきます」と海李君に告げて、私は引かれるままに彼女に付いて歩いた。



 調理場の奥にパーテーションで仕切られた一角が存在していた。教室の角に2枚の青いアクリル板で間仕切りをした小部屋が作られている。それは先程まで存在していなかったので加藤さんが用意した空間なのだろう。

 彼女は掴んでいた私の袖口から手を離して小走りでそこまで向かった。パーテーションの端に手を掛けて人が通れるくらいの入り口を作る。

「ここから入って」

そう言って私に手招きをした。

 言われた通りにそこまで歩み、先に入った彼女に続いて恐る恐る私も中へ体を入れる。そこには2脚の椅子と机が用意されていたけれど、それでも窮屈だと感じさせないくらいの広さがあった。

 机の上には大きめのバックが乗せられていて、パーテーションにはハンガーで吊るされた洋服が5着掛けられていた。

「さぁ、やりますか。その椅子に座って」

「はい。宜しくお願いします」

指定の場所に腰を下ろし、その位置から全体をぐるりと見回す。

 外から見た時に、中は薄暗いのだろうと想像していた。しかし仕切られた空間であっても窓から差し込む日差しで十分の明るさがある。

「じゃあ始めるね」

彼女は腕まくりをし、机の上のバックの中から沢山のメイク道具を出し始めた。その量の多さに驚いて私は加藤さんに聞いた。

「普段からこんなに持ち歩いているのですか?」

「まさか! 演劇部の友達に借りた。私が持ち歩くのなんてファンデとリップくらい。家に帰ればこれ以上あるけどね」

話しながら彼女は私の首にケープを巻く。そしてヘアクリップで顔に掛かった髪を上げると手慣れた感じでメイクをし始めた。

「そんなに沢山?」

「うん。私、趣味でコスやってんの」

「……コスって何ですか?」

無知な私は、聞きなれない暗号のような言葉の意味を質問した。

「コスプレって聞いたことない?」

「ああ、わかります」

「自分でもコスプレするんだけど、どちらかと言うと私は人を変身させるほうが好きなんだよね。体育祭の時、下野伊君の姿を見てウズウズしてた。私ならもっと可愛くしてあげられるのにって。今から周りが振り返るような美女にするから楽しみにしててね」

楽しそうに私の顔や首に下地を塗ってその指をティッシュで拭うと、いくつかのファンデーションを出して色を見比べている。手元に視線を向けたまま彼女が言った。

「私さぁ、実は下野伊君と話してみたかったんだよね」

「僕ですか? 普通に話し掛けてくれればいいのに」

「いやいや、無理無理。なんかさぁ、いつも有富君と陽介君と一緒じゃん。話しかけにくいんだわ」

「何故? 大丈夫ですよ。あの2人、噛みついたりしませんし」

私の言葉に彼女は大声で笑った。

「確かに嚙みつきはしないだろうけど……。 陽介君て今はあんな髪型してるけど、高1の時は髪が短かったからうちら学年は彼が超美形だって知ってんの。それに有富君だって陽介君に負けず劣らずの美形でさ。あの人達、オーラが凄いじゃん? かっこいい人はいくらでもいるけど、なんて言うんだろ、次元が違う? うまく説明できないんだけど、一般人は話しかけちゃいけないみたいな雰囲気」

「そうなんですか? 僕にはわからないけど」

「いつも一緒にいるからだよ。下野伊君は中世的な感じで一見話しかけやすそうなんだけど、そんな2人がガードしてて他を寄せ付けない風に見える。それに転校初日に陽介君が言った『囲んでやるな』のパンチも効いてるから迂闊に近寄れない」

話をしながらも彼女の手は忙しく働いていた。私の顔全体をブラシで撫で、次に沢山の色が詰め込まれたアイシャドーのパレットを取り出した。

「だから、そのガードの目を掻い潜って今日はここぞとばかりに下野伊君に接近してみた」

まるで宣戦布告のように右手に持ったブラシを私に向ける。勝ち誇ったようなその表情に私は思わず声を出して笑ってしまった。

「加藤さんて面白い人ですね。それじゃあ、これからは僕から声をかけるようにします。いいですか?」

「社交辞令じゃなくて?」

立ち上がって机に手を突き、身を乗り出すように私に顔を近付ける。そして我に返って咳払いを1つすると、再び彼女の手は忙しく動き始めた。

 少し興奮気味の様子に驚きはしたものの、私は笑顔でそれに答えた。

「勿論です」

「ほんとに? 約束だからね」

一瞬だけ私と目を合わせたけれど、手を止めることなくメイクに専念していた。


「……ねえ、1つ聞いていい?」

「何でしょうか?」

「下野伊君の所に来る女の子いるでしょ? あの子って彼女?」

「いいえ、仲のいい友達です」

「そっか。あのさぁ、受験を控えたこんな時期に言うことじゃないんだけど……」

彼女は伏し目がちになって言葉を切ると、ブラシを持ったまま両手を合わせて顔の前に持っていき、顎を引いて上目遣いに私を見た。

「お願いがあるの」

「お願い?」

「私ね、彼女と友達になりたいの。紹介してくれない?」

「高橋さんですか?」

「そう。体育祭の時から友達になりたいと思ってたんだ。人目を気にしない感じとか、下野伊君と話す時の裏表のなさそうな所とか、まじで私好みなんだよね。今、遊んだりするのは無理でも卒業したら仲良くしたいなぁ、……なんて」

真結さんの家庭事情に関係なく、彼女と友達になりたいと言ってくれる人が現れたことを私は嬉しく思った。言い換えれば真結さん本人に興味を持ってくれたと言うことだし、少しだけしか話していないけれど、加藤さんは悪い人ではない気がする。

 勿論、仲良くなるかどうかは当人同士の問題であって私が口を出すことではない。ただ、真結さんのこれからに私以外の友達ができるのであれば協力を惜しむつもりはなかった。

「わかりました。高橋さんに伝えますね」

「マジでお願いします」

「承知しました」

私の返事を聞いて、加藤さんは鼻歌交じりでメイクを続けた。


「完成! 自分の腕に惚れ惚れする出来栄えよ。見て見て」

彼女はバッグから大きめの鏡を取り出して私の前に差し出した。それを両手で受け取り自分の顔を見る。そこには驚いた表情をした綺麗な女性が映っていた。

「凄い。これ、僕ですか? まるで別人……。 加藤さん、プロみたい……」

「でしょでしょ? 私的にも最高傑作! それと元がいいからめっちゃ美人だわ。んで、清楚な感じにしたからウィッグはストレートのロングにしよう」

そう言って机の下に置いてある紙袋からウィッグを取り出して私の頭に被せ、ピンを使ってそれを固定させた。

「おおっ、完璧! どこから見ても下野伊君には見えない。これなら人混みを歩いてもバレないね。それに、超絶美人が隣歩いてたら有富君のファンもそうそう近寄って来ないよ」

「そういうものですか?」

「そういうものよ。服は、これがいいかな」

パーテーションに掛けてある中の一つに手を伸ばし、私の体の前にあててみる。

「うんうん、いいねぇ。これにしよう。じゃあ着替えて」

白い生地に薄い金色の小さな花柄を散りばめたワンピースを手渡そうとする。しかしいくら私の体がそこまで大きくないと言っても流石に女性物は合わないだろう。それを受け取るのを躊躇って言った。

「これ、僕が着たら破けるんじゃ……」

「大丈夫。それの持ち主、男だから」

「えっ!?」

「演劇で使うから作ったんだって。体つきもそこまで変わらないから着れるはず」

「……それじゃあ」

加藤さんの手からワンピースを受け取る。「外で待ってる」と出て行く彼女の姿が見えなくなるまで待ってから私は着替えを始めた。

 男性用に裁縫された物というだけあって、私の体でも窮屈な箇所などなく着ることができた。むしろ私のためにあつらえたと思えるほど、袖の長さも着丈もウエスト周りもピッタリだった。

「加藤さん、着替え終わりました」

その場で外にいる彼女に声を掛けると、パーテーションの端を移動させて顔を覗かせ私をまじまじと見て言った。

「うっわぁ……。 もしかしたら服に負けるかもしれないなんて思ったけど見事に着こなしてるね。いいよ、凄くいい。有富君を呼んで来るから待ってて」

再び一人の空間になり、私は窓に映っているであろう自分の姿を確認しようとした。しかし、外の明るさが邪魔をして、唯一認識できるのは白いワンピースのぼんやりとした輪郭だけだった。

 自分の体を見下ろす。確かにメイクをして別人のようになったけれど、果たして本当に気付かれないのか多少の不安は残る。

「下野伊君、入るよ」

加藤さんの声がして、先程と同じ場所から彼女が中へと入って来た。その後ろから海李君が姿を現し私を見て驚いた顔をした。

「えっ? 凌?」

「凄いでしょ? 下野伊君だってわからないでしょ? カップルを装えば誰も近寄って来ないと思うよ。2人で楽しんできて」

自分の後ろに立つ海李君を振り返って得意げな顔をする。その彼女を一瞬だけ見て再び私に目を向けた。不自然に思えるくらいの無言の時間が流れ、私は海李君の凝視に耐えきれなくなって口を開いた。

「綺麗にしてもらった」

「……うん、別人」

女装した私を不快に思っているのだろうか、その一言の後、まるで石像のように動かなくなってしまった。

「海李君? 怒ってる?」

「いや違う。ちょっと知り合いの女の子と重なって見えて……。 じゃあ行こうか」

海李君は加藤さんにお礼を言って一人で先に出て行こうとした。その背中を彼女が呼び止める。

「有富君待って。注意事項を1つ」

「何?」

「2人で歩く時は手を繋ぐか腕を組んでカップルを装うこと」

「どうして?」

「君のファンが寄って来なくなるから」

「理屈はわからないけど言われた通りにする」


 私の女装をはやし立てるクラスメイトの声を遮断するかの如く、海李君は後ろ手で教室のドアを勢いよく閉めた。少し大きい音がして、廊下にいる人達の視線が海李君と私に向けられる。それと同時に辺りから自身の目を疑うような驚きや不満の感嘆詞が聞こえてきた。

 海李君の隣にいるのは誰なのか、まさか彼女なのか、どういった関係なのだろうか……、 感嘆詞の後は、そんな疑問の言葉が宙を飛び交った。

 けれど、周りの騒がしさなど気にしていない様子で海李君が私の耳に顔を近付けて囁いた。

「凌、手を出して手の平を上に向けて」

その優しくて甘い声が体の神経を刺激する。

「……うん」

ぎこちなく持ち上げた私の手に海李君の手が重なった。

「恋人繋ぎ、しよ」

あの日を再現するように冷たい彼の手と2度目の恋人繋ぎをした。

 辺りは様々の悲痛な叫びに包まれた。


 私達は手を繋いだままお店巡りをした。

 行く先々で小さな悲鳴が上がる。にも拘わらず、この関係を問いに来る人はいないし囲まれることも無かった。痛いほどの視線は感じても、それはとても快適と言える時間だった。誰も私だと気付いていない証拠だ。先程の不安は見事に解消された。

「彼女の言っていた意味を理解した。感謝しなくちゃいけないね」

耳元で囁いた後、私の顔を見て海李君が笑顔になる。こんなふうに行く手を阻まれることなく歩けることが嬉しいのだろう。

「そう、だね」

「誰も寄って来ないね」

彼の吐息が耳にかかる。その度に体に無駄な力が入る。

「うっ、うん」

 快適ではあったけれど、それとは裏腹に私の心は騒々しかった。

 まるで本物の恋人のように過ごす時間。

 繋いだ手も、話す時に常に耳元で囁かれる瞬間も、それを意識しているのは私だけ。私が私であると知っているのも私だけ。海李君にとってはただのクラスメイト。それをわかっていてもドキドキする気持ちを抑えられない。

「凌?」

「うっ、うん」

何故、毎回、耳元で囁くのか……。 私が大きな声を出さなければ周りに気付かれることはない。海李君が小声になる必要はない。この話し方をやめてもらわなければ、文化祭が終わる前に私の心臓は活動を停止しそうだった。

「耳、真っ赤」

「うっ! 海李君のせいじゃん。耳元で囁くから!」

恥ずかしい姿を見られたくなくて私は両手で耳を塞ぐ。その手首を優しく掴んで下へ下ろすと海李君は顔を近付けて言った。

「凌の反応が可愛くていじめたくなった。許して」

全てを破壊してしまうような笑顔を向けられて顔まで真っ赤になっているのがわかる。頭が真っ白になって返事などできる状態ではなかった。

「さぁ、デートの続きしよ」

嬉しそうに言って再び手を繋いだけれど、何故か海李君は私と反対側を向いて歩き出した。


 グランドで出店しているお店を見て歩いている途中でたこやきを買ってもらった。

 「一つ頂戴」と言って、まるで鳥のひなのように口を開けて待っていた。息を吹きかけて冷ましてから海李君の口へ運ぶ。

 チョコバナナを買った時にも「一口頂戴」と言って私の手首を掴んで自分の口に入れた。

 どの瞬間も恋人に対する態度のようだった。

 それは周りの目を欺く為の演技なのかもしれないけれど……。

 海李君と付き合えていたのなら、こういう時間を過ごせたのだろうかと少し切ない気分になった。

「次、何食べたい?」

そう言って私の顔を覗き込む。

「アメリカンドッグ。でも海李君にはあげないよ」

「そんな意地悪言っていいの?」

「意地悪じゃない」

「じゃあ何?」

「うーん……」

海李君は小さく『フフッ』と笑って私の耳元で囁いた。

「意地悪って認める?」

「海李くんのほうが意地悪じゃん!」

私の慌てふためく様子を笑いながら「アメリカンドッグの店は何処だろう」と話を切り替えた。


 その場で動かずにお店の位置を探していると、遠くで陽介君の声がした。

「おーい海李。休憩?」

手を上げながら人混みをすり抜けこちらに向かって走って来て、不思議そうな顔で海李君と横に立つ私を交互に見る。

「どなた?」

その言葉を聞き、海李君は私に耳打ちした。

「陽介が気付くまで正体を隠しておこう」

私は声を出さずに頷くと、陽介君に笑顔で頭を下げた。彼は私と視線を合わせたまま軽く会釈を返す。

「俺の彼女」

そう言って、海李君は繋いだ手を持ち上げて陽介君に見せた。

「えっ? いつから?」

「最近」

「全然知らなかった。黙ってるなんて水臭くないか?」

「悪い、何か話すタイミングが無くて」

「女子が苦手なおまえがねぇ……」

そう言って私を見たので笑顔を返してやり過ごす。けれど陽介君が私を見る目はどこか敵意があって少し悲し気にも見えた。その表情が怖くて、私は半歩下がって海李君の陰に隠れるように身を隠す。

「でも、海李の生活で知り合う機会なんてあるか?」

「……バンド関係かな?」

海李君が明らかに不自然な返しをする。それを指摘することなく無視して険しい顔のまま私を見続けるので、身の置き所がなくて愛想笑いで胡麻化そうとした。しかし私の作り笑いも取り合わず、まるで親の仇でも見るかのような冷たい視線を向けられたままだった。

 そんな彼に変化があった。目を細めて睨みつけるような表情から一転、眼球が落ちてしまうのではないかと思うほど目を見開いて言った。

「えっ!? ちょっと待て! 違ったらごめん。もしかして。 ……凌?」

「……うん」

「凌! マジか!」

大きな声で私の名前を叫ぶ。音楽や人の話し声で騒がしいにも関わらず、陽介君の叫び声はグランドのどの音よりも良く通った。辺りに居た人達が一斉にこちらを向く。

「えっ? どこ?」「凌先輩いるの?」「まさか、あの女の人?」

私を探そうとする声で周辺がざわつき始める。

 その声に気付いた海李君が陽介君の腕を引き寄せた。小さな円陣となり、密談をするかのように海李君が小声で話し出した。

「陽介! なんで叫ぶ! 気付かれる前にこの場から去ったほうがいい」

「えっ? どういうこと?」

私の女装の理由を知らない陽介君は、事情が呑み込めず狼狽した様子だった。

「説明は後だ。とにかく一緒に走れ。スカートで走りにくいだろうから凌と手を繋いで引っ張れ」

「おっ、おう」

海李君と反対の手を陽介君が握った。それを確認して「とりあえず体育館裏に行こう」と海李君が指示を出す。

「行くぞ」

その声で私達は走り出した。3人で人の波を掻き分けて運動場を滑走する。後ろから女の子達が追いかけてくる声が聞こえてきた。

 追い付かれまいと猛スピードで駆け抜ける彼らに半ば引きずられて走る。

 窮地だけど、楽しくて輝いている時間を愛おしく感じた。

 ずっとこのまま走り続けたい、そんなことを考えていた。


「と言うこと。だから凌が女装してる」

体育館裏の人気のない場所を探して落ち着き、ひとまず息を整えてから海李君が事の成り行きを説明した。

 陽介君は食い入るように私を見た後「なるほどねぇ」と納得した様子だった。

「で、陽介も休憩に入れって。その後は教室に戻って調理場を手伝えって委員長からの伝言」

その言葉を聞いて、陽介君は「そうだ」と声を漏らして上を向いた。

「プラカード置きっぱなしにしてきた。俺、取りに行って休憩入るわ。お前らどうする?」

「今、出てくと面倒事になりそうだから、ここで時間潰してから戻ったほうが良さそう」

「わかった。じゃあ行くわ」

「うん、後で」

巻き沿いで走らされた陽介君は、申し訳なくなるほど疲れた足取りで去って行った。


 残りの時間を体育館裏で過ごした私達は、教室に戻ると「もう裏にいて」と調理場の人達に懇願されて表舞台から退いた。

 私は、洋服は着替えたけれどメイクを落とす時間がなくてそのままの姿で参加した。

 途中、配膳の人手が足りなくなって仕方なく海李君が穴埋めに入ったけれど、しつこく交際の申し出をする女の子に辟易した彼が私を呼んだ。

 隣に立つ私に耳元で「ごめん」と謝り、

「俺、この人と付き合ってるから」

と肩を抱き寄せる。

 物的証拠を見せられた彼女は、その後、静かになって教室を後にした。

 

 その一瞬だけでも海李君の彼女と言ってくれたことが嬉しかった。

 あの白い空間に戻った後、この記憶が残されているのかはわからない。

 けれど、忙しかった時間も、一緒にお店を回った時間も、今日この一日の楽しかった時を忘れたくないと思った。

 ――私の淡く儚い思い出。

 このままの姿でいいからずっと此処にいさせてほしい、そんな叶わぬ願いを抱いた。

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