和睦
叔父さんが入院した翌日にお見舞いに行った。
手術した直後に会いに行っても大丈夫なのかと迷ったけれど、叔父さんの顔を見ないことには安心できなくて、せめて一目だけでもと思い足を運んだ。
病室の前で深呼吸をしてからドアをノックした。容態が悪化した――、などと言うことはないだろうけれど、自分の目で叔父さんの姿を確認するまでは心が穏やかではなかった。
中から話し声が聞こえ、恐る恐る声を掛ける。丁度回診に来ていた叔母さんが壁の陰からひょっこりと顔を出し笑顔で招き入れてくれた。彼女の話によると1週間程度で退院できるらしい。
前日とは比較にならないくらい顔色が良くなっていて、それを見られただけで私は満足だった。
叔父さんは、叔母さんから強くお説教をされていたらしく、
「迷惑をかけて申し訳なかった」
とベッドの中から謝罪をした。
「早く元気になってまた食事に誘ってください」
私がそう言うと、叔父さんは嬉しそうに「ありがとう」と微笑んでいた。
長いようで短かった夏休みが終わり新学期を迎えた。
夕飯をご馳走になっているので海李君とは毎日顔を合せていたけれど、陽介君はあの日以来の再会となる。
病院から車で送ってもらい、結局、彼とは車中での会話がないまま別れた。降りる時にも「またな」と私を見ずに一言だけ別れの挨拶をした。決してお喋りな人ではないけれど一緒に居てここまで口数が少ないのは初めてだったし、普段の陽介君らしくないその冷ややかとも取れる態度がちょっとだけ引っ掛かった。
何か怒らせることをしてしまったのか、はたまた予想外の出来事に疲れていただけなのか、どちらとも判断がつかない状態に今もモヤモヤとした気持ちを抱き続けている。
もし不快な思いをさせてしまったのであれば謝ろうと思い、電話を掛けるつもりで何度か受話器を握ってみた。しかし様子が違うと感じたのはもしかしたら私の勝手な思い込みということもある。
そもそも電話を掛けて「怒ってますか?」と聞くのもおかしな話だ。
なので電話は諦めた。もし怒っていると仮定した場合、顔が見えないからこそ何気ない一言が火に油を注ぐことになるかもしれないと考えた。
対人の経験値が低い私は、こういう状況時の行動の起こし方がわからなくて思案にくれた。けれど、結局悩んでも答えは見つからないと悟り、夏休み明けの今日に託すことにした。
「海李君、おはよ」
「おはよ」
既に着席している海李君に挨拶をして私は自分の席についた。
夏休みの宿題を机に仕舞ってから、まだ主が不在な隣の席に目をやる。
色々と悩んだけれど、顔を合せたら案外何事もなかったように日常が繰り返されるだろうと、取り越し苦労で終わるだろうと高を括っていた。この時までは……。
久々に会う人達で休み中の報告が交わされている教室は、楽し気な顔もあれば、どことなく疲れ切った表情の人も見られる。千差万別の様子を見て、休みの過ごし方が各々の顔に現れている気がした。
その通常よりも賑やかな教室に大きな体の陽介君が姿を見せた。クラスメイトに笑顔で挨拶をしながら席に向かって歩いてくる。私は少しだけ緊張した。
下を向きながら通路に差し掛かった彼に、海李君が先に声を掛ける。
「陽介、おはよ」
「おう、おはよ」
海李君を視界に捉えて片手を上げてその声に答えると、再び下を向いて席まで辿り着いた。
私もすかさず挨拶をした。
「陽介君、おはようございます」
「……おはよ」
――えっ?
彼は私を見ることなく席に座った。
無視された訳ではなくても、こんなに冷たい態度を取られるのは初めてだった。隣の席にいるのに、まるで見えない壁があるようなもの凄い距離を感じる。
やはり何か怒っている……?
私は急に大きな不安に襲われた。
怒らせた理由がわからない。正直なところ自分の言動の一切が記憶から抜け落ちてしまうくらい叔父さんに必死だった。
あの日のことを必死に思い出そうとしても、記憶に刻まれていない時間のことを辿る術がない。
私は何をしてしまったのだろうか。
下ろされた髪で見えない彼の瞳を探るように、私はその横顔を見つめ続けた。おそらく視線を感じているのだろうけど、陽介君が私に顔を向けることはなかった。
ホームルームが終わり、これから始業式の為に体育館に移動になる。
私は席を立ち、まだ座ったままの陽介君の横に移動すると意を決して話し掛けた。
「陽介君、あの……」
「わりぃ、トイレ行く。先に行ってて」
机の上を片付けながら、相変わらず私に目を向けることなく冷たい口調で言った。
「でも……」
私の言葉など聞こえない素振りで彼は一人で教室を出て行ってしまった。そんな陽介君を呼び止められずに取り残された私は、空になった椅子を見つめて泣き出しそうになる気持ちを抑えるように唇を嚙んでいた。
「何? どうしたの? 陽介と何かあった?」
私達の不穏な空気を察知したのか、海李君が動けずにいる私の横に来て心配そうな顔で覗き込む。
「僕が怒らせてしまったみたいで……」
「陽介が怒るなんて珍しいね。何があったの?」
「あの……」
その質問に何と答えたらいいのか言葉が見つからず、私は口ごもってしまった。
「じゃあ、俺に何かできることある?」
「だい、じょうぶ。自分で解決する」
「わかった。もし助けが必要な時は言って」
「うん、ありがとう」
海李君は私の肩を軽く叩くと「体育館、行こう」と笑顔で言った。その優しい眼差しに誘われるように、私は重い足を引きずって彼と共に教室を後にした。
始業式が終わってからも陽介君と私達は別行動だった。
彼は、私達を待つことなく一人で体育館から姿を消していた。
式の間中ずっと悩み続けたのに、答えが出ないまま時間だけが過ぎていく。
せめて怒っている理由だけでも聞かせてもらえたら……。
そう考えるのは自分勝手な思考なのだろうか。
「大丈夫だよ」
体育館を出て、歩きながら私の肩に手を回して海李君が言った。
午前中で下校となり、あっという間に教室から人影が消えた。
私との接触を避けるためか、帰りの挨拶が済むと陽介君は話しかける隙も与えず急いで出て行ってしまった。
今、教室にいるのは海李君と私だけ。いつもならいるはずの陽介君の姿はない。
この状況が明日からもずっと続くのかと思うと気が重い。
ここに居られる時間は半年を切っているのに、わだかまりを抱えたままで、陽介君に避けられたままで、残りの日数を過ごすことに耐えられる自信がなかった。
空席を見つめて小さく溜息をつく。その吐息と共に涙も溢れ出しそうになった。
もう今までのように仲良してもらえないのだろうか。
空になった席が彼の気持ちを代弁しているように思えて再び溜息をついた。
「凌」
海李君に呼ばれて、私は前に座る彼に視線を向けた。
「陽介を体育館裏で待たせてるから行っておいで」
「どういう……」
「相談したいことがあるって呼び出しておいた。色々とこじれる前に話し合ったほうがいいでしょ?」
「……僕の、ために?」
「そんなことはどうでもいいから早く行きな」
海李君は笑顔で言って「ほら、早く」と私の背中を押す。
自分で解決すると言っておきながら何の打開策も見つけられずにいた。途方に暮れていた現状に、彼の用意してくれた優しい援助が心に突き刺さって堪えていた涙が溢れる。
「ありがとう」
それだけを伝えて、私は陽介君の待つ体育館裏へと急いだ。
「陽介君」
体育館の裏口の階段に腰掛けて俯いている彼に呼びかける。
緊張で僅かに声が震えていた。来たのが私だと分かった途端、もしかしたら話など聞かずに帰ってしまうかもしれない。そうなればせっかく海李君がお膳立てしてくれた機会を無駄にしてしまうし、今後すれ違うだけの毎日になってしまうかもしれない。
――どうか帰らないで。
私は強く願った。
当然、私が来ることなど知らなかった陽介君は、振り向いて眉をひそめ怪訝そうな顔をした。
「どういうこと?」
その不機嫌な声に萎縮して体が強張る。けれど、ここで逃げる訳にいかない。唾液を飲み込んで締まった喉を無理矢理に開き、私は震える声で彼に言った。
「あの、ごめんなさい」
「何が?」
「僕、あの日のことを何も覚えていなくて、でも、きっと、陽介君を怒らせるようなことをしたんですよね? だからごめんなさい」
私は、限界まで頭を下げて彼に謝罪の意を示した。
陽介君からの返事はなく沈黙が続く。その間、私は頭を下げ続けた。この程度で許してもらえるのかはわからないけれど、もし許してもらえるのならば何時間でも同じ姿勢でいるつもりだった。
「別に怒っている訳じゃない。ただ……、凌とどう接していいかわからなくなっただけだ」
そう言った彼の声に戸惑いに似た色を感じた。
怒りをぶつけられる覚悟でいたのに、予想外の言葉に驚いた私はゆっくりと頭を上げる。こちらを見ていた陽介君は、目が合うと私を拒むように再び俯いて足の間で手を組んだ。
「そんなふうに思わせてしまうほど、僕は陽介君に酷いことをしてしまったのでしょうか?」
どんな返事をされるかわからず恐る恐る聞いてみた。彼は下を向いたまま口を開く。
「あの時のこと何も覚えてない?」
「はい。迎えに来てくれた車の中で、乱暴なことをしたと言われたけれどそれすら記憶が曖昧で。だから僕が何をしたのか教えてほしいんです。そうでなければ何に対して謝ればいいのかわからない」
「一つ質問していいか?」
「はい」
「……凌にとって俺はどんな存在?」
俯いた状態で顔だけこちらに向け、躊躇いがちに問われた。
「心から大切だと思えるかけがえのない人です」
「じゃあ例えば海李と俺が同時に窮地に立たされていたとして、どちらかしか救えないとしたら凌はどうする?」
「それがどんな状況下でのことかわからないけど、どちらも救える方法を考えます。僕には2人とも同じくらい大切な存在だからどちらかなんて選べない。もし救える手段がないのなら、その時は僕が身代わりになります」
それは建前ではなく列記とした本心だった。
陽介君はその言葉を聞いて私を数秒見つめると、何か吹っ切れたように笑い出した。
「悪い。なんかガキみたいな質問した。だけど恥ずかしげもなくそんなこと言うか?」
「だって陽介君が聞くから」
「ごめんごめん、俺が悪い。それと今日の態度も悪かった」
そう言って立ち上がると陽介君は深々と頭を下げた。その姿に慌て、私は急いで彼に駆け寄り両肩に手を置いて頭を上げさせようとした。
「やめてください。元はと言えば僕に原因があるんです。陽介君に謝られたらどうしていいかわからない」
彼はゆっくりと体を起こすとしばらく無言で私を見つめる。その優しい眼差しに形容しがたい温かさが籠ってるように感じた。
「もうさぁ、俺、どんどん凌のことが好きになってくわ。……どうしたらいい?」
「僕も陽介君が好きです」
「お前の好きと俺の好きは違うよ」
「何が違うんですか?」
「はーっ。……そうだな、俺の好きは息子を愛でる父親の気持ちってことにしておく」
「しておく?」
「細かいことはどうだっていいだろ。帰るぞ」
陽介君は不貞腐れたような顔で言うと私を置いて歩き始めた。
「待ってください」
追い付いて彼の横を歩く。
結局、陽介君が何に対してわだかまりを抱いていたのかわからず仕舞いだけど、彼が再び心を開いてくれたのなら、それを追求するのは良策ではないように思えた。
その横顔を見つめながら
「もし陽介君が困っていたら僕が力になります」
そう言うと
「共倒れになりそうだな」
と笑って返された。
そんな些細な会話ができるこの時間に幸せを感じていた。




