変事
茹だるような暑さに辟易して過ごす8月。
夏休みに入る前は予定のない連休をどうやってやり過ごそうか悩んでいたけれど、そんな懸念は他所に私の毎日は何気に忙しかった。
海李君と陽介君の勉強に付き合い、真結さんからの度重なる誘いで出掛け、百合さんと買い物に行ったり……。
家で過ごす時間のほうが少ないくらいだった。
そんな中、叔父さんにも何度か食事に誘われた。
以前、忙しいと聞いていたこの時期に、私と食事する時間を作るというのは相当な無理をしているのではないかと不安になる。
叔父さんの体が心配だからと今日の誘いも最初は断った。
けれど「君と食事をするのが今の私の唯一の楽しみなんだ」そう言われてしまい、私は大きく迷った後に昼食の約束を了承した。
心の支えになれているのなら嬉しい事だし、私としても叔父さんに会えるのが楽しみではある。
しかし……。
時々見せる疲れた表情が心配なのも確かだった。
「お顔の色があまり良くないようですが大丈夫ですか?」
向かい合って座る叔父さんに聞いた。
それまでは普通だった顔色が急に蒼白に近くなっていた。医学に無知な私が見ても具合が悪いであろうことは容易に想像できる。
「大丈夫だよ。少し寝不足なだけだ」
力なく微笑むその顔を見て不安を覚えた。
「無理をなさっているのではないですか?」
「ここ数日、仕事でトラブルの対応に追われてね」
「それなら約束をキャンセルしてくださったら良かったのに」
「この日のために急ぎで頑張ったんだ。キャンセルなんてしないよ」
そう言ってテーブルの上のお湯呑みに手を伸ばしたけれど、それに口を付ける訳でもなく握りしめているだけだった。
眉間に皺を寄せて目を閉じる。こんな苦悶の表情を見せたのは公園で再会した時以来だ。明らかに様子がおかしいと感じ「帰りましょう」そう言おうとしたところで営業用の陽介君の声がして障子が開いた。
「失礼いたします」
カレンダーの赤い日だけ仕事に勤しんでいるという彼は、日曜日の今日は仕事をしていた。私と目が合うと口角を少しだけ持ち上げて笑顔を作る。
「お食事をお持ち致しました」
テーブルの横まで進み出て叔父さんの顔を見て驚いた顔をした。私だけでなく、陽介君の目にも叔父さんの様子が異様に映ったのだろう。
「松多部様、お体の具合がよろしくないのでは?」
「いや、大丈夫。ありがとう」
薄っすらと目を開けて陽介君に返事をしたもののどこか虚ろな表情で、なんとか声を絞り出した、そんな感じだった。
冷房が効いていて暑さなど感じない室温の中、叔父さんの頬に汗が伝う。
その異変に気付いて陽介君と私は顔を見合わせた。
「ううっ……」
私達が叔父さんから目を離した一瞬の隙に小さな呻き声が空気を揺らした。異音に驚いてそちらを向くと、肩を上下させて荒い息を繰り返しながら胸を抑え体を小さく丸めている姿があった。
その様子を目の当たりにして急に背筋が寒くなった。
「おじ、さん?」
私は急いで席を立って叔父さんの横に正座し、背中に手を当てて呼びかけた。
「ねえ、叔父さん、大丈夫? 胸が苦しいの? 薬は持ってる?」
矢継ぎ早に質問をし、丸くなって隠れている顔を覗き込む。返事が無い代わりに荒い息が継続して聞こえてきた。頬に滝のような汗が流れているのを目にし、気が動転して苦しみで返事ができずにいる叔父さんに質問を繰り返す。
「ねえ、叔父さん、大丈夫? ねえ、薬は? バックに入ってる?」
「凌」
「薬、持ってる?」
「凌っ!」
陽介君の大きな声がして背中に当てていた私の手が引きはがされる。驚いて振り返ると、立ったままで私の手首を掴んでいる陽介君と目が合った。
「離してっ!」
叔父さんの体に触れていないと、このままいなくなってしまいそうで不安だった。大切な人から私の手を引きはがした陽介君の手が憎く思えた。それを振り払おうとしたけれど、抗うことのできない強い力で制圧される。
「離してっ! 叔父さんが死んじゃうっ!」
「どけっ!」
掴んでいた手首を後ろに引っ張って私を叔父さんから離す。その勢いで体が後方に飛ばされ尻もちをついた。力まかせに引き離されてことに唖然として何も言えずにいると、陽介君は私がいた場所に座って叔父さんに優しく話し掛ける。
「松多部様、少しお体に触れますね」
そう言って前かがみになり叔父さんに手を伸ばすと、ネクタイとベルトを緩めてズボンのボタンを外した。
「救急車を呼びました。直ぐに到着すると思いますので今しばらく我慢なさってください」
相変わらず叔父さんの荒い息が聞こえる。
飛ばされたままの姿勢で、私は呆然と事の成り行きを見ていることしかできなかった。
叔父さんが死んでしまうかもしれない……。
恐怖が襲って来た。
涙が頬を伝い、全身がガクガクと震え出した。
どうしよう、どうしよう……。
叔父さんが、死んじゃう……。
「凌、聞こえるか?」
呼ばれて気付けば目の前に陽介君の顔があった。知らぬ間に部屋には女将さんや従業員の人達の姿もあった。
「今、救急車が到着した」
「……叔父さんと一緒に行く」
「女将が行くからいいよ」
「嫌だ! 叔父さんから離れたくない! 一緒に行く。お願い、一緒に行く!」
私は泣き叫んでいた。
涙で視界がぼやけ、陽介君の顔が水を足し過ぎた絵の具のように滲んで見える。その滲んだ物体がゆらゆらと揺れながら私の前から姿を消し、再び目の前に戻って来ると言った。
「じゃあ、凌が付いて行って。松多部様の奥様の家の病院だから、おまえは付いて行くだけでいい」
その言葉に私は小さく頷いた。
手術室の前の長椅子に座り、私は前かがみの姿勢で手を合わせて祈り続けた。
救急車の中で、酸素マスクを着けられた叔父さんが救急隊の人達に慌ただしく処置される様子を呆然と見ていた。
死なないで、そう願っても無力の私には何もできなかった。
車中で叔父さんの手を握り『無事でいて』そう願うことしかできなかった。
静かな廊下で一人きりで、今だって祈る以外に出来ることが無い。
もう一度、叔父さんの声が聞きたい。笑って話したい。
私がこの世を去った時、叔父さんも今の私と同じ気持ちだったのだろうか……。
こんなに胸が張り裂けそうな苦しい思いをさせてしまったのだろうか……。
流れ続けている涙を拭う気力も起きず、私は両手を合わせて祈り続けた。
手術室のドアが左右に開き、中から手術着を着たままの叔母さんが私の方に向かって歩いて来た。
叔父さんの奥さんである懐かしい彼女の顔を恐怖に震えながら見つめる。
その口からどんな言葉が発せられるのか直ぐにでも問いたいけれど、もしかしたら私の願いとは違う答えが返ってくるかもしれない。そう考えたら、結果を聞きたくないという矛盾した気持ちが生まれた。
私はゆっくりと立ち上がって正面に立った叔母さんの顔を見つめた。
心臓が早鐘を打つ。
鼓動の音が煩すぎて、彼女の声が私の耳に届くか不安になる。
その口が開かれるまでのたった数秒の時間がとても長くて、時が止まっているのではないかと思えるほどだった。
叔母さんの声がした。
「手術は成功したわ」
彼女はにっこりと笑って言った。
成功?
成功とは何?
叔父さんは無事だった?
言葉の意味をようやく脳が理解した。
成功、した……。
「よかっ、た」
全身から力が抜けて膝から崩れ落ちるように廊下に座り込む。
良かった……。
良かった……。
壊れた機械のようにその言葉だけが頭の中を駆け巡る。
息をするのが苦しくなるほどしゃくりあげて涙を流していた。
「あなたが下野伊君ね? 大丈夫? 立てる?」
両脇に手が差し込まれて立たされた後、私は叔母さんに促されて椅子に座った。
「主人からあなたの話は聞いてるわ。こんなことに巻き込んでごめんね。いい歳したオジサンが、あなたみたいな若い子に迷惑かけるなんて……。お詫びに、出てきたら一発殴らせてあげるわ」
冗談を言う叔母さんの顔をまともに見られず、私は下を向いたまま腿の上で両手を固く握りしめて頭を下げた。
罪悪感が押し寄せる。食事を延期するなりの方法を考えなかった浅はかな自分が憎い。私が断っていれば叔父さんはこんなにも苦しい思いをしなくて済んだはずだ。
叔父さんにも叔母さんにも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「ごめ、んなさい。僕、が断らな、かったから。全部、僕が悪、いんです。ごめ、なさい」
泣いていて上手に発音できなかったけれど、叔母さんは静かに私の謝罪を聞いてくれていた。私の隣に腰掛けて足を組み、優しくて暖かい口調で言った。
「どうして下野伊君が謝るの? あなたじゃなくて体調管理ができていない主人が悪いんだよ。あの人ね、あなたに会えるのがとても楽しみなんだって。だから今回は頑張りすぎちゃったんだろうね。でも、大人なんだから自分の世話くらいしっかりしなさいって話よ」
「……ごめ、んなさい」
「だから、あなたは謝る必要ないんだって。今日の事を気に病まないでね。悪いのはあの人」
「……はい」
「ねえ、下野伊君は姪の話は聞いた?」
「……はい」
「そう。彼ね、そのせいで気落ちしてて廃人みたいになってたんだ。なんとか仕事だけこなしてるって感じで。でも下野伊君に会うようになってから少しずつ元気が戻って来たの。だから、もし良かったらこれからも会ってあげてほしい」
その時、自動ドアが開閉する機械音に続き、ドアレールの上を通って『カタンカタン』とベッドが振動する音が聞こえた。そちらを見ると、叔父さんが乗せられたベッドが手術室から出てくるところだった。
「先生、お願いします」
付き添って出て来た看護師さんに呼ばれ、叔母さんは私の肩にそっと手を置いて立ち上がる。そして手術着のポケットに両手を入れて歩き出したかと思うと、一旦立ち止まって振り返り私に言った。
「顔、見てく?」
「はい」
看護師さんが足を止めて待っていてくれた。
私はベッドに歩み寄って叔父さんの顔を覗き込む。運ばれる前より顔色が良く、苦悶に満ちていた表情が穏やかになっていた。
心底ホッとした。
もう会えなくなってしまうかもしれないと考えていたその不安が、現実にならなくて本当に良かったと胸をなでおろす。
「じゃあ下野伊君、行くわね。今日はありがとう。迷惑かけてごめんね」
そう言って叔母さんは待たせていた看護師さんと共に去って行った。
私は、その姿が角を曲がって見えなくなるまで見守っていた。
救急車に乗って付いてきたはいいけれど、帰りのことまで考えていなかった私はどうやって家路に着こうか悩んでいた。
歩いて帰れる距離ではないので、バスで帰ろうかと病院の裏口を出て停留所を探す。
そこへ陽介君の声が響いた。
「おーい、凌」
裏口から少し離れている駐車場の車の助手席から大きく手を振る姿があった。
着物から普段着に着替えられいたけれど髪型はそのままだった。その見慣れない容姿に戸惑ったけれど私は手を振って返す。
「送るから乗って」
そう言って車を降りると後ろのドアを開けて私を待っていた。
「バスで帰ります」
「遠慮すんな。兄貴が車出してくれたから乗っていけ」
「えっと、……じゃあお言葉に甘えて」
私はその車に小走りで駆け寄り、車外で待ってくれていた陽介君にお礼を言って車に乗り込んだ。
お兄さんにも謝意を伝えたところで、陽介君は助手席ではなく後部座席に乗って来た。
「じゃあ行くぞ」お兄さんの出発の合図と共にゆっくりと車が走り出す。
「手術、成功して良かったな。おまえ大丈夫か?」
体を車のシートに預け、顔を前に向けて私を見ることなく聞いてきた。
「はい」
「……さっき乱暴なことして悪かった」
「乱暴?」
「凌を放り投げただろ?」
そう言われるまで私はその出来事のことなどすっかり忘れていたし、正直なところ、あの時間のことをはっきりと覚えていないというのが現状だ。
「僕が悪いので」
「凌さぁ、おまえもしかして……」
「はい?」
「いや、そんなこと……」
「どうしました?」
「……やっぱいい。忘れて」
小さい声でそう言ったきり、陽介君は前を向いたまま口をつぐんでしまった。
彼の横顔を見つめ、続く言葉がなさそうだったので窓の外を見る。
何か失態を犯して気に障るようなことでもしたのだろうか……。
ガラスに映る自分に問いかけた。
直接、陽介君に聞いてみようかと思ったけれど、いつもと様子の違う彼に話し掛けられる雰囲気ではない。
車中には軽快な音楽が流れている。その曲を口ずさむお兄さんの声とエンジン音以外、到着するまで私達の間に音が生まれることはなかった。




