追想
「2人共、冷やかすのはやめろ。……ごめん凌。痛くなかった?」
ようやく肩と顔から彼の手が離された。それなのに私はそのままの姿勢で身動きできずにいた。ゆっくりと上を向くと心配そうに覗き込む海李君と視線が重なり合う。我に返り急いで体の向きを正面に変えた。
「……うん。あの、ありがとう」
必死に声を絞り出した。けれど喉に何かが張り付いているような感覚がして、お礼の言葉は彼に届くかわからないほど小さな囁きになってしまった。
実ることがないとわかっていても気持ちは正直だ。触れられた肩や頬に海李君の感触が残っている気がして熱が冷めない。間近にあった彼の顔が頭から離れない。
友達として彼女達から私を隠してくれたのだとしても、あんな守られ方をして平常心でいられるはずもなかった。優しくされればされるほど海李君への気持ちは大きくなって、大きくなった分だけ切なさも膨れ上がる。
陽介君が先程の私の状況になったとしても同じことをするのだろけど、海李君の行動に乱されてしまう不安定な自分が情けない。
「凌もそれでいいか?」
「えっ?」
「小腹が空いたから何か食べようって言ったんだが」
陽介君に話し掛けられたことで意識が覚醒し、そこでやっと目に映っている景色がプールでなく館内だということに気付いた。何故、ここにいるのだろうか。プールのある敷地から出た記憶さえ無い。
「イルカのショーは?」
「はっ!? 終わったから出て来たんだろ。どうした?」
「大丈夫? 調子悪い?」
「凌?」
3人が不安そうな顔で私を見ていた。
「あっ、大丈夫。調子悪くない。ちょっと考え事してて」
「調子悪いなら帰るか?」
「本当に大丈夫。もう平気。それで何でしたっけ?」
「何か食べに行こうって話」
「行きます、行きます」
私は慌てて陽介君の提案に賛同した。
楽しみにしていた時間は知らぬ間に終了してしまっていた。
もう二度と見られないかもしれないのに……。
残念な気持ちを引きずりながら、私はフードコートに向かう3人の後を付いて歩く。
その途中、携帯に着信があり「夕方に用事ができた」と言って百合さんとはそこで別れることになった。去り際に「2人で凌君を守りなさいよ」と謎な言葉を残して。
百合さんの指示のせいか、目的地に着くまで2人は私の斜め前を歩き出し、護衛のように辺りをキョロキョロと見回して警戒の素振りを見せる。楽しむ場所に来ているのに、彼らの行動はそれとは違ったものだった。
「百合さんが言っていた守るの意味がわからないのですが、僕は要人ではないので警護は不要ですよ」
この不可解な形態を解いて貰おうと彼らの背中に向けて言った。
「さっきの子らがまだいるとしたら、どこでシャッターチャンスを狙ってるかわからんだろ」
言いながら陽介君が足を止めると、海李君も一緒に立ち止まる。
「別に写真くらい……」
「凌はネットの怖さを知らんからなぁ。写真を勝手にネットに上げられて面倒事に巻き込まれる危険性だってあるんだよ。それに、おまえ名乗っただろ? 顔だけでも危ないのに名前まで載せられたら完全に身元特定されるよ」
「そんなものですか?」
「そうだよ。凌のこと気に入ってたみたいだしね。万が一のことがあるから用心に越したことはないよ」
警護体制が解除されることのないまま私達はフードコートの入り口に辿り着いた。食事の時間を過ぎていたせいか、ちらほらと空席が見える。
「俺が買ってくるから、おまえら先に座っててくれん?」
「ああ、わかった。頼む」
海李君と私の注文を聞いて陽介君は一人で店舗に向かった。その後ろ姿を見送り、私達は空席を求めて飲食スペースに足を踏み入れる。
「陽介が戻って来た時にわかりやすいように手前のテーブルにしよう」
どこが見つけやすいか考慮した結果、今いる所から一番近い場所の席に座ることにした。
「凌はこっち」
丸テーブルに4脚の椅子があり、海李君が指定した席は奥の人達から私の顔が見えない位置だった。右隣に海李君が座る。
席を確保したはいいけれど、まるで知らない者同士のように会話のない時間が流れた。先程のこともあり2人きりの時間がどこか気まずい。
耳に入って来るのは周りの賑やかな声だけで、私達は口を閉ざしたまま人形のように身動きもせずに座っているだけだった。沈黙に耐えかねて何か話をしなければと焦りを感じる反面、話題を探そうにも気持ちに余裕がない。
無言の海李君を横目で見る。その視線を感じたのか海李君も私を見た。気まずくて視線を逸らす。
そもそも男の人同士だったらあの程度のスキンシップに動揺することなどないだろう。こんな過剰な反応をしてしまったら気を遣わせてしまいかねない。
一先ず先程のお礼を言って場を繋ごうと口を開きかけると、私よりも先に海李君が話し出した。
「ごめん。さっきの不快だった?」
背もたれに寄りかかり、腿の上で組んだ手を見ながら海李君が聞いてきた。やはり私の態度に違和感を感じていたのだろう。私は彼のその言葉を慌てて否定した。
「違うっ! そうじゃない! ただ……」
『ドキドキが収まらなくて』そう言ってしまいそうになり慌てて口をつぐむ。
海李君は手元からゆっくりと私に視線を移して一言だけ放った。
「ただ?」
オウム返しをして次の言葉を促すように聞き返される。
本当のことは言えない。けれど何と言えばいいのかもわからない。俯いてテーブルの端にある小さな傷を見ながら、思考をフル回転させて続ける言葉を模索する。しかし、都合のいい言い訳など簡単に見つけられなかった。
再び無言になった私に海李君が言った。
「じゃあ質問を変えるね。……もしかして怒ってる?」
「怒ってなんていない。守ってもらったのに怒る理由なんてない。それに、……不快だなんて思って、ない」
「それなら良かった」
緊張が解かれたかのように、不安そうだった海李君の声音が柔らかいものに変わった。
その意外な変化に気付き私は視線を彼に向ける。私と目が合うとホッとした顔になり笑顔を作って言った。
「怒らせたかと思ってちょっとへこんでた。話してもらえなくなったらどうしようって」
「そんなことは絶対にない。僕が海李君を怒らせることはあるかもしれないけど、その逆は絶対にない」
「俺も凌に怒ることなんてないよ。じゃあ、この話はこれで終わりにしよう。それよりも、さっきの様子からするとショーなんて見てなかったよね?」
「……うん」
図星を突かれて私は素直に頷いた。
「……また来ようか」
「でも……」
「見たくない?」
「見たいけど……」
「じゃあ今度は2人で来よう。約束」
そう言って海李君は小指を私に向かって差し出した。その懐かしい儀式を嬉しく思いながらも、私は彼の指に自分の小指を絡めることを躊躇う。
「陽介君が知ったら怒らない?」
「きっと怒るね。だから2人の秘密」
茶目っ気のある笑顔を浮かべ「ね?」と更に小指を前に突きだす。
私は、あの日に交わした約束の場面を思い出しながら、相変わらず冷たい手をしている彼と2度目の指切りをした。
「お待たせ。すげー混んでて待たされたよ」
陽介君が山盛りの食べ物を乗せたトレーを持って戻って来た。それをテーブルの中央に置いて私の左隣に座る。
目の前に現れた食料の山に驚いて私は言葉を失った。私達が頼んだもの以外にも沢山のホットスナックなどを買い込んできて、一体何人で食べるつもりなのだろうと疑問に思ってしまうほどの量だった。
「これ、買い過ぎじゃない?」
その小山を見ながら海李君は呆れ顔になった。
「腹が減ってる時って見たもの全て美味そうに見えるじゃん? そしたらこんなになってしまった」
「それにしたって限度があるだろ」
「大丈夫。3人いれば食いきれるって」
大食いチャレンジに巻き込まれそうな危機感に、海李君と私は目を見合わせて互いに小さく溜息をついた。
「残すのは勿体ないから」と結局3人で食べ物を割り振って完食し、胃がはち切れんばかりの状態に苦しめらることになった。
挙句、見ていなかった水槽を回る気分にもなれず、食べ物を早く消化させようと近くの海辺を散策した後に私達は電車に乗って岐路に就いた。
ロングシートしかない車輛だった。それほど混みあっていなかったので3人で一緒に並ぶことができ、真ん中に海李君が座る。
電車が揺れ始めると程なくして陽介君が眠りに落ちた。きっと満腹で睡魔に勝てなかったのだろう。かくいう私も眠気で意識が朦朧とし始めている。
「着いたら起こすから凌も寝てていいよ」
海李君が囁いた。けれど、そう言われても彼一人を私達の犠牲にするのは気が引けた。
「大丈夫、起きてる」
「目が眠そうだけど?」
「うん。でも起きてる」
「無理しなくていいよ。肩、貸してあげるから寝な」
その甘い言葉の誘惑に抗えず、私は返事をすることもないまま目を閉じていた。
「おやすみ、さくらちゃん」
薄れゆく意識の中で懐かしい名前を聞いた気がした。




