約束
月の2回ほど土曜日に喫茶店に出向くようになった私は、そこに集う人達と仲良くなっていた。真結さんが作ったというこの集まりは、強制ではないので日によって顔ぶれが変わる。似顔絵を描いたことがある人は見知っていたけれど、中には初めて会う人もいた。
みんながここに集合する目的は、ただ近況報告や趣味の話など他愛もない事を各々が好きに話すという、のんびりとした時の流れを楽しむためだった。
今日はいつもより少ない人数で、静乃さんとその友達の幸子さん、あと真結さんと私の4人。多い日は7、8人くらいいる。
「下野伊君は卒業後は進学するのかしら?」
斜め向かいに座る静乃さんに聞かれた。一瞬、返答に迷ったけれど、横に座る真結さんの顔を横目で見てから視線を静乃さんに戻す。
「卒業後は海外にいる親の所に行く予定なので進学はしません」
「……こっちに残ればいいのに。凌君は残りたくないの?」
この話が始まると真結さんの機嫌がすこぶる悪くなる。
3月に去ることを静乃さんに伝えていなかったので話題に上がったのは仕方ないけれど、そうなった時の彼女をなだめるのに少し時間がかかる。
私の隣で不貞腐れた顔をしている真結さんを諭すように、静乃さんが穏やかな口調で言った。
「下野伊君にも事情があるのよ。ねえ?」
「そうですね。残れるのならそうしたいのですが1年間という約束なので」
「何で? 私が凌君の親に残らせてって言ってあげようか? それか一緒に駆け落ちでもする?」
「僕の認識では、駆け落ちとは親に付き合いを反対された恋人同士でするものだと思うのですが……」
「そんなのどうだっていいじゃん。私は、凌君とずっと友達やってたいだけなの」
少し声を荒げ、腕を組んで私と反対を向き顔を背ける。是が非でも残れと彼女の背中が語っているようだった。困り顔の静乃さんと目が合ったので苦笑いを返すと、真結さんに視線を向けて口を開きかけたので無言で手で制した。
静乃さんは私の意を察し、小さく頷いて静観する姿勢になった。
「ありがとうございます。それだけ大切に思ってくれてるってことですよね。僕にとっても高橋さんはかけがえのない存在です。ずっと一緒にいたい、それは同じ気持ちです。……僕は高橋さんの笑ってる顔が好きなんです。もし、このまま帰ったら寝る時に怒った顔しか思い出せない。だから笑顔を見せてほしなぁ」
私が声を掛けてもしばらく動こうとしなかったけれど、なんの前触れもなくテーブルに手を突いてゆっくりと立ち上がった。
「トイレ行ってくる」
彼女は顔を背けたまま席を立った。
「下野伊君も振り回されて大変だね」
真結さんの姿が見えなくなると、幸子さんが身を乗り出して小声で囁いた。
その言葉に対して「さっちゃん失礼よ」と静乃さんが小声でたしなめる。私は笑いながら答えた。
「大変なんかじゃないですよ。彼女は感情表現がストレートなだけです。僕は人の気持ちに疎いので、高橋さんくらい素直に感情を表に出してくれる人のほうが付き合いやすいんです」
「学校でもあんな感じ?」
「そんなことないです。むしろ人と距離を取っていると思います。ああいう姿は心を開いた相手にしか見せない。今、素の自分をさらけ出せるのが僕だけなので、いなくなってしまった時のこと考えると不安になるんでしょうね。だから、この話題になると不機嫌になってしまう」
「それであんなに怒ってたのかい?」
「多分。裏表がなくて素直な分、考えていることをそのまま口にしてしまうだけなんです。だけど、謝罪もお礼もしっかり言葉にできる人。僕は、そこが彼女の魅力だと思ってます。今、きっとトイレで自分の態度を猛省している最中です。ここへ戻って来たら、第一声は恐らく『ごめんなさい』です」
2人の目を交互に身ながら微笑む。
真結さんが俯きながらこちらに向かって歩いてくる姿が見えた。体の前で手を組んで、気まずそうにテーブルの横に立つと頭を下げて謝罪した。
「あの、……ごめんなさい」
2人は目を丸くして顔を見合わせた。
「あらやだ」
「ほんとだ」
その言葉に真結さんは首を傾げて不思議そうな顔をした。私達が話していたことを知らないのだから、それは当然の反応とも言える。
「大丈夫ですよ。座ってください」
笑顔を崩さずに彼女に席に着くように促すと、親に怒られた子供のように項垂れた姿で大きく頷き、ぎこちない動きで自分の位置に戻る。
「いいコンビだねえ。下野伊君もここまで真結ちゃんを熟知してるなら、いっそ付き合っちゃえばいいのに」
幸子さんは豪快に笑って私達に交際するように提言した。けれど私達の間に恋愛感情はない。それは私に対する普段の真結さんの態度からも伺い知れた。
「凌君は友達でそれ以上でも以下でもありません」
「そうですね。もし『以上』があるとするなら、そこは親友ですかね」
彼女の言葉に同意して、私達は目を合わせて微笑みながら頷いた。
「凌君、ごめんなさい」
2人で喫茶店を出て家に帰る途中、真結さんが下を向きながら謝罪する。気まずいのか私を見ることはしなかった。
「いいんです。高橋さんの気持ちはわかってますから。残ると言えない僕にも非があると思ってます。僕も真結さんの近くでずっと友達の関係を続けていたい。その気持ちは本当です。ただ、自分の気持ちを優先できない事情があるんです。それに遠く離れていても友達であることに変わりはない。まだ先の話ですが、僕がここを去る時、残れないお詫びに高橋さんにお守りをプレゼントします」
「お守りって何?」
立ち止まった彼女は私を見上げて質問した。
「秘密です。でも喜んでもらえると思います」
「うーん、それが何か早く知りたいけど、でも貰う日がさよならの時なんだよね。なんか複雑……」
「まだ時間はあります。それまで思い出を作りましょう」
そう言いつつも、その日が来なければいいのに……、と矛盾した言葉を心の中で呟きながら、真結さんと肩を並べて帰りの道を歩いた。
「凌君、悪いんだけど海李呼んで来てくれない?」
「わかりました」
ここ3日程、夕飯時に部屋に閉じこもっている海李君を呼びに行くのが私の仕事になっている。
ドアをノックすると、決まって「今、行く」と姿を見せずに中からの返事があるだけだった。だからと言って別段ふさぎ込んでいる様子ではない。私がリビングで着席すると同時くらいに彼がやって来て変わりなく過ごす。
これまで夕飯時には席に着いているのが通常で呼びに行くことなどなかったから、部屋に籠って何をしているのか気にはなった。けれど、その程度の些細な変化を問いただす立場にないと思い、私は使者の役割のみを全うしている。
部屋の前に着きドアをノックする。
――コンコン、コン
中にいるのはわかっていたけれど、珍しく返事がなかった。心配になりもう一度ノックする。
――コンコン、コン
「凌? ちょっと中に入って来て」
二度目で海李君の声がした。これまでと違う反応に少しだけ戸惑う。
彼の指示通り私はゆっくりとドアを細く開け、体を入れずに部屋を覗き込んだ。正面の背中が振り返って私を確認し、座ったまま椅子をこちらに回転させた海李君と対面する。
「ちょっと来て」
と手招きされ、私はおずおずと部屋に足を踏み入れた。考えてみたら初めての入室許可だった。以前の姿では1度も入ったことがない。
彼は席を立ち、自分が使っていた椅子を私に明け渡すように右横に移動した。そこまでゆっくりと歩き、言われた通りに腰掛ける。
「どうしたの?」
「ちょっと聴いてほしい曲があって」
そう言って椅子を回転させて私をパソコンの画面の方へ向かせると、机の上に置いてあったヘッドホンを手に取った。彼の手でそれが私に装着される。
「メロディーラインだけなんだけど、今、完成した。凌に一番に聴いて欲しくて」
微かに聞き取れるくらいの海李君の声が聞こえた。
「海李君が作ったの?」
「そう」
パソコンの画面には五線譜の上で沢山の音符が踊っている姿があった。海李君がキーボードを操作して静止しているそれらに息を吹き込むと、私の耳にピアノの音が広がり始める。
それはとても優しい音色で、でもどこか切なくて、胸の奥が締め付けられる淡い恋心にも似たメロディーだった。
私は目を閉じて聴き入っていた。
海李君の作り出す音や世界がそこにあった。
この音楽に歌詞はついていないけれど、それでもこれが秘めた想いを想造しているのだろうと予想はできる。誰を想って生み出したのだろう。私の知らない人なのだろうか……。
心を覆う切なさと耳から伝わる切なさとが重なり合い、私は海李君の世界に身を置いた状況で涙を流さずにいられなかった。
聴き続けるのは苦しいけれど、この美しい音楽が終わらないでほしい……。
そんな相反する気持ちをあざ笑うかのように徐々に音がフェードアウトしていき、無音になったところで現実に引き戻された。
けれど、その余韻に呪縛されたかのように私の体は動くことを拒否していた。
「凌?」
呼びかけられて目を開けると間近に綺麗な顔があった。海李君が心配そうに私を覗き込んでいる。
「なんで泣いてんの?」
「えっと……」
私はヘッドホンを両手で外して机の上に置き、慌てて手の平で涙を拭った。
「感動しました。本当に本当に感動しました。海李君は凄いです」
そう言った私のおでこに彼の優しいデコピンが当たった。
「いたっ」
「敬語」
「こんな時くらい大目に見てくれても……」
海李君は照れくさそうに左手で顔を覆って横を向き、小さな声で話し始めた。
「ある女の子に、俺の音楽を届けるって約束したんだ。これはその子に宛てて作った。まだ未完成だけどね。凌は今の俺の曲、好き?」
その問いかけに好きだと返答しようとしたけれど声にならなかった。
私の切ない気持ちを覆す言葉と、彼の中であの日の約束がまだ生きていることを知った喜びで胸が震えている。泣いてはいけないと感情に訴えかけているのに私の涙腺は崩壊した。話すことが出来なくて彼の質問に対して無言のまま何度も大きく首を縦に振る。
こんなに涙を流したら海李君に不信感を抱かせてしまう。
それをわかっていながらも、この感情はもう自分でどうにかできる範囲になかった。
泣いている顔を見られまいと椅子を回転させて壁に体を向ける。
「今、この部屋ティッシュ切らしてんだ。俺の服で拭いておきな」
そう言って私の体を椅子ごと回転させると、海李君は自分の胸に私の顔をうずめて優しく頭を撫でた。
「ねえ、海李。ご飯が冷めちゃう」
階下から百合さんの大きな声が聞こえた。
泣き止んだ私を見ずに海李君が言った。
「おふくろに怒られる前に行こう」
前を歩く彼の後ろ姿を見ながら私は不安になった。なんとなく海李君に気付かれているのではないかと。
私の言動も不自然だけど、海李君の優しさもまた不可解ではあった。
何故、泣いていた理由を問わないのだろう。
気付いているから?
それを確認したくても術がない。
強制送還されるのだろうか……。
まだ何も成し遂げていないのに、こんな中途半端な状態で戻されたくなかった。
もう少しこの世界に居たい。
どうか私に気付かないでいて。
明日、海李君に会えたら、その時は気付かれていないと判断しよう。
どうか明日も会えますように……。
強く強く願った。
2人でリビングに入ると、百合さんが私を見た途端に海李君に向かって言った。
「海李! 凌君を泣かせたの!? 目が真っ赤じゃない!」
「違うから! あれ? 違わない?」
「もう! 夕飯食べさせない!」
「何でだよ! 凌からも何か言ってよ」
「……泣かされました」
「おいっ! 凌!」
百合さんと私は海李君のその慌てた様子を見て笑った。




