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緊張

 連休明け、私は海李君と共に百合さんに学校まで送迎してもらった。

 2日間、安静に過ごさせてもらったおかげで足の痛みは楽になり、歩いて登校するつもりでいたのに百合さんは許してくれなかった。

「せっかく良くなってきたの悪化したら困るじゃない」

そう言って強引に車に押し込まれた。主導権は完全に百合さんのものだった。

 走り去る車を見送り、私達は人の波に紛れて校門を通る。

 雲一つ見当たらない快晴の空の下、「おはよう」と朝の挨拶が四方で飛び交っていた。清々しい天気と穏やかな日常の風景。今日という一日を始めるには気分のいい朝の迎え方だった。

 けれど。

 その爽やかな時間とは対照的に、私の心には疑問と言う名の雲が垂れ込んでいた。

 それは2人の過剰なまでの親切に対してだ。

 泊めてくれたり、夕飯をご馳走してくれたり、送迎に至るまで……

 これまで私は2人から掛け値なしの無償の厚意を受けてきた。だから、もともとがそういう人達だというのは知っている。

 ただ、戻って来てからの姿で百合さんとは1回しか会っていなかったし、海李君とは体育祭の前日まで話もしていなかった。それなのに、ここまで良くしてもらう理由がわからない。何より泊めてもらった2日間で、ずっと前からの知り合いに向けるような親密さを感じた。その距離感がとても不可解だった。

 大敗した一昨日、雰囲気に流されてゲームに没頭していたけれど、思い返すと海李君の態度のおかしかった点も気になる。あの時、まるで長年の友達との別れを惜しむような、そんなものの言い方をした。

 それに、保健室の前で急に態度が変わって距離を縮めてきたことも……。

 ――まさか、私だと気付かれた?

 そう捉えれば腑に落ちる点は多々ある。

 けれど、もしそうならば、私はあの白い空間に戻されているはずだ。

 では、何故?

 考えても考えてもわからない。


「深刻な顔して何を考えてんの?」

隣を歩く海李君が首を傾げて私を覗いていた。

「……特に」

「特に、って顔してないよ」

「……」

「言いにくいこと?」

「……うーん、どうしてこんなに親切にしてくれるんだろうと」

 思い切って聞いてみた。このまま黙っていたら、きっと疑問にこだわり過ぎて海李君との間に溝を作ってしまう。謎を謎のままにしておけないほど私の心は未熟だということだ。

 しかし言った後に気付いた。親切にしてくれていることに対して、不満があると捉えられてもおかしくない言葉だったと。

 混雑している下駄箱で順番を待ち、上履きに履き替える。

 疑問を口にしたことで目を合わせるのが気まずくなってしまい、誰の物かわからない目の前のスニーカーを見ていた。小さな枠の中で静かに座っている白い存在から『巻き込むな』と不満を言われそうなほど凝視していた。

 彼が上履きに履き替えているのが視界の隅に入る。靴を下駄箱に入れ、海李君が口を開いた。

「どうしてって、凌が好きだからだよ」

「えっ!?」

『好き』という言葉に驚いて慌てて海李君を見た。

「いい奴だからね。こっちで一人で頑張ってる姿を見たら応援したくなった。だから困っていたら助けたいと思うし、足を痛めてるのを放っておけなかった。それが理由」

「……びっくり、したぁ」

「何? 告白だと思った?」

「ちっ、違う!」

 痛いところを突かれて、恥ずかしさのあまり振り返らずに彼を置いて先に歩き出した。

 勘違いする要素はどこにもなかったけれど、私が海李君を好きだという気持ちがその言葉に対して過剰に反応してしまった。

 顔から火が噴き出しそうなほど熱い。今、真っ赤になっていることは間違いない。

 その様子を見られまいと、私は無意識に早足になった。追い付かれずに教室まで辿り着けたら、きっと顔の赤みは幾分か引いているだろう。

「凌、早いよ」

呼びかけられた声を聞こえない振りして、階段を急いで駆け上がる。けれど、海李君のほうが足が長いからなのか、あっという間に後ろに付いていた。

「まだ足が完治してないんだから、もっとゆっくり歩いて」

心配そうな言葉と同時に左腕を引かれる。驚いて振り向いた途端、階段を踏み外してバランスを崩した。重力に引っ張られて体が斜めになる。右手が手すりを掴もうとしたのも虚しく、手の平は何もない空間を握った。

――まずい。

 ヒヤッとした感覚に包まれた。

 完全に落ちる、そう思った瞬間、私はきつく目を閉じた。


「あっぶなぁ」

耳元で海李君の声が聞こえる。

 落下した時に体を襲うであろう強い衝撃はなく、代わにりに私の鼻先に甘い匂いが漂った。

 荒い呼吸を繰り返し、ゆっくり目を開ける。視界が白かった。

 恐る恐る上を向くと、海李君の顔が間近にあった。

「えっ?」

気付くと、私は彼の腕の中にいた。密着した体から海李君の早い鼓動が伝わる。いや、私の鼓動なのかもしれない。どちらのものかわからないくらい、きつく抱きしめられていた。

「ごめん、俺が引っ張ったから。落ちなくて良かった」

安堵の声の後に吐息を漏らし、体に回していた腕の力を緩めて上から私の顔を覗き込んだ。

 頭の中が真っ白だった。

 彼を突き放すことも、声を出すことも、何も出来ずにただ立ち尽くしていた。何か言葉を口にしたら、一緒に心臓も飛び出してしまうのではないかというくらいドキドキしている。

 階段を落ちそうになったことより、今、この状態でいることのほうが私を緊張させた。

「凌? 大丈夫だった?」

抱きしめたまま海李君が聞く。

「あっ、ああ、はい」

 私達の横を上っていく人から、口笛やからかいの言葉を浴びせられた。例え男性同士であっても、階段で抱き合ったりしていたら冷やかされるのは当然のことなのかもしれない。けれど、そんな雑音が気にならないくらい私は放心状態に近かった。


 その時、階下から聞き覚えのある声がした。

「俺の凌ちゃんが海李と浮気してる」

ゆっくりと首を動かして下を向くと、のんびりと階段を上がってくる陽介さんの姿があった。私達を交互に見て「どういう状況?」と不思議そうに尋ねる。

 海李君は私の体を離し、その質問に答えた。

「俺が腕を引っ張ったせいで、凌が階段から落ちそうになった」

「そっか。危機回避した結果だったのか」

私達の横まで階段を上がって来ると、海李君と陽介さんは話しながら一緒に階段を上り始めた。私は、未だはっきりとしない意識のまま彼らの後ろを付いていく。

 しかし、足元の地面が揺れているのかと疑いたくなるくらい体が震えて力が入らない。手すりに掴まりながら、1段1段を慎重に上がる。

「凌、足はどうよ」

足を止めずに振り返った陽介さんに聞かれた。

「大丈夫、です」

「痛かったらおんぶしてやるから遠慮なく言え」

「それも大丈夫です」

「なんと……。海李……。俺、凌に振られた」

「じゃあ、代わりに俺がおんぶされてやる」

「おまえは嫌だ。ところで、つかぬ事を聞くが、二人いつの間にそんなに仲良くなったんだ?」

教室の前まで歩いて来ると、開け放たれた入り口で陽介さんが立ち止まり、腰に手を当てて再び私達を交互に見た。

 私が説明しようと口を開きかけると、海李君が先に話し出した。

「内緒」

「何? 俺だけ蚊帳の外?」

「捻挫した足で一人暮らしは不便だろうから泊めたんだよ」

「なるほどね。俺、呼ばれなかったけど?」

「何で陽介を呼ぶんだよ」

「俺もお泊り会に参加したかった」

「お泊り会って……。おまえ小学生か」

「童心を忘れない大人だと言ってくれよ」

「成長してないってこと?」

二人の漫才のような掛け合いを私は黙って見ていた。

 付き合いの浅い陽介さんはまだしも、海李君のこんな姿は初めてだった。気を許した相手にはこういう話し方をするんだと、その意外な様子が新鮮に映る。

 背後に人の気配を感じて振り向くと、入り口を封鎖されて中に入れないクラスメイト数名が私と同じように2人の様子を眺めていた。

「あの、海李君と陽介さん。みんな教室に入れなくて困っているみたいですが」

「凌、ちょっと待て。何で海李は君付けで、俺は『さん』なんだよ」

「あの、今そこは重要ではなくて、2人で入り口を塞いでるから教室に入りましょうよ」

周りの状況を把握してほしい私は、封鎖を解除するように促した。

「じゃあ、席に着いたらその点についてじっくり話し合おうぜ」

そう言って人差し指を私に向けると、私達を置き去りにして教室に足を踏み入れた。

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