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彼の葛藤

 結局、迎えに来てくれた百合さんに半ば強引に車に乗せられ、私は有富家へ連れて来られた。

「上がって」

 玄関に用意されたスリッパは、前回来た時に出された青ではなくてオレンジだった。色が変わったけれど、それはかつての私の物ではないし、今現在の私の物でもない。

「凌君のを用意したの。これから毎日来るんだから、自分用があったほうがいいでしょ?」

「そんな、毎日なんて」

「いいわよ。もし来てくれないなら仕事帰りに学校に迎えに行くもの」

百合さんの言葉をなぞるように、海李君が笑いながら言った。

「おふくろは言い出したら聞かないからね。校門で待ち伏せされるかもしれないよ」

 足元に目を向ける。静かに行儀良く座っている新しい姿があった。

 目の前のこの新しいオレンジに足を入れたら、これから毎日ここへ来ることを容認したことになる。

 怖い。

 そう、ただ怖い。

 あの感情が再来するのが怖い。

 以前の姿に戻ることはできないとわかっていても、これを受け入れたら完全にそれまでの私の全てが消えてしまう気がする。

 足元から視線を上げると、2人が笑顔で私を見ていた。

「凌君、こっちに3月までしかいないらしいじゃない。その間、ここを第二の自分の家だと思って」

「いくらなんでも、そんな厚かましいことは……」

「海李も私も、凌君が夕飯に加わってくれたら楽しいだろうなって思って誘ってるのよ」

「そうだよ。なんかわかんないけど複雑に考え過ぎ。友達の家に来た、これから新しい生活を始める、それだけのこと。もっと気楽に行こうよ。ほら上がって」

海李君が私の腕を引っ張った。

 彼の言葉を脳が復唱する。『新しい生活』その言葉に、頭を殴られるような衝撃が走った。

 過去に囚われ過ぎるあまり、ここへ戻った目的を見失い、傷つかないように自分を守ることに必死になっていると気付いた。

 今、優先すべきところはそこではない。

 私は、私の為に戻ったのではない。

 それに、2人がこの家へ招いてくれたのは、私の身を案じてのこと。その優しさに目を向けようともせず、ただ逃げ道を探していただけの私は、どこまで自分本位で愚かなのだろう……。

 ようやく一番肝心なことを理解できた。

 私は2人からの誘いに素直に従うことにした。

「それでは、お言葉に甘えてご馳走になります」

「ねえ、何でそんなに固い言葉? 普通に話せばいいじゃん」

「でも……」

「それ続けるなら、もう話さない」

「ちょっと待ってください」

「やめる?」

「……はい」

「よし。じゃあ上がって」

体を支えるように、海李君が腕を引いて段差を上がるのを助けてくれた。

 私は、これから始める新しい生活の相棒に足を入れた。

 

「凌君、アパートに住んでるの?」

夕飯を終えると、食器を片付けながら百合さんが聞いた。

手伝おうと席を立ちかけると「怪我人は座ってて」と制止されて再び腰を下ろす。

「はい、そうです」

「何階?」

「2階です」

「じゃあ、階段上るの大変だから、今日と明日泊まっていきなさいよ。服は海李のを着ればいいし」

「そこまでして頂かなくても大丈夫です。帰れます」

「その足で? 一人暮らしだって聞いたけど」

「はい」

「どなたかお家に来てくださる?」

「……いいえ。でも大丈夫です」

「それじゃあ帰せないわ」

 重ねた食器を手に持って眉間に皺を寄せる。

 熱が出た日、同じような会話をしたことを思い出した。この流れは、明らかに帰らせてもらえない状況だと悟った。

 正面に座る海李君が、私の目を見ながら言った。

「いいじゃん、泊まっていきなよ。服なんていくらでも貸すし。それが嫌なら俺が凌の家に泊まりに行ってもいいけど?」

「えっと、あの、じゃあ、あの、泊めてもらいます」

 『勝負に勝った』そんな笑みを浮かべながら、彼は椅子の背もたれに寄りかかった。



 お風呂をもらい、海李君に借りた服を着た。少し長めの袖は指先まで隠した。袖口を鼻先まで持っていくと、いつもの海李君の甘い香りが漂う。それだけで幸せな気分になった。

 足を引きずりながら廊下を歩きリビングのドアを開けると、携帯を見ながらソファーでくつろいでいた海李君が体を起こす。

「出た? ごめん、迎えに行けばよかった」

そう言って立ち上がり、私の横まで歩いて来て体を支えてくれた。

「大丈夫だった?」

「うん。ありがとう」

ソファーまで付き添って座らせてくれた後、後ろを回って私の左側に腰掛ける。

 百合さんは書類の作成があるからと早々に部屋に引きこもったので、この空間に海李君と私の二人だけになった。

 まるで再び恋に落ちたかのように、私の鼓動はひたすら荒れ狂っていた。

 今の私が海李君の恋愛対象になるはずがないとわかっていても、部屋に二人きりという状況を意識せずにいられない。膝に手を置いて、何も映していないテレビの画面を見つめる。

「ジェンガしない?」

その声で横を向くと、テーブルの上に置いてある紙の箱を手に取って小さく振った。

「ジェンガって?」

「これ」

その中からブロックを1本取り出して私に見せる。

「やったことない?」

「初めて見るかも」

「じゃあ、やろうよ」

 テーブルの上にブロックをタワー状にして出し、嬉しそうな顔をしてルールを説明し始めた。

 話し終えると、海李君は自分の隣を『ポンポン』と叩いた。

 「もっとこっち来て」

 私達の間には、もう一人座れるくらいの距離があった。そして、出されたブロックは海李君に近い所にある。確かに手を伸ばしても届かない場所で、ブロックを抜く時には体を動かさなければならない。

 けれど、隣まで近付いたら心臓の音が聞こえてしまいそうで、心配になった私は両手を振って断った。

「ここで大丈夫」

「それじゃあ届かないって」

そう言うと、立ち上がってテーブルの上のタワーに箱を被せ、私の前まで移動させて再び箱を外す。その後、自分も移動して私の近くに座った。

「脚が痛くて動きたくなかったんだよね。ごめん。俺が動けば良かったんだよね」

腕が当たるスレスレまで接近して来て間近で微笑んだ。その物凄い破壊力に、私の心臓が仕事を放棄してしまわないかと不安になる。

 あまりにも近すぎるので少し間隔を開けようと、海李君と反対側を見て絶望を感じた。ひじ掛けの横に座っていた私に逃げ道は無かった。お尻をずらすこともできない。再び彼の方を向くと、笑顔のままで私の様子を見ていた。

「さあ、やろう」

機嫌よく声を上げ、両手の指を組んで準備運動を始める。そんな普通に過ごしている姿を見ていたら、私が海李君を意識している態度は不自然すぎて怪しまれる、そう思った。

 落ち着け。落ち着け。落ち着け。

 けれど、どれだけ言い聞かせても、体は意思に対して反抗的だった。

「先に抜いていいよ」

耳に近い場所で海李君に言われ、私は大きく深呼吸をした。心臓だけに留まらず、指先までもが落ち着きをなくして微かに震えている。「先に」と言われても、反乱を起こしている体で小さなブロックに挑める自信はなかった。

「海李君がお手本を見せて」

「じゃあ、俺からいくね」

中間辺りのブロックを慎重に動かして抜き切ると、一番上に乗せて「こんな感じ」と私に向かって微笑んだ。

 それを受け、海李君から視線を逸らしてもう一度大きく深呼吸をする。

「なんでそんなに緊張してんの?」

「あの、……初めてだから」

 私が何度も深い呼吸をする姿を見て緊張していると思ったらしいけれど、まさか『あなたのせいです』とは言えない。ただ、誤解してくれているのなら好都合だった。

「いきます」

宣言をして、震える指でブロックを掴む。

 それは意外にも集中力を要する作業で、徐々に暴れていた心が穏やかになっていくのがわかった。

 何度か同じことを繰り返していくうちに意識がそこへ向き、私は平常心を取り戻しつつあった。他のことが気にならないくらい、次の手を考えることに夢中になる。


 私の番になり、少し難しい所をチャレンジしかけたその時、海李君の言葉で私の心は乱れた。

「凌さぁ、ずっとこっちに居ることってできないの?」

目の前のタワーが大きな音を立てて崩れた。

 ゆっくりと横にいる海李君の姿を見る。

 腿に肘を付き、組んだ両手を口に当てて倒れたブロックを真剣な顔で見入っていた。崩れたことを指摘せず、私を見ようともせず、彼は質問の答えを静かに待っているようだった。

「あの、1年間という約束なので、ずっとは、あの、無理なんです」

まさかの問いに動揺した私は、それだけを伝えるのが精一杯だった。

 誰かに何か聞かれた時に上手に受け答えできるよう、幾つかの質問を想定して、それに対しての回答は用意していた。けれど、想定の中に今の言葉はなかった。

 上手く答えられただろうか。

 不自然ではなかっただろうか。

 少しだけ焦りを覚える。

 私の言葉を聞き、海李君は「そっか」と小さな声で呟くと両手で顔を覆った。会話の無くなった2人の間に、彼の呼吸する音だけが響く。

 しばらくそのままの姿勢で動かなくなった彼に聞いた。

「どうして、ですか?」

 今度は彼が答える番だった。「んー」とうなり声のような音を出し、顔を隠していた手を口元にずらす。

「せっかく友達になれたのに、1年しか一緒にいられないなんて寂しいなって思った。だから聞いてみた。でも仕方ないよね、そういう約束なら」

そう言って顔から手を離し、突然、大きな音を立てて1回だけ手を叩いた。真剣な表情から笑顔になって私を見た。

「凌の負けね」

「えっ!? 今のはズルくないですか?」

「心理戦てやつだよ」

「そんな、卑怯だ」

 

 その後、私達は3回勝負した。

 悔しいけれど全敗だった。

 3回目を始める前に海李君が『負けた人が勝った人のお願いを聞く』というルールを作った。

 彼に望みを聞くと、凄いお願い事を探すから今はまだ使わないと言っていた。

 客間に敷かれた布団に横になり、天井を見つめながら私は色々な事を考える。

 これからのこと、叔父さんのこと、残りの日数でするべきこと、

 最後に、

 この姿でもここに残れたら……

 そこまで思考を巡らせて、私は眠りに落ちていた。

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