彼の確信
海李君の突然のお誘いに私はかなり動揺していた。
これまでの私なら触れられているだけで鼓動が暴れ出すのに、支えられながら2人で歩いているこの状況でさえ無関心になってしまうほど、心ここにあらずだった。
海李君の言葉に思考を占領された私は、隣に彼がいることも忘れて考えにふけっていた。
夕飯に誘われた。しかも百合さんが迎えに来てくれるという。
断る言葉を幾つか並べても海李君が引く気配はなかった。
気が進まない、それが正直な気持ちだ。
あの家に平然な顔をして立ち入れるほど、まだ私の心は準備が整っていない。勿論、何かあっても逃げ出したいなどと願うつもりは毛頭ない。しかし、あの辛い感情が再来するのかと思うと、海李君の言葉に素直に頷けなかった。
じゃあ、どれだけ期間を設けたら、心軽くあの家に行けるのか……
自問してみた。
――答えは明確だった。
きっと、半年後に同じように誘われたとしても、私は行くのを躊躇うだろう。
嫌なことや辛いことから目を逸らそうとするのは私の悪い癖だ。それは、わかっている。わかってはいるけれど……
それでも、何か断る口実がないか模索している私がいた。
廊下を歩いていて自販機が目に入った。ずっと水分を口にしていなかった私は、無性に何か飲みたくなって無意識に彼に尋ねていた。
「ねえ、海李君。ジュース買っていい?」
「えっ!? あっ、ああ、うん」
自販機の前まで来た。イチゴ牛乳があった。迷わずに2つ購入する。
その間も、何か断る手段がないだろうかとそれだけを考えていた。
「はい、海李君」
「ああ、ありがとう」
私が渡したイチゴ牛乳を見つめ、海李君がボソッと呟いた。
「やっぱり、……そうか」
その言葉が気になって、私は考えることを放棄して彼に質問した。
「やっぱりって何がですか?」
「ううん、何でもない。俺、運動場に戻るけど、どうする?」
「これ、向こうで飲むね」とジャージのポケットにイチゴ牛乳を入れて、この後の行動を聞かれた。周りから何か言われるのも面倒だったから、私は一人でいる時間を選択する。
「僕は終わるまで教室で待ってます」
「じゃあ教室まで送るよ」
「固定してもらったら歩くのが楽になったので大丈夫です」
「ほんと?」
「はい」
多少の不安はあったけれど、これ以上は迷惑をかけられなくて平気な振りを装う。少し怪訝そうな顔をした彼に「ほんとに大丈夫です」と念を押した。
教室に向かう階段まで一緒に歩き、そこで一旦立ち止まると、海李君は掴んでいた脇から手を離して私に向き直った。
「ありがとうございました」
「じゃあ、行くね」
そう言って、海李君は玄関に向かって歩き出す。
保健室で着替えたジャージのポケットにジュースを入れて、段々と離れていく彼の後ろ姿を眺めていた。玄関で靴を履き替えるところまで見届けて、向きを変えて階段の手すりを両手で掴む。
先程まで頭を悩ませていた問題は横に置いておき、まずは目の前に発生した課題に挑むことにした。
足に負担を掛けないように、腕の力で体を上に引っ張り上げる。廊下を歩く時は壁に手を着いて行けばいい。これなら何とか2階の教室まで辿り着けそうな気がした。
普段、何気なく使っている階段が、不調の箇所があるだけで進行を阻む敵に見えてくる。
「負けないぞ」
数十cmの大きな壁に宣戦布告した。
意外に体力を消耗する動作だった。足は楽でも腕にかかる負担が大きい。明日は筋肉痛になるかもしれない…… そんなことを考えながら1段1段踏破していく。
あと1段で踊り場に到着するというところで後ろから声がした。
「大丈夫じゃないじゃん」
その言葉の直後に体が軽くなる。横を向くと海李君が脇を支えてくれていた。目が合って、その気まずさから視線を逸らし、目の前に再び現れた彼に聞いた。
「あの、何で?」
「平気な振りをしてるんだろうなぁと思って戻って来た」
そう言って、立ち止まっている私に「上って」と声を掛ける。海李君の介助で体の仕事量が半分以下になり、階段と言う名の大きな敵は対立関係ではなくなっていた。
私は、横を歩く海李君の顔を見て聞いた。
「何で、こんなに親切してくださるんですか?」
「友達だから」
「でも、さっき友達になったばかりだし」
「長さなんか関係ないと思うけど?」
「……何故、僕と友達になってくれたんですか?」
「うーん、……面白い奴だなぁって。だから、もっと話してみたくなった。それじゃあダメ?」
「ダメとかではないですが……。あの、怒らないで聞いてもらえますか?」
「何?」
それまでの海李君の態度を考えたらやはり別人に見えてしまう。その急な変わりようがどうしても気になって仕方なかった。なので理由を直接の言葉で聞く代わりに、オブラートに包んで当たり障りのない質問をした。
「距離の縮まり方が、その、何て言うか、……早いなぁと」
「そうだね、確かに。まあ簡単に言えば、色んなことを凌と一緒にやってみたくなったんだよ。こっちに3月までしか居ないんだろ? もう1年無いしさ、それなら早く打ち解けるにこしたことはないと思った。迷惑だった?」
「いえ、迷惑なんかじゃないです。むしろ大歓迎です」
「大歓迎って」
意外に笑いのツボが浅い海李君は、私の言葉を復唱して声を出して笑った。
何となく理由は別にあるような気がしたけれど、深追いして火傷するくらいなら彼の言葉を信じておくことにした。
階段を制して、廊下を歩く。クリーム色の床が、窓から入る日差しを反射していた。
無人の校舎にスリッパの音が響く。そこへ海李君の声が重なった。
「おふくろに凌のご飯の話をしたら、これから毎日、夕飯食べに来いって言ってた。凌の食器とスリッパを買っておくから断ったら許さないって」
「えっ!?」
「覚悟決めて来るしかないよ。あの人、言い出したら聞かないからね。断ったら毎日迎えに来るはず」
少い意地悪な顔で海李君は微笑んだ。




