体育祭③
二人に両脇を抱えられたまま、私は競技の一環から離脱した。
その場を後にする時、顔を見られたくなくて俯いて退場した。観客の反応も見たくなかった。
周りの騒音も運営委員の呼びかけも、耳が一切の音を遮断する。それは、恥ずかしい姿を披露してしまった羞恥心からであり、隣に海李君がいる緊張からでもあった。
きっと海李君は陽介さんの声掛けで一緒に来てくれたのだろうけど、それでも彼が行動してくれたのが意外すぎて本人なのかと疑いたくなってしまう。
予測不能な出来事の連続で、私の感情は現実に追い付いていなかった。
「足、痛むか?」
「……」
「凌?」
「……えっ?」
「足、痛い?」
陽介さんが顔を覗き込みながら聞いてきた。
心がどこかへ飛んで行ってしまっていた私は、自分の身近で起こっていたことにすら無関心になっていた。
尋ねられて初めて左足に痛みがあることを認識した。慌てて返事をする。
「ちょっとだけ」
「とりあえず保健室に行こう」
「でも、テントに救護係がいるのでは?」
「その恰好でテントに行くの嫌だろ? 凌を置いたら保健医を呼んで来るから」
「ありがとうございます」
運動場から下駄箱まで行くと遠回りになるからと、正面玄関に向かうことになった。
2人は私を気遣ってゆっくりと歩いてくれていた。脇を掴む手も、体を上に持ち上げるようにして私の足への負担を軽減してくれている。彼らのおかげで歩くことに不安はなかった。
「スカート履いてるからおんぶしてやれなくてごめん。もう少しだけ頑張って歩け」
前を向いたまま陽介さんが言った。
「すみません。ご迷惑をおかけして」
「凌が悪い訳じゃねぇよ」
「でも、僕が転ばなければ……」
「やめい。お前はいつもウジウジしすぎ。今度、謝ったらデコピンな」
「じゃあ、ありがとうございます、ならいいですか?」
言い終えると、目の前に陽介さんの右手が現れて私のおでこを中指で弾く。
謝るなと言われたからお礼にしたのに、結局どちらを口にしてもデコピンをされる羽目になった。
「痛っ! 何故ですか!? 謝ってませんよ」
「何か微妙に凌が生意気だったから」
「どこがですか?」
彼を睨むと、すました表情で空を見上げていた。
このやり取りが、複雑に入り乱れた心を少し軽くしてくれた気がする。その悪態は陽介さん流の励ましだったのかもしれない。
玄関の入り口に到着すると。海李君が先に入って来客用のスリッパを用意してくれた。私は陽介さんに支えられて中へと進み、ヒールを脱いでそれに履き替えホールに立つ。2人も同じように履き替えてから私の横に並んだ。
それまで脇を掴んでいた陽介さんの手が、反対側の脇に移って体を密着させてきた。
「えっ!?」
「海李、凌と肩組んで」
「ああ」
「えっ!? 肩を組むんですか?」
「そのほうが早い」
「……早いとは?」
「少し黙って」
「……はい」
背の高い2人は、少しかがんで私の脇の下から腕を入れた状態になった。
「凌も」
躊躇いながら、言われた通りに彼らの肩にゆっくり腕を回す。
私が2人の肩を掴んだことを確認すると、陽介さんの「せーの」の掛け声で彼らは同時に曲げていた膝を伸ばした。私の体は宙に浮いた。足が着かない状態を作り、彼らは私を持ち上げて前進し始める。脇を掴まれて歩くより、確かにこのほうが早い。
2人のおかげで足への負担は無くなった。けれど、この状況に私の心臓は必要以上の運動を始めた。
こんな時に不適切だとは思いながらも、高鳴る鼓動を抑えられない。海李君に触れている左側が熱い。どうにかできる現象でもないから、心臓に近い側にいる海李君に気付かれないように祈るしかなかった。
閉め切った静かな校舎の空気を、外の騒音が微かに振動させる。その音を打ち消すかのように、廊下を歩くスリッパのペタペタとした音が大きく鳴り響いていた。
通りすがりに覗いた職員室に人影は無く、廊下にも誰の姿も無かった。その閑散とした校舎の中を、十字架にかけられたイエスのような恰好で連行される。この異様な光景を目撃する人がいないことは救いだった。
陽介さんが怪訝そうな顔で私を見て言った。
「おまえ、軽すぎ。飯しっかり食ってんの?」
「それなりに……」
「それなりって……。普段、何を食ってんの」
「パン、とか?」
「パンだけ?」
「そうですね。でも、時々お惣菜を買って食べます。自炊しないので」
「もっと、ちゃんとしたもん食えよ。……まあ、いいや。そこ座って」
保健室の前に辿り着くと、肩から降ろされ廊下に置かれている長椅子に座らされた。
私を着席させた後、陽介さんがドアの前に立って取っ手を掴む。鍵が掛けられているようで、ピクリともしないドアに入室を阻まれた。
「やっぱり閉まってるか。俺、保健医呼んで来るから待ってて。あと服も持ってくるよ」
「ありがとうございます」
走って戻る陽介さんを見送ると、立ったままでいた海李君は私から少し離れた所に座った。沈黙が流れ、気になって横目で様子をうかがう。彼は腿に肘を付いて両手で頬を包んだ姿勢でいた。
「あの、有富さん。一人で大丈夫なので戻ってもらっても……」
「いいよ。ここに居る」
私を見ずに正面を向いたまま小さい声で呟いた。
この会話以外、気まずい時間が続いた。
何か話そうと話題になるものを考えたけれど、話しかけたことで余計に重い空気を作ってしまう可能性を恐れて、私は黙っていることにした。
特に何もすることがないので、ぼんやりと正面の壁をみつめる。海李君も動いている気配がなかった。
沈黙という重い時間が漂う中に、不意に服がこすれる小さな音がした。何気なく横を見ると、おもむろに海李君がジャージを脱ぎ始め、それを二つに折りたたんで前を向いたまま私に差し出す。
「掛けておきなよ」
「えっ?」
何に対しての言葉なのかわからず、私は彼の手に握られたままの服を見ていた。しかし自分の脚に目をやると、スカートが下着すれすれまで上がっている状態だと気付く。慌てて裾を掴んで下げ、彼の善意を両手で受け取った。
「ありがとう、……ございます」
「ん」
温もりが残ったままのジャージを腿にかける。その存在から海李君の体温を感じた。それが少し気恥しくて、でも嬉しくて、胸の奥まで温もりが伝わってくるようだった。
ジャージを私に手渡した後、彼は壁に背中を預け上を向いて話し出した。
「あのさぁ」
「……はい」
「俺のこと、苗字じゃなくて名前で呼んで」
「えっ!? でも……」
「この前はごめん。勝手かもしれないけど、もう怒らないから名前で呼んで」
「……いいんですか?」
「うん」
「じゃあ、海李さんと呼ばせてもらいます」
「……いや、この前と同じでいい」
「それは流石に馴れ馴れしくないですか?」
「友達なのに?」
「友達って言っていいんですか?」
「じゃあ、今から友達になる?」
「えっ!? ……はい」
「……呼んでみてよ」
「えっ!? 今ですか?」
「うん」
「……海李君」
「ふふっ」
会話の最中ずっと上を向いたままだった海李君は、私が名前を呼ぶとこちらを見て小さく笑った。これまで見せたことのない優しい微笑みを浮かべ、私の目を捉えて離さなかった。
見つめ合ったまま時間だけが過ぎていく。先程までの気まずかった空気とは真逆で、こちらへ戻って来てから一番心地良い時の流れだった。
どうやって海李君と距離を縮めていこうかと悩んでいたのが嘘のようで、急展開の急接近を喜ばずにはいられない。
ただ、運動場での態度の急変もそうだけど、何故こんなにも様子が変わったのか不思議ではあった。その疑問を解消したい気持ちはあったけれど、本人に理由を尋ねたら、また距離を置かれてしまうような気がする。
前に進み始めたこの関係を壊さないために、敢えて触れないでおくことにした。
しかし、そこで一つの疑念が湧き、どうしても聞かずにはいられなくて恐る恐る口にする。
「まさか、優しくして僕を何か罠にかけようとしてますか?」
「してないって」
リラックスしたように椅子に両手を付いて、可笑しそうに声を上げて笑う。
その様子を見て、胸の奥に電気が走った。
それは私が去る前の海李君の姿だった。
再びこの懐かしい笑顔を見られるなんて思いもしなかった。
彼の眩しいくらいの笑顔に魅入られて目が離せない。
十年先も二十年先もこの笑顔を絶やさないでいて欲しい、そう思った。
私は海李君の未来を見届けることはできないけれど、ずっとずっと幸せでいて欲しい。
――どうか幸せでいてください。私の願いが叶いますように。
心の中で呟いた。
その時、私達の間に流れる穏やかな流れを大きな声が切り裂いた。
「凌くーん」
私を呼ぶ声のした方を見ると、先程の派手な衣装を身に着けたままの真結さんが、競技の時に見せた走り方でこちらに向かって来ていた。
ドレス姿の存在感もさることながら、静寂をかき乱す程のその音量は、静かな校舎の中を彼女一人で賑やかな場に変える。
「凌くーん」
私の前に滑り込むように現れ、廊下に正座して体を二つ折りにし頭を下げた。
「ごめんなさい。ほんとーにごめんなさい。まさか女装させるなんて思わなかったの。恥ずかしい思いさせてごめんね。私のせいでごめんなさい」
「あっ、あの、顔を上げてください。怒ってませんから」
「ほんと?」
頭を上げて心配そうな顔で私を見上げている。
「はい。そもそも高橋さんに謝ってもらうことでもありませんし」
「でも、私が連れて行かなければ」
「大丈夫です。それより結果はどうでした?」
その質問で花が咲いたような表情になり、立ち上がって海李君と反対側の私の横に座った。
「凌君のおかげでボーナス点ついて最高得点だった」
「それは良かったです」
「ねえ、足は大丈夫?」
「はい」
「よかったぁ。捻ったみたいだったから心配してた」
ほっとした様子で体から力が抜けた真結さんは、肩を落として「はーっ」と息を吐く。そして再び心配そうな顔に戻って私に聞いた。
「ねえ、嫌な思いさせちゃったけど、私と友達のままでいてくれる?」
「勿論です」
「ほんとに?」
「はい、友達です」
「よかったぁ。私、凌君しか友達いないから」
心配そうな表情から笑顔に変わる。百面相のごとくコロコロと変化する様子は変わっていなかった。その真結さんらしさは、私が彼女の好きなところの1つだった。
「おーい、高橋。クラスの奴らが捜してたぞ。何か出るんじゃないの?」
随分と遠くの方から、陽介さんが真結さんに話しかけながら向かって来ていた。傍らには保健医の姿があった。
「そうだ。次の種目に出るんだった。着替えなくちゃだ。じゃあ凌君、行くね。有富君もまたね」
「うん」
私達に向かって両手で手を振り、来た時も戻る時も騒がしく、真結さんはバタバタと音を立てながら廊下を走って行く。大きく広がったスカートが彼女の退場を派手に演出していた。
「陽介君、サンキュー」
すれ違いざま声を掛けたのが耳に届いた。
「おう」
片手を上げて応え、陽介さんは保健医と共にこちらへ向かって来ていた。
診察をしてもらった結果、軽い捻挫だろうということだった。
流石に3人抜けるのはまずいからと、陽介さんは競技に参加するために運動場に戻り、付き添いで海李君が残ってくれた。
湿布を貼ってもらい包帯でグルグル巻きにされた。見た目は重症だったけれど、足首を固定されて歩くのが随分と楽になった。
保健室を出て、海李君が隣を歩きながら言う。
「今日、うち来る?」
「何故!?」
「夕飯食べに」
「いえ、大丈夫です」
「その足じゃあ買い物も行けないだろ?」
「非常食のカップラーメンがあるので平気です」
「パンとカップラーメンだけなんて体に悪いよ」
「それでも生存してるので」
「いつか栄養失調で倒れる。それに、その足じゃ帰るの大変だから、親に連絡して迎えに来てもらうことになってる」
「えっ!?」




