行動変容
昨日、あれから真結さんと別れて冷静になり、号泣して醜態をさらした自分の不甲斐なさを恥じた。
まるで子供のように泣きじゃくる私を彼女はどう思っただろう。
中身が私でも、存在しているのは『下野伊 凌』という人間で、この人物と、生きていた時の私との接点は何もない。見ず知らずの人のことであそこまで泣いている姿を不審に感じたりはしなかっただろうか……。
彼女からすれば私の涙の理由は不可解であっただろけど、そこには一切触れることなく帰宅して行った。別れ際、今週の土曜日に再びあの喫茶店で会う約束だけを残して。
昨日の今日で、できれば顔を合わせたくなかった。羞恥心で真結さんの顔をまともに見られる自信がない。
教室に入ると、普段はギリギリで登校してくる陽介さんが、今日は珍しく私よりも先に席に着いていた。重力に逆らわず、腕と足を伸ばし切った姿勢で天井を仰いでいる。力なく椅子に体重を預けている姿はどこか疲れているようにも見えた。
「おはようございます。お疲れですか?」
「おはよ。今、疲労困憊の真っ最中。今朝、早い時間から労働したんだけど、家に帰ったら寝ちゃいそうだからそのまま学校に来た。もう俺の仕事は終わった。真面目に授業受けたいけど、体力の限界だから寝る」
そう言って長い足と腕を折り畳み、机に伏せて寝る体勢を作る。
まるで『今日だけが時別』とでもいうような話振りを笑って指摘した。
「いつも寝てますよね?」
陽介さんが、私の言葉で顔だけをこちらに向けた。
「そうとも言う。いわゆる睡眠学習ってやつだよ」
「ところで早朝から何の仕事をしてきたんですか?」
「んー、秘密。それより凌、昨日の帰りどうだった?」
「えっ?」
「高橋と出掛けただろ?」
真結さんの名前が出たことで昨日の記憶が蘇り、私は返答に詰まってしまった。そんな私を見て陽介さんは体を起こし、腕を組んで上半身だけを私に向けながら言った。
「昨日、高橋が凌のことを聞きに来たんだよ。帰りに誘って大丈夫だろうかって。おまえ学校終わるといつも真っ直ぐ家に帰るって言ってたから、俺が『大丈夫』って返事しておいた。……あいつ、いい奴だから仲良くしてやってな」
そう言って、口角を上げて微笑む。
代わりに返事をしておいたという点はともかく、陽介さんの言葉で昨日の真結さんの話を思い出し、私は思わず笑顔になっていた。
「なに笑ってんのさ」
「昨日、高橋さんも陽介さんをいい人だと言っていたので」
「まじで? じゃあ凌は、いい奴が友達でラッキーじゃん」
「そうですね」
「その言い方よ。本当に思ってんの? そうじゃなかったらお兄さん泣くよ」
「思ってます。本気で思ってます」
彼は頬を膨らめて下唇を出し、すねたような顔をする。
その表情が可笑しくて笑いながら雑談をしていると、前の席の椅子が音を立てて引かれたので意識がそちらに向いた。
海李君が教室に入って来ていたことに気付いていなかったので、突然目の前に現れたことに驚いてしまった。彼の普段と変わらない気だるそうな様子を目で追いながら、私は少し緊張しつつも声を掛ける。
「おはようございます」
怒りは収まっていないだろうけど、海李君の背中に向かって挨拶をした。
当然、いつものように一方通行になるのはわかっていても、それが声を掛けないという理由にはならない。けれど、私が挨拶をして、また不愉快にさせてしまわないだろうかとそこだけは気掛かりだった。
椅子に座る間際、海李君がわずかに後ろを振り向いた。
これまで見せたことがない反応に、無意識に心が防御の構えを取った。機嫌を損ねてしまったのだろうかと不安になって、恐る恐る彼の動向を注視する。
「……おはよ」
「えっ!?」
予期せぬ出来事に、思わず感嘆の声を上げてしまった。
それは、関心を向けていなければ、聞き逃してもおかしくない程の小さな声だった。
唖然として背中から目を離せずにいる私を他所に、海李君は何事もなかったかのように腰を下ろして寝る体勢になる。
聞き間違いではないだろうかと自分の耳を疑ったが、ふと横を見ると陽介さんが左手の親指を立てて笑顔を作っていた。その彼に声を出さずに驚いた顔をしてみせると、大きく頷き「よかったな」と声に出さずに唇を動かす。
昨日まであれほど怒りを露わにしていたのに、たった1日でのこの変わりようは驚き意外の何物でもなかった。どういった心境の変化なのか知る由もないけれど、海李君に拒絶されなかったことが素直に嬉しかった。
「じゃあ、俺は寝るからね。おやすみ」
「おやすみなさい」
本来、学校では使用しないであろう挨拶を交わし、陽介さんは眼鏡を外して眠りに就く。そんな彼を横目で見ながら、私は喜びで緩んでしまう頬を両手で包んで隠した。
昼休みになり、学食に向かう陽介さんを見送る。「いってらっしゃい」と声を掛けるのが日課になりつつあった。その姿が見えなくなると、既に席を外している海李君を追うように、私もパンの入った袋を持って校庭に出た。
指定席で寝転ぶ彼の姿を確認し、私は自分の相棒の前に立つ。
この場所で海李君を見るのは3日振りだった。そこまで日数が経っている訳でもないのに、物凄く久しぶりな気がする。
気付かれないように小さく頭を動かして横目で彼の姿を見ると、相変わらず空を眺めているようだった。腕を枕にし、足を組んでいる姿も普段と変わりない。
朝、挨拶を交わしてはくれたけれど、まだ海李君の中に怒りがくすぶっているのかどうかは確認のしようがない。ここに座ることを、もしかすると拒否されるのではないかと一抹の不安があった。しかし、特に何か言われるような気配は見られないので、容認してくれたのだろうと勝手に解釈してベンチに腰を据える
グラウンドに目をむけると、サッカーボールを追いかけ回している数人の男子がいた。今日は彼らだけで敷地を独占していた。楽しい時間を満喫しているとわかる高らかな笑い声と、ボールを蹴り合う音が校庭に響いている。
彼らの姿を眺めながらパンの袋を開ける。爽やかな風が吹き抜け、ビニールがカサカサと音を立てた。その中に小さな男性の声が混じった。
「あのさぁ」
話し掛ける声がどこから聞こえたのかわからず、私は振り返ってその主を探す。しかし後ろには人影はなく、周りを見回したけれど誰の姿もなかった。空耳だったのかと思い、千切ったパンを口に入れようとした瞬間に再び声がした。
「ごめん」
「えっ!?」
それは明らかに海李君の声だった。
慌ててそちらに視線を向けたが、先程までと変わらぬ体勢のままで何の変化も見られない。海李君の声だと思ったけれど、よくよく考えれば彼が私に話しかけてくることなどないだろう。急に自分の御都合主義が恥ずかしくなった。
しかし、彼が頭を少しだけ持ち上げて、景色でも空でもなく私に目を向ける。
視線が重なり、先程の声が幻聴ではなかったと気付いた。
「陽介に、八つ当たりするなって怒られた。確かに八つ当たりだった。だからごめん。……それだけ」
言い終えると、何事もなかったかのように頭を下ろして空に視線を戻した。
たった数秒だったけれど、海李君が私に使ってくれた時間だった。
ここへ戻って来て、初めてこれだけ長く彼の声を聞いた。数か月までは当たり前に隣で耳にしていた声音なのに、今はそれが特別な色に変身した。私に向けて発してくれた声が嬉しくて胸の奥が震える。
にやけてしまいそうになる顔の筋肉を必死で制御して、海李君に謝罪の言葉を伝えた。
「えっと、あの、僕こそごめんなさい」
「……いや、おまえは悪くないし」
まだ、歩み寄れたという程のレベルではないけれど、それでも1mmでも海李君の側に近付きたい。
陰で力になってくれていた陽介さんに感謝しなくては……
空を見上げながら、この喜びを早く陽介さんと共有したいと考えていた。
海李君のよりも一足早く教室に戻った私は、机に伏せている彼に話しかけた。
「就寝中にすみません」
「ん? ああ」
私の声で、陽介さんはゆっくりと頭を持ち上げる。大きく伸びをしながら体を起こし、硬直している筋肉を緩めるように腕を上げたまま体を左右に振る。
その動作を終えると、全身の力を抜いて背もたれに寄りかかりながら返事をした。
「どうした?」
私は、逸る気持ちを抑えつつ顔を少しだけ近付けて、まだ眠そうな目をした陽介さんに小声で囁いた。
「有富さんと話せました」
「ふーん、よかったな」
「陽介さんのおかげです。ありがとうございます」
「えっ? ……ああ。俺は、凌に海李を誤解したままでいてほしくなかったから、あいつと話したまでのこと。礼には及ばん」
「やっぱり、……いい人ですね」
「おまえ、真顔でそういうこと言うな」
口を真一文字に結んで少し照れくさそうな顔をすると「寝る」と再び机に伏せてしまった。てっきり軽口を叩くかと思いきや、その可愛い反応は意外なものだった。
丁度、話し終えたところで戻ってきた海李君は、いつもと変わらず周りとの接触を避けている様子で席に着く。
けれど、私の目には今までの彼とは少し違う姿に映っていた。




