急転
今日、学校に来た海李君は、普段通り私を見ることなく席に着いた。
ただ、いつもとは様子が違い、眉間に皺を寄せた表情で乱暴に音を立てて椅子に座った。ここへ来て初めて見せる振る舞いに、それが私に対する怒りのせいなのだと察しがついた。謝る隙さえ与えてもらえないような拒絶感が漂っていて、挨拶すらできる雰囲気ではなかった。
謝る機会があるとすれば、あのベンチでしかないと思っていたけれど……。
朝のホームルームの時間に「まだ体調が悪いので、保健室に行ってもいいですか?」と、担任に退室の許可を願い出た。
前日に欠席していたので担任もあっさりと了承し、今日もまた私の前にのポッカリと空席が出来上がる。
自分の弱さに立ち向かう心づもりで登校したはずが、それも虚しく大きな空振りとなってしまった。
成す術のない状態に解決の糸口を見出せず、途方に暮れるしかなかった。
「昨日、どうだった?」
陽介さんが、少しだけ短くなった前髪の向こうで私を見ていた。背もたれに体重を預けて足を伸ばした体勢で、首だけをこちらに向けている。
昨日の出来事を報告する気まずさに、その目から逃れるように俯いて手の平を見つめていた。
「……また、怒らせてしまいました」
「何故そうなる!? 謝ってきたんじゃねーの?」
「……謝れなかったです。部屋のドアを開けてはくれたのですが、僕を見たら勢いよく閉めてしまって、話すことすらできませんでした。顔を合わせたくなくて保健室に行ってしまったのでしょうか……」
「はあーっ」
陽介さんが大きな溜息をついた。
「やめやめ、もう考えんな。俺も滅入るわ。あいつがそんな感じだったら、多分、謝ったところで何も変わらん。この話は終わり。忘れろ」
「ですが……」
「もう、やめい。この先、同じ失敗を繰り返さなければいいだけだろ? もっと有意義なことで悩め」
「……はい」
「じゃあ、これで終了。それより今日の1限の英語、視聴覚室って言ってただろ? そろそろ行かないと」
席から立ち上がり、机の上に用意していた教科書を持って「ほら、行くよ」と私の腕を引いた。
周りを見回すと、大半の人が移動をし始めている。動きたくない気分ではあったが、しぶしぶと思い腰を上げて教室を後にした。
クラスの人達の後を追うように、私達は視聴覚室ある3階に向かって階段を上っていた。
沈んでいる心が体にも悪影響を及ぼし、段を上がる足が普段の何倍もの重さに感じられる。前を行く陽介さんに後れを取らないよう、掴まる手すりに体重を掛けながら上を目指した。
その時、2階から3階へ向かう踊り場の隅に、1冊の小さなノートが落ちていることに気付いた。
見て見ぬふりをしようという考えが頭をよぎったけれど、一度目に入った物を無視するのも気が引けた。持ち主がわかる物であれば届けてあげるつもりで、それを拾うために彼の後ろから外れた。
腰を屈めてノートを手に取る。
――えっ?
状況が呑み込めず、頭が真っ白になる。
見覚えのあるメモ帳だった。
……何故
……これが?
震える手で、恐る恐る最後のページを開く。
そこには、想像通り私が描いた真結さんの似顔絵があった。
何故、これが、
……ここに?
「おい、凌。授業に遅れる」
踊り場の端で立ち尽くしている私に、数段上にいる陽介さんが声を掛けた。
その声は私に届いていたけれど、脳が言葉だと認識していなくて『何か音がした』くらいの受け方だった。
「おい、凌。何してんの?」
再び呼びかけられた。
我に返り、陽介さんを見上げる。
「落とし、物、が……」
切れ切れの言葉で、それだけを伝えるのが精一杯だった。
メモ帳に視線を戻す。手の中で横たわっている存在が信じられなかった。
「あーっ、それ、私んの」
階段の上から、懐かしい声がした。
その声色が耳に届いているのも信じられなかった。
ゆっくりと顔を上げる。
陽介さんの横を急いで駆け下りてくる真結さんの姿が目に飛び込んできた。
……どうして真結さんがここに?
幻でも見ているのかと錯覚した。
「ありがと。どこで落としたかわかんなくて探してたんだ」
そう言って、開いたままのメモ帳を自分の手に戻して私を見上げる。
目の前で彼女が動いていた。それでも彼女がそこにいることが信じられなかった。
「えっ? 何? なんで泣いてんの?」
真結さんが驚いた顔で見つめていた。
彼女の言葉の意味がわからず、私を見ている2つの瞳をぼんやりと見やる。
「どうしたの? なんで泣いてるの?」
顔に触れると、頬が濡れていた。涙が流れていたことに気付き、それを慌てて手の甲で拭う。
「あっ、……すみません」
「何を謝ってんの?」
「あ、えっと、……勝手に中を見てしまって」
「もしかして、絵を見て泣いてた?」
「いや……」
開かれたまま手元に戻った手帳をちらりと見て、再び私に目線を戻した。真っ直ぐに見つめられて、慌てて視線を外す。
私達が会話をしているところへ、陽介さんが階段を下りて近寄って来た。
「あっ、高橋じゃん。どう? 学校慣れた?」
「まあまあね。何? 陽介君の友達?」
「そう、彼も4月からの転入生」
「おーっ、仲間じゃん」
そう言って、ノートを持っていない手で私の肩を軽く叩いて微笑んだ。その懐かしい笑顔から目を離せずにいると、横から陽介さんの声がした。
「あの、申し訳ないんだけど1限に遅刻する、まじで」
彼の言葉で自分の腕時計に目を落とし「ほんとだ、やばい」と真結さんが小さく叫んだ。
「高橋、またね。おい凌、行くぞ」
「じゃあね」
片手を上げて挨拶をし、彼女は階段を下りて私達とは逆方向に向かって行った。
腕を引かれ、私は促されるままに階段を上がる。
けれど、体は上階を向いていても、階段を下りていく真結さんから目を離せずにいた。姿が見えなくなるまで、その後ろ姿を追っていた。
ぎりぎりで授業に間に合いはしたが、私の心は別のところにあって、教師の話している内容は全く耳に入ってこなかった。
先程の真結さんとの再会が理解できずにいた。そのことで、私の思考は独占されていた。
何故、彼女がここにいるのだろう……。
前の高校は?
いつから、この学校にいた?
クラスは違っても、真結さんまでもがこんなにも近くにいた。状況が呑み込めず、混乱が頭の中を駆け回る。どれだけ考えたところで、私が正解を導き出せるはずなどない。それはわかっているけれど、考えずにはいられなかった。
正直なところ、急展開で繰り広げられる状況を不気味にすら感じていた。
それは、まるで上手に作り上げられたシナリオのようであり、弱い心に負けた私への彼からの挑戦状にも思える。
舞台を用意したから演じてみろ、そう言われている気がした。
勿論、ここに身を置いている期間に、いつかは真結さんとも向き合うつもりでいたけれど、それは、もう少しこの環境に慣れてからと考えていた。
私が予測できない早すぎる再会の数々に、感情が振り回されているのは否めない。
これ程までの出来事が重なれば、あそこへ戻る前の私なら気持ちが追い付かずに迷わず逃げる道を探していただろう。
けれど、もう、どんなことがあっても後退しない。
自分が納得できる1年間を過ごせたら、逆に魂を消滅させられてもいい。
放課後になり、陽介さんが帰り支度を始めた。
火曜日以外はアルバイトがあるという彼は、大抵、ホームルームが終わると帰宅する。
「じゃあ、また明日な」
「はい。また明日」
挨拶すると、急ぐ様子もなく教室を出て行った。
何のアルバイトをしているのか尋ねたことがあった。けれど「楽しい時間を提供する仕事」と曖昧な言葉で濁された。言いたくないこともあるのだろうと、特に深追いするのはやめた。
海李君の席に目をやる。
担任の話では、午前中で早退したとのことだった。結局、今日も戻ってくることはなかった。
「はーっ」
溜息が出た。その吐息が何に向けてのものなのか自分自身でもわからない。
海李君の不在に対してなのか、真結さんがここにいることに理解が追い付いていないことになのか……
気持ちを入れ替えようと、目を閉じて大きく頭を振り、両手で頬を叩いた。
乾いた音が響いた。
大きく息を吸い、ゆっくり目を開ける。
「はぁい、同士」
「うわっ!」
瞼を開けると、海李君の席で背もたれに腕を乗せ、食い入るように私を見ている真結さんの顔があった。驚きのあまり体がのけぞり、椅子ごと後ろに倒れてそうになった。様々な意味で、脈拍が最高潮に達したと思われる瞬間だった。
「ごめんごめん。そんなにびっくりすると思わなかった」
「いえ、大丈夫です」
心臓が早打ちをやめる気配はなかったけれど、私は平常心を装う。
「どうかされましたか?」
「あのさ、これから暇?」
「どういうことでしょうか?」
「ちょっとさぁ、付き合ってもらいたいんだけど」
「どちらへ?」
「行けばわかる」
「行けば……」




