再出発
気が付くと、私の瞳が映しているものは白一色に変わっていた。
「おかえり」
頭の中に声が響き、その声の主を探す。振り返ると、数歩先であの人がにこやかに手を振っていた。
「ここは……」
「戻って来たかったのではないの?」
彼は目の前まで歩みより、私の頭を優しく撫でた。
「お疲れ様」
直前まで海李君の家の玄関にいたのに、突然ここへ戻されたことに驚いて辺りを見回す。
そこには、境のない白い世界が広がっていた。色があるのは、私と、前に立つこの人だけ。
俯いて手の平をみると、それは私のものに変わっていた。スカートの下から覗くつま先も、筋肉とは無縁の腕も、これまでずっと目にしてきたものに復元している。それらが、ここへ戻って来たのだと証明していた。
もう、あの辛さに耐えなくていいのかと思ったら、どこか安堵している私がいた。
ただ。
全てから解放されたはずなのに、何故か心は重いままだった。
「ねえ、1つ聞いていい?」
彼が優しい口調で頭の中に話しかける。
「……はい」
「学校ではあそこまで心が乱れなかったのに、どうしてあの家では耐えられなくなったの?」
「……学校には過去の私が無いから」
「どういうこと?」
「あの家には私の過ごしてきた毎日が詰まっていて、どれ1つ取っても思い出があって、それを見るのが苦しくて……」
「なるほどね。それで耐えられなくなってしまったんだね」
「ごめんなさい」
「それでは仕方がないね。ゆっくり休んで」
「あの。 ……少し落ち着いたら戻ってもいいですか?」
「戻る? 何を言っているの? それは、あまりにも都合が良すぎやしないかい? もう、君はここから出られない。二度は無いよ」
「えっ!?」
「……実際のところ、僕は、期限より前に君がここへ戻って来ると最初からわかっていた。本来であれば聞き捨てても構わないところを、君があまりにも熱心に綺麗事を語るから承諾してあげたんだ。僕なりの温情を示したつもりだったのだが?」
「どういう……、意味……」
「あれほどの御託を並べておきながら、苦しい、辛い、逃げ出したい……、 そうやって全てを投げ出してきた。僕は、そういう君の姿を予想していた。けれど君の望みを叶えてあげた、ということだよ」
「でも、あの時は、本当にみんなのために……」
「知っているかい? それを綺麗事と言うんだ。立ちはだかるであろう事態を想定して様々な問いをしたよね? 苦難に直面するのを承知で戻ったのではないのかい?」
「それは……。過去に触れることがこんなにも辛いだなんて思わなくて……」
「君が辛いと感じたあの家で、君が残した痕跡を目にしながらあの人達は生活している。君は、たった1回足を踏み入れただけ。2人は、これからもそこで生きていかなければならない。彼らの苦しみは君の比ではないと思うけど? 他の人だって同じだよ。君の叔父さんや友達、関りを持った人達が、いなくなった君を想いながら悲しみを募らせている。君は、何の為に戻ったの? 泣いたままでいさせたくなかったんじゃないの? まあ、簡単に逃避を選ぶくらいだから、彼らの存在はその程度だということだよね。それで、よく戻りたいなんて言えたものだ。『何かできることがあるはず』なんて、僕から言わせれば戯言以外の何物でもない。君は、ただの偽善者なんだよ」
放つ言葉とは対照的に、慈愛に満ちた眼差しで微笑みかけられ、その不気味さに背筋が凍る思いがした。
けれど、彼の言っていることは全てが正論だった。私は、あの辛さから逃げたいと強く願ってしまった。
海李君の変貌した姿を目の当たりにしておきながら……。
あの日、私の中に流れ込んできた皆の泣いている姿が再び脳裏に蘇る。
私のせいで、海李君がどれだけ涙を流していたか知っていた。何日も泣き叫ぶ姿を見せられた。
海李君だけじゃない、百合さんだって、叔父さんだって、真結さんだって……。
私は、迷わずに自分を苦しみから解放することを望んだ。みんなが私のために流してくれた涙を知っていながら……。
……情けなくて惨めだった。
私の頭に、白くて綺麗な手が乗せられた。
「じゃあ君の記憶を消すよ」
「えっ!? どういうことですか?」
「ここを選んだのだから、これまでの記憶は必要ないでしょ?」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「君との会話は飽きた。もう終わりだよ」
「いやっ!」
そう叫んで、私は彼の手を振り払った。
「あの、もう一度だけ私に機会を与えてください。お願いします」
「どういうこと?」
「もう一度、戻らせてください」
「二度は無いと言っただろう? 何度戻っても同じ。また君は全てを投げ出す。諦めて」
「お願いします。絶対に逃げることを選んだりしません。お願いします」
「こういう不毛なやりとりはやめないか?」
「お願いします。どれだけ辛くてもここに戻りたいなんて弱音は吐きません。1年間の期限まで、あそこに居させてください。お願いします」
「容認できない」
「お願いします」
「往生際が悪い」
「お願いします」
「はーっ。それでは1つ条件を出す。また逃げたいと望んだ時、ここへは戻さずに君の魂を消滅させる。それでもいいのかい?」
「はい」
目を開けると、私は海李君の家の玄関に戻っていた。
見慣れた室内がそこにあることに、涙が出そうなほど嬉しくなった。
目線を下げると、上がり框に青いスリッパが鎮座している。
しっかりしなくては。
再び与えてもらった機会を無駄にできない。限られた時間の中で、辛いなどと嘆いている余裕はない。
自分自身を鼓舞するように両手で頬を叩くと、パチンと大きな音が家の中に響き渡った。
「えっ!? どうしたの!?」
私の突然の奇行に驚いた百合さんが、目を大きく見開いて驚いた顔をしていた。
「気合いを入れました」
「気合い?」
受け入れたくない気持ちを抱きつつも、私は、意を決して青いスリッパに足を入れた。
「お邪魔します」
リビングの扉の先も、何も変わりがない私の知っている空間が広がっていた。
「今、お茶を用意するから座って」
百合さんが、キッチンへ向かう。
手にしていたバックをテーブルの脇に置き、いつも座っていた椅子を無意識に選んで座った。
そこから見る室内も、家の外観同様、何一つ変わっていない。
百合さんが、お茶とお菓子を乗せたトレーを持って戻って来た。私の正面の海李君の席へ座り、それらをテーブルに置きながら言った。
「何かあると、いつも陽介君が来てくれるのだけど、今日は珍しいのね」
「……はい、陽介さんの代わりに来ました。あの、有富さんの具合は如何ですか?」
私の問いに「ふふっ」と小さく笑って言った。
「もう、熱も下がってるし、明日から学校に行けるわ。私も有富さんだから、なんだか変な感じ」
「……すみません」
「別に謝ることじゃないわ。海李のことを、そう呼ぶ人に初めて会ったかもしれない」
「……はあ」
「あなたとは初対面よね?」
「僕、4月から転入したので」
「そうなのね。あの子、ちょっと付き合いにくいだろうけど宜しくね」
「……はい」
「……もしかして、海李と何かあった?」
「えっ!?」
「陽介君が来ないのが不思議だったのよね。あなたも感じてるかもしれないけど、今の海李は陽介君以外を近付けないの。だから、何かある時は陽介君が家に来てくれていた。でも、今日、あなたを来させたってことは、そこに何か意味があるのかなって」
テーブルに肘を着いて、私の顔を覗き込む。決して目を逸らそうとしなかった。真っ直ぐに見つめてくる瞳に全てを見透かされている気がする。
その視線が痛くて、我慢できずに俯いた。
海李君の姿がなかったから、このまま帰るつもりで「意味はない」と言おうとした。けれど、その言葉に百合さんは不信感を抱くだろうし、何よりこの人に隠し事をしたくない。彼女を見つめ返して訪問した理由を素直に語った。
「あの、昨日、僕が有富さんを怒らせてしまって。謝りたくて来ました」
「なるほどね。でも、謝るにしても、あの子、呼んでも降りて来ないと思うわ」
「そう、……なんですね」
「部屋まで行ってみる?」
「……いいんですか?」
「ええ、構わないわよ」
穏やかな表情で、何の躊躇いも見せずに許可を下す。
私は、ゆっくりと席を立った。
海李君の部屋を訪れる緊張で、脳からの指令が四肢に上手に伝達できていない。
微笑んでいる百合さんに「それでは、お言葉に甘えて」と、ぎくしゃくとした足取りで扉に向かって歩き出す。
出口までたった数歩の距離が、とても遠い道のりに思えた。
――別れの日になって、このやりとりの思惑を百合さんから聞かされることになる。
階段を上がって、海李君の部屋の前まで来た。緊張がピークに達している。
けれど、逃げてはいけない。逃げない。私は逃げない。
折れてしまいそうな心に言い聞かせた。
大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
何度、この部屋のドアをノックしただろう。今日は、今までとは違う意味で部屋のドアを叩く。
応じてもらえるとは思っていないけれど、私はその閉ざされた向こうの空間の空気を揺らした。
――コンコン、コン
やはり反応がない。
寝ている可能性も考え、もう一度ノックしても応答がないようなら、今日は諦めて帰ろうと考えた。
――コンコン、コン
すると、中でバタバタと大きな音がしたかと思ったら、いきなり勢いよく目の前のドアが開かれた。
「さく……。え?」
あまりにも突然に視界が開けたので、声も出せずに立ちすくんでしまった。
開けた先にいた私を見て、ボサボサ髪の海李君が、笑顔から真顔に戻って眉をひそめる。
「なんで、……お前なの?」
明らかに落胆した様子で、睨むようにこちらを見ていた。
その冷たい目を受けながら、挫けそうになる心を奮い立たせて訪問した理由を口にする。
「昨日のことを謝りたくて、来ました」
自分でも驚くほど声が震えていた。
「はーっ」
彼は大きな溜息をつき、両手を膝に置いて頭を下げた。そして、下を向いた姿勢で左手をドアに掛け、まるで怒りをぶつけるように勢いよく閉めた。『バン!』という破裂音に似た音と共に、視線の先に再び扉が現れる。
目の前で瞬間的に嵐が起こり、瞬く間に消えた……、そんな感覚だった。
あそこまでの拒絶されるなどと想像もできなくて、何も考えられずにいた私は、しばらく呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
リビングに戻ると、百合さんが笑顔で私を迎え入れ、手にしていたマグカップをテーブルに置いて「どうだった?」と聞いた。
ドアを閉めて軽く会釈をし、落胆のせいで重くなった足を引きずりながら彼女の元へ歩み寄る。
このまま帰ろうと思い、床に置いてあったバックを手にした。
「会えたかしら?」
「また怒らせてしまいました」
「あの子、ドアを開けたの?」
「はい、一応。でも、すぐに閉められてしまいました」
「そうなのね。嫌な気分にさせてごめんなさい」
「いいえ。悪いのは僕なので。それでは、これで失礼します」
「今日は、わざわざありがとう」
「はい」
「お邪魔しました」
玄関まで見送りに来てくれた百合さんに挨拶をして、私はドアを開けた。
「あの子には無理だったのね」
閉める間際に、百合さんがボソッと呟いた。




