葛藤
久しぶりに海李君の家に来た。
門の前に立ち、何も変わりのない外観の全貌を眺めていると、懐かしい気持ちが込み上げてきた。
数か月ぶりに目にする光景が、楽しくて幸せだった日々を思い出させる。
門を抜け、温かい空間を訪れた毎日。幸福に満ち、私に居場所を与えてくれた家。この先の場所へ、あの頃の私が笑顔で入っていく映像が思い浮かんだ。
けれど、
今は違う。
以前、訪れていた時のように気軽に扉を開けられない現状が、私の心を強く締め付ける。
門の先に見えない境界線が存在していて、侵入を拒まれているように感じた。
私は私なのに、私が私ではない今。
それを痛感してしまう。
乱れた心を落ち着かせるため、何度も大きく息をする。
この時間なら百合さんが帰宅しているはずだ。あの優しい笑顔を思い返していたら、心臓が反乱を起こして過剰な運動を開始した。
インターホンに指を伸ばす。
けれど、それを押す勇気がなくて、手をきつく握りしめた。腕を下ろし、目を閉じて深い深呼吸する。たったそれだけの行動を起こせずに、何度も同じことを繰り返していた。
ここから逃げ出してしまいたかったけれど、自分自身から逃げたくなかった。
今度こそと覚悟を決めて、ゆっくりと腕を上げる。
「もしかして海李のお友達?」
指が届く直前に、背後から百合さんの声がした。
全身の筋肉が瞬時に反応して力が入り、一気に鼓動が早まった。
覚悟を決めたと言っても、不意の状況に対しての心の準備は整っていない。
恐る恐るゆっくり振り返ると、右腕に買い物バックをぶら下げた百合さんが立っていた。少しやつれた感じがしたけれど、あの優しい笑顔は変わらぬままだった。
目が合って緊張が増した。
「はい。あの、……同じクラスの、……下野伊、です。あの、……えっと、……プリントを届けるようにと……」
「あら、わざわざありがとう」
私は、自由の利かない震える手で鞄に入れてあるプリントを取り出し、百合さんの前におずおずと差し出した。それを受け取って内容を一瞥すると、顔を上げて言った。
「ねえ、お時間、大丈夫かしら?」
「えっ? あっ、は、はい」
「少し、お茶しない?」
「え?」
「美味しいお菓子を頂いたんだけど、うちで消費しきれないから手伝って欲しいの」
「……は、い」
「ほんと? 助かるわ。じゃあ、入って」
門扉を開けて先に入り「どうぞ」と促す。
プリントを渡すだけのつもりで来たのに、無意識に「はい」と返事をしてしまっていた。
いや、無意識ではなかったのかもしれない。
もう少しだけ一緒にいたいと、心のどこかで考えていたのかもしれない。
皆無なことを知りつつも、もしかしたらまだ私の居場所が残っているかもしれない……、そんな淡い期待を抱いていた私が「はい」と返事をさせたのだろう。
しかし、体は促された先へ進むことができなかった。これまで当たり前のように訪れていたはずなのに、何故か知らない場所に立ち入る心境だった。
この先の境界線に阻まれている感覚が、これ以上の侵入を躊躇わせている。
「大丈夫?」
動かずにいる私を、百合さんが見つめていた。
私よりも身長が高かった彼女を、今は少しだけ上から見下ろしている。
今までとは違う些細な変化が、尚更、私を前進させない足枷となった。
「入って」
近付いて隣に立った百合さんの手が私の腕に触れた。その手に微量の力が加わり、さりげなく誘導するように斜め前を歩く。
玄関までの短い道のりの中で、私は全力疾走した後のように何度も呼吸を繰り返していた。酸素が足りなかった訳ではない。息をすることで気持ちを外に向けていないと、号泣してしまいそうな切なさに襲われていたから。
「ちょっと待ってね」
ドアを開けて入り、スリッパを上がり框に用意してくれた。
それは、お客さん用に用意されている青い物。
私が使っていたピンクではなかった。
あくまでもお客さんとして迎えられているのだから、それは勿論、当たり前のことなのだが……。
いつもの定位置からピンクのスリッパの存在が消えていた。
淡い期待は無残に砕け散った。もう私の居場所ではなくなったと確認させられているようで、容易く受け入れられる現実ではなかった。
「どうぞ、上がって」
初めて、色に対して疎外感というものを感じた。
この『青』が悪いわけではないけれど、それが憎らしい存在に見えてしまう。
「どうかした?」
スリッパを見つめたままで上がろうとしない私を、不思議そうな顔で見ていた。
この家に初めて来た時と全く同じ情景だった。
あの日も、上がることを拒んでスリッパを見つめていたら同じ顔をしていた。
ここに有る物、この家の空気、会話や出来事、この場所には過去の私の毎日が詰まっている。全てが記憶に留められている。
これまで私が過ごしてきた日常と対面して、今、その思い出の数々が苦しみを生み出していた。
輝いていた日々が眩しいものであればあるほど、心に与えるダメージが大きい。
あの人が言っていた。
「苦しくて辛くて、戻らなければよかったと後悔するかもしれないよ?」
と。
その言葉の意味が、少しだけ理解できた気がした。
百合さんの言葉を受け入れるべきではなかった。
……逃げ出したい。
いっそのこと、あの何もない白い空間へ逃げてしまいたい……
私の感情が限界を告げていた。
確かに、戻ることは自分で決めた。
そう決めた時には、過去の自分と対峙することが、これほどまでに残酷だとは想像できなかった。
この先、こんなふうに心をえぐられる場面に何度立ち向かわなくてはいけないのだろう。もっと沢山の辛いことや苦しいことが待ち受けているのだとしたら、これ以上この世界に留まることは私には困難かもしれない。
戻って、あの人に「ほらね」と笑われてもいい。
ここから逃げたい……




