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怒り

 2日目の朝。

 私は体の内側から伝わる震えに耐えながら、前の席の主が来るのを待っていた。

 微動だにせず着席している私を見て「大丈夫?」と橋乃宮さんが声を掛けてきた。しかし、心に余裕がなく、前方に顔を向けたまま「はい」と答えるのが精一杯だった。

 ホームルームぎりぎりで登校してきた海李君を目にして、一層、緊張が高まる。

 彼は、周りからの挨拶を無視して気だるそうに席に着くと、倒れ込みそうな姿勢で椅子を引いた。

 「おはようございます」

並々ならぬ思いで挨拶をしたけれど、私に顔を向けることすらしなかった。

 昨日の海李君の様子を見ていたから、これは想定内ではあった。だから、その対応に対して非難するつもりなど、これっぽっちもない。

 ただ、挨拶を返してもらえないことを悲しいと感じるより、無反応が彼の心情の現れなんだと切ない気持ちのほうが大きかった。

 広い背中を丸めて机に伏せている姿が物悲し気で、無意識に撫でようとして手を伸ばしてしまっていた。それを慌てて戻し、握りしめた手を反対の手で覆う。

 こんなにも近い場所にいるのに、何もできないことにもどかしさを感じた。

 他に意識を向けようと、今日、届いたばかりの教科書を開く。内容など入ってこない。けれど、今日ほど教科書の存在を有り難く思ったことはなかった。


 海李君は、4限のチャイムと共に教室を出て、どこかへ行ってしまった。

 このクラスは昼休みを教室の外で過ごす人が多いらしく、残っているのは数人でお弁当を広げている女子のグループだけだった。

 席で、その賑やかな様子を眺めていると、橋乃宮さんが隣に立って言った。

「俺、学食行くけど一緒に行く?」

「持参しているので大丈夫です」

「わかった」

 彼が教室から出て行く姿を目で追い、一人になった私は、目の前に置いてある袋からパンを出して食べ始めた。姿が変わっても、以前と変わらぬパンだけの食事。それを口に運びながら、真結さんが作ってくれたお弁当を二人で食べた日のことを思い出していた。

 彼女は、どうしているだろう。いつも一緒に昼食を摂っていたけれど、また一人で教科書を片手に食事をしているのだろうか。

 そんなことを考えながら真結さんの姿に思いを馳せていたら、例えようのない寂しさを覚えた。涙が出そうだったので、気を紛らわせようと窓の外を見る。

 綿菓子みたいで美味しそうな雲。学校の前を走る黄色の車。

 運動場で、楽し気な声を上げながらサッカーをしている数人の男子生徒。部活の昼練らしく、ストップウォッチを持った教師と体操服でグラウンドを走っている生徒。

 見えるものに興味はないけれど、関心のないものに意識を向けていたら、少しは心を楽にできる気がした。

 校舎側には、いくつかのベンチがあった。ほとんどは空席だったけれど、右手側の一番端だけ人影が見えた。そこで目が止まった。

 横になって腕を枕にし、膝を立てて足を組んでいる姿。その足先の赤い靴に反応して、心臓が小さく跳ねる。

 あれは海李君だ。

 何をするわけでもなく、彼は休憩時間をその場所で横になって過ごしていた。たまに組む足を変えてはいたけれど、それ以外の動作は無かった。

 5限の予鈴で彼が動き出すまで、私はその姿をずっと眺めていた。



 今日も、ギリギリで登校して来て、やはり机に伏せっていた。挨拶しても、前日と同じで反応がない。休憩も授業中も同じ姿勢で伏せていたけど、時折、頭を乗せる腕を変えたり、腕を伸ばしたりの動きはあった。先生に注意された時だけ起き上がっても、また同じ体勢に戻ってしまう。

 特に授業を聞いている様子も見られず、出席日数のためだけに仕方なくここに居るとしか思えなかった。

 

 4限の終了のチャイムと同時に、前の椅子が『ぎーっ』と音を立てた。海李君は、今日も何も持たずにズボンのポケットに両手を突っ込んで、俯きながら教室を出て行く。

 その姿を目で追っていると、橋乃宮さんに声を掛けられた。

「学食、行く?」

「今日も持参しているので」

「わかった」

そう言って、彼もポケットに手を入れて教室を出て行く。

 今日の教室も、昨日の女子のグループだけが残っていた。

 連日、1人で席にいる私を可哀想だと思ったのか、その中の一人が「一緒に」と食事の場に誘ってくれたけれど、それを丁重にお断りして、私は運動場に向かう。

 昇降口を出て、昨日、海李君がいたベンチの方を見ると、やはり同じ場所で横になっていた。そこが彼の指定席らしい。

 私は、ゆっくりと歩き、そのベンチから2m程離れた、彼の足元側のベンチに座った。

 気付かれないように、ちょっとだけ横を向いて海李君の姿を盗み見る。寝ているのかと思ったけれど、目を開けて空を見ていた。私も彼が見ている景色を自分の瞳に映したくて、同じように空を見上げた。春になって、少し濃くなってきた青が眩しかった。

 今、何を思って空を見ているのだろう。

 手を伸ばせば届きそうな距離にいるのに、心はずっと遠くに離れている。

 ブランコで私の隣にくれていた時も、海李君は何を考えていたのだろう。

 今の私と同じ気持ちだったのだろうか……

 あの頃はわからなかったけれど、当時を振り返ると、会話がなくても彼に対して信頼の気持ちを抱いていたと気付いた。私を『独りぼっち』から解放してくれていた時間だった。

 海李君にとって、私がそこまでの存在になれるかはわからないけれど、今できることは同じようにそばで寄り添うだけの気がする。



 週が明けても、やはり海李君はベンチで過ごしていた。

 私も隣のベンチに腰掛けて、持参したパンを口に入れる。

 爽やかな風が吹き抜け、木々の葉が心地良い春の歌を披露していた。うたた寝をしてしまいそうなほど穏やかな空気の中に、人の声が混じった。

「何か用?」

その声音に優しさなんて微塵も含まれていなかったけれど、私に向けられた言葉だというだけでドキドキした。

「邪魔をしないので、ここに居ていいですか?」

「……勝手にすれば」

彼が瞳に映すのは相変わらず空だけで、一切こちらを見ようとしなかった。

会話などと呼べるほどのやりとりではなかったけど、一歩ずつ少しずつ、海李君に近付けていけたら…… 



 週の半ば、朝のホームルームで担任が言った。

「1限目を変更して、今から体育祭の参加種目を決めるぞ」

 5月の初めに開催されるということで、彼の数学の授業を話し合いの時間に費やすことになった。

 委員長が、競技種目と、その種目の参加人数を黒板に書き出している。

 自分が参加したいところへ名前を書く形式で、定員オーバーのところは、じゃんけんで負けた人が他の種目へ移動するという流れになっているらしい。人数の足りない種目は、希望者が複数出場していいと言っていた。

 周りでは、何に参加するかで話で盛り上がっていた。席を離れ、仲のいい人同士が輪を作って談笑している姿があった。

 横を見ると、珍しく橋乃宮さんが体を起こして黒板の文字を見ている。あまり見られない真剣な顔つきだった。


 そんな橋乃宮さんとは、今では大半の時間を共にしている。

 緊張していたのは最初だけだった。気さくで面倒見のいい彼は、海李君だけでなく私の世話も焼いてくれている。

 移動教室の時には海李君と3人で行動し、校内で用事がある時には「場所を説明するのが面倒だから」と付き添ってくれていた。

 初日の出来事もあって、橋乃宮さんが隣にいる時には他の人が寄って来ない。

 クラスメイトと話をするのが嫌という訳ではないけれど、返答に困る質問に対して、無駄に頭を悩ませなくて済む距離感が有難かった。

 彼が私と行動を共にしてくれているのは、周りを寄せ付けないための策のようにもとれる。橋乃宮さんが見せるさりげない優しさを考えたら、それも有り得るのかもしれないと思った。


 いくつか書き出された種目は、経験したことのないものばかりだった。どれを選択すればいいのか悩んだ挙句、橋乃宮さんの回答を参考にしようと声を掛けた。

「橋乃宮さんは、何に出場するか決めているんですか?」

彼は、私の質問に左手の人差し指を立てて言った。

「綱引き一択」

「何故ですか?」

「走るのがだるいから」

「なるほど。それ以外に参加しないんですか?」

「やりたい奴にやらせておけばいい」

 確かに、綱引きと大縄跳び以外は走る種目だった。この体の身体能力を把握していなかったので、無難に私も同じものにしようと考えた。

「僕も、橋乃宮さんと一緒の綱引きにしていいですか?」

「いいけど……」

そこで、彼が体育祭とは関係のない話を始めた。

「……あのさぁ、黙ってるつもりだったんだけど、やっぱり気持ち悪くてダメだ。俺、今まで苗字で呼ばれたことないんよ。苗字で呼ばれると、首の辺りがゾワゾワすんだわ。どんな呼び方でもいいから、名前で呼んでくんない?」

「そうなんですね。……では、陽介さんでもいいですか?」

「それでいいよ。俺も、おまえのこと凌って呼ぶ」

「わかりました」

「んでさ、海李も綱引きにしておいて」

「本人に聞かずに勝手に決めていいんですか?」

海李君を見ると、自分のことが会話に上がっていても、他人事のように全く反応する気配がなかった。

「いいよ。綱引きなら横に立ってるだけでいいから」

「なるほど」

 

 廊下側から順番に名前の記入が開始されていた。その様子を見ていて驚いた。意外にも、みんなが参加したがらないようなリレーが1番人気だった。その次が借り物競争。不思議に思って聞いてみた。

「何故、あの二種目が人気なんですか?」

「ああ。このクラス、目立ちたがりが多いんだよ。この学校のリレーは、順位を競うと言うより如何に面白く仮装して参加するかが重要だから。で、借り物も然り。目立つから」

「楽しい学校ですね」

「凌がいたとこは違ったん?」

「僕がいたクラスは勉強が第一で、体育祭なんて時間の無駄だという人ばかりでしたので」

「ふーん」

みんなが順々に名前を書いていき、残すは窓際の列となり、私の番が来た。

「じゃあ、有富さんの名前も僕が書いてきます」

「おう、頼んだ」

 前まで歩いていき、黒板に二人の名前を書いた。参加人数は7人。私達以外で希望しているのが3人だったから、じゃんけんをしなくても決定となりそうだった。

 席に戻る時に、伏せている海李君に話しかける。いつものように無反応だと想像はできたけれど、それでも報告だけはしておこうと思った。

「あの、綱引きに名前を書いてきたので」

その時、『了解』とでもいうように、伸ばしていた彼の右手の先が上を向いた。

 今まで、挨拶をしても話しかけても、私の声など彼の耳に届いていないかのように無視されていた。勿論、今回も同じだと思っていた。

 私の声が、海李君に、届いた?

 予想外の反応に、その手を見つめたまま硬直してしまった。嬉しいという感情が溢れ出てくる。

「おーい、凌。何してる?」

 その小さな出来事は私にしか見えていなかったようで、動かなくなった私を陽介さんが怪訝そうな顔で見ていた。

「えっ? はい」

彼の声で我に返り、緩みそうな顔を必死で隠した。



 放課後、30分だけ体育祭の練習時間となり、みんなジャージ姿で運動場に集まっていた。

 他のクラスの人達も集合していて、違うクラスの仲のいい人を見つけては、駆け寄って話をして抱き合う。イレギュラーな集まりに興奮した様子で盛り上がっていた。

 担任の声で、参加種目ごとに分かれる。

 綱引きだけは道具に余裕がない種目で、集合したはいいけれど、使える綱が2本しかないので他のクラスと順番で行うと言われた。

 私達クラスは最後に近い練習になるので「待っている間、ベンチで座ってよう」という陽介さんの提案で、一番近いベンチで順番がくるのを待つことにした。 

 空を見上げながら、陽介さんが口を開く。

「そういえば凌さぁ」

「はい」

「高校卒業したら海外の親のとこ行くって言ってたじゃん。どのくらいで日本に戻って来んの?」

「いえ。……もう、こちらには戻りません」

「まじで? ずっと行ったきり?」

「はい」

「戻って来られない何かがあるん?」

「そう、ですね」

「なんか、すげー寂しいじゃん。じゃあさ、番号、交換しようぜ」

「あっ、僕、携帯を持っていなくて」

「えっ!? 向こうに行った後、どうやって連絡とればいい?」

「うーん……」

「それなら、俺の番号を渡しておくから、向こうで契約したら連絡してよ」

「……わかりました」

さすがに、もう二度と会えない場所に行くとは言えなかった。

「それにしても待ちが長い。ちょっと飲み物買ってくるわ」

 遠目で見ていても、今、練習しているクラスが人員の配置についてゴタゴタとしているのがわかった。綱すら握っていない状態で、私達の番になるには時間がかかりそうだ。しびれを切らした陽介さんは、自販機を求めて校舎に戻って行った。

 

 陽介さんの座っていた場所がポッカリと空いて、4人掛けのベンチの端と端に座っているという奇妙な構図が出来上がる。2人きりになり、周りの賑やかさとは対照的に、私達の間には音の発生しない静かな空気が流れていた。

 海李君は、ベンチに足を乗せて体育座りをし、周囲の出来事には興味なさそうに足の間に頭を垂れている。その彼から視線を運動場に向けた。初めて間近で見る騎馬戦やムカデ競争など、前の学校では種目に上がっていなかったそれらに興味が湧いた。

 奮闘している姿に目を奪われていると、視界の隅にちらちらと動くものがあった。気になってそちらを見ると、綱の横で他のクラスの男子が手招きしていた。

「おーい、次だよ」

どうやら順番が来たらしい。

 陽介さんは戻っていなかったけれど、とりあえず参加の意思を見せるためにベンチから立ち上がった。そして、丸くなっている隣人に目を向ける。

 海李君は、どうしよう。私が声を掛けて動くだろうか?

「おーい」

再び運動場から急かすように声を掛けられた。

「行きます」

少し焦りを感じて、その呼びかけに右手を挙げて応える。海李君が練習に参加する意思がなくても、一応伝えておこうと思った。

「海李君。順番らしいです」

直後に、運動場の方を見るように彼が顔を上げた。

 私の声で行動を起こしたことに驚いた。

 その反応に喜びを感じたのも束の間、こちらに視線を移した海李君の表情は敵意に満ちていた。眉間に皺を寄せ、険しい瞳で私を睨む。今まで彼の優しい姿しか見たことがなかったから、その意外な一面に身がすくむ思いがした。

 急に、豹変した態度を向けられて、理由がわからずに肩に力が入る。

 海李君が、怒りを込めた口調で言った。

「その呼び方するな」

とても低い声で言い捨て、立ち上がって私の方を見ずに校舎に向かって歩き出す。

 本来なら彼を呼び止めるべきなのだが、初めて見せたその姿に気が動転してしまい、私は茫然と立ち尽くすことしかできなかった。

 海李君の言葉が、頭の中で蘇る。

『その呼び方するな』

 その呼び方……

 ハッとした。

 無意識に『海李君』と呼んでいた自分の愚かさに気付いた。

 ――私は失敗を犯した。

 あそこまで怒りを露わにするのは、きっと、その呼び方が彼にとって苦痛を強いるものなのだと。

 焦りと後悔が押し寄せてくる。

 引き止めて謝らなくては……。

 そう思うのに、体は意に反して動くことを拒否していた。

 その時、校舎から出てきた陽介さんが、戻ろうとする海李君を見つけて声を掛けた。

「おい、海李。どこ行く?」

そう問われたのに、陽介さんを見ようともせず無言で横を通り過ぎていく。陽介さんは足を止めてその様子をいぶかしげに見ていたけれど、私の方に向かって歩いてきた。

「あいつ、どうした?」

「あの……」

怒らせてしまったと伝えようとした時、再び運動場から苛立ちのこもった声で呼ばれた。

「おいーっ! 練習しねーのかよ」

「わりぃ、今、行く」

その声に陽介さんが答え、手にしていたペットボトルをベンチに置いて言った。

「とりあえず行こう」

「……はい」

私達は、2人だけで練習に向かった。


 練習後、人数分買ってきていたペットボトルの1本を私に手渡し、陽介さんはベンチに座って自分のボトルに口を付けた。私は、その横に座って、それを握りしめる手に力を込める。

「で、どうした? あいつ」

「あの、僕が有富さんを怒らせることをしてしまいました」

「なんで?」

「有富さんを『海李君』と呼んでしまって……。 仲が良かった友達がたまたま同じ名前で、無意識にそう呼んでしまいました」

急に名前で呼んでしまったことを不審に思われないために、苦し紛れの言い訳をした。

「なるほど」

「すみません。有富さんに謝ります」

「はあ。あいつの気持ちもわかるけど。……辛いのは海李だけじゃないのにな」

聞き取れるか聞き取れないかくらいの小さな声でボソッと口にした後、大きく伸びをしてから立ち上がり、私を見下ろしながら言った。

「急にキレられてビビっただろうけど、凌は悪くないから気にすんな。あいつ、君付けで呼ばれるの嫌がるから、それだけ気を付けておけばいいよ」

「……わかりました」

「じゃあ、俺、バイトあるし帰るべ」

「はい」

 まだ練習が続いている運動場での賑やかな声を背後に、私達は校舎に向かって歩き出した。

 

 翌日、海李君は欠席した。

 あの後、教室に戻った時には既に彼の姿はなかった。朝、登校してきたら謝るつもりでいたのに、それを叶えることはできなかった。

 傷つけてしまったのかもしれないと思った私は、居ても立っても居られずに陽介さんに相談した。

「僕のせいで休んでしまったんでしょうか?」

「あー違う違う。朝、連絡あって、あいつ熱が上がったって」

「大丈夫そうですか?」

「大丈夫じゃね? 子供じゃないんだし」

「はあ……」

「……そうだ。帰り、何か用事ある?」

「いえ、特には」

「じゃあさあ、あいつの家までお使い頼まれてくんない? ついでに様子見てくれば? で、気になってるなら、ついでのついでに謝ってくれば?」

「えっ!?」

「担任に、早急に渡さなきゃいけないプリントやらを届けろって言われてんだよ。それ、凌が届けてよ」

「えっ!?」

「大丈夫。家までの地図書いてやるから」

「……わかりました」

急な展開に戸惑いつつも、見なくてもわかる海李君の家までの地図を作成してもらい、放課後に訪問することになった。


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