再逢
高校3年の春。
新学期は3日前から開始していたけれど、私は転入生という形で今日から登校し始めた。
ドアを開ける担任の後に続いて、教室に足を踏み入れた。ざわつきが空気を揺らす。室内を見渡さなくても、私が注目されているのが気配でわかった。
教壇で担任の横に立って初めて室内を目にすると、他人に無関心だった以前の学校の雰囲気とは違い、興味津々といった視線が私に注がれている。
「おはよう。昨日も伝えたが、今日から転入生が入る。自己紹介して」
「下野伊 凌です。宜しくお願いします」
「他に言うことは?」
「特にないです」
「凄い簡素な自己紹介だな。まあ、いいや。それじゃあ、みんな、わからないことがあったら教えてやってくれ。下野伊の席は……」
そう言いながら教室を見回す。私の席を探している様子だったが、視線を空席で止めて頭を掻いた。
「あーっ、また、あいつは遅刻か。おい、陽介」
「へーい」
気だるそうに返事をした人を見て、体がビクッと敏感に反応する。
「登校して来たら、あいつに俺んとこに来るように伝えてくれ」
「へーい」
「おまえさあ、前髪切ってこいって言っただろ?」
「すいませーん」
「しょうがねえなぁ。それで前が見えてんのか? 切るのが嫌なら縛っとけ。……とりあえず、陽、手を上げて」
担任の言葉で、彼がしぶしぶといった感じで小さく右手を上げる。その様子を確認して私に言った。
「あいつの隣の空いてる席に座って。それで、陽。下野伊の教科書が来るのが明日になるから、おまえ、今日だけ見せてやってくれ」
「へーい」
下ろしていた手を再び小さく上げて意思表示をする。
手を上げたその人は、以前に会った時よりもずいぶんと前髪の伸びた海李君の親友だった。
「以上。じゃあ、下野伊は席に着いて」
「はい」
私は教壇を下りて、指定された窓際の列の後ろから2番目の席に向かって通路を進む。罰を受けているのかと勘違いしそうなほど、下から感じる好奇心に満ちた視線が痛かった。
担任が、教室から出ていく気配がした。
歩いていると「宜しく」と何人かに声を掛けられ、私も同じ言葉を返しながら席に向かう。
空席が2つ。
私の指定された場所と、その前の席。先程、担任の言っていた遅刻の人は、私の前の人なのかもしれない。
席までの10歩にも満たない距離が、いやに長く感じた。
まさか、初日から知っている人と顔を合わせるなどと夢にも思わなかった。しかも、隣の席になるとは青天の霹靂だ。
移動している間、緊張で体が強張って、意識して動かないと転んでしまいそうだった。
席に着いてから周りを見ると、ほとんどの人がリュックを椅子の背に掛けていた。それを真似してから、油の切れた機械のような鈍い動きで椅子に腰を下ろす。
そこから教室を見回すと、大半の人が私を見ていた。
人懐こい笑顔で手を振る人や、真顔でピースサインを送ってくる人……
目が合った全ての人にお辞儀を返した。
敵意のない様子に安堵して、後ろを振り返り「宜しくお願いします」と声を掛ける。「宜しく」と、後席の女の子が微笑んだ。
その間中、右側から、ずっと視線を感じていた。
挨拶しない訳にもいかず、ゆっくりと首を動かしてそちらを向く。両手で両肘を抱え、机に伏せた体勢の彼が私を見ていた。
「……宜しくお願いします」
「うん、宜しく」
下に向かって流れている前髪の隙間から、眼鏡越しの視線が覗いていた。伏せたままの姿勢で彼が会話を始める。
「俺、橋乃宮 陽介」
「下野伊 凌です」
「高3で転入なんて珍しいね」
その言葉で、体に小さく力が入った。
「親が仕事で海外に行って、僕だけがこちらに残ることになったので」
「ふーん、家の事情か。自分は行かないの?」
「卒業してから行きます」
「そっか」
特に興味のない様子で、腕に顎を乗せて前を向いた。
今の会話に落ち度がなかっただろうかと頭の中で確認し、空席で見晴らしのいい前方に首を戻す。
全身に無駄な力が入っているのがわかる。緊張している証拠なのだろう。
「ねえ、ため口でいいぜ」
その声で再び横を向くと、会話をし始めた時の体勢に戻って私を見ていた。
「いえ。こちらの方が話しやすくて」
「ふーん。まあ、いいけどさ。それより1限始まるから、机こっちに持ってきな。教科書ないんだろ?」
身体を起こして、自分の左側を指さしている。
本当は、あまり接近したくなかったけれど、仕方なく机を持ち上げて、通路を塞ぐ形で彼の横に移動した。
「ありがとうございます」
眼鏡の半分ほどまで伸びた前髪が目を隠し、顔は私の方を向いているのに視線が合っているのかわからない。それが、どことなく落ち着かない気分にさせた。
真新しい教科書に折り目を付けてから「1限、英語ね」と、2つ並べた机の中間に見やすく広げて置いてくれた。教科書が机に当たって『パタン』と小さな悲鳴を上げる。
その音と同時に、上から聞き覚えのある声が降ってきた。
「何、この列」
その声を耳にした瞬間に脈が大きく跳ね上がり、心臓が急激に速度を上げながら血液を循環させ始めた。
視界よりも先に、聴覚が彼と再会した。
――不意打ちだった。
まさか初日で、しかも、これほどまでの至近距離での再会が訪れるなどと思いもしなかった。
何も心の準備ができていない。
心音が耳を独占して、周りの喧噪をかき消す。
心臓が破裂するのではないかと思うくらい鼓動が速くなって、頭がクラクラし始めた。
手が震える。唇が震える。全身が震える。冷や汗が背中を伝う。
絶対に気付かれることはない。大丈夫。
落ち着け、落ち着け、落ち着け……
そんな私の内に巻き起こる嵐など気付きもせず、彼は左横を通り抜け、斜め前の席に座った。
そして、後ろを振り返り、開口一番「誰?」と、特に興味もなさそうに橋乃宮さんに尋ねる。
まるで生体機能が停止したかのように、私は、その姿を見たまま動けなくなった。
「昨日、海李は社長出勤だったから知らないだろうけど、今日から来た転入生の下野伊 凌君。教科書ないから見せてあげてんだよ」
「ふーん」
2人の声が、水中で話しているような、くぐもった音に聞こえた。
海李君は、橋乃宮さんから私に視線を移す。
目と目が合った。
心臓が早鐘を打つ。
その瞬間だけ、私の時間が止まった気がした。
彼は、こちらをちらりと一瞥した後、私に対して口を開くことはなかった。そして、何事もなかったかのように前を向き、机に伏せて寝る体勢になる。彼の背中が、私に全く興味がないと言っているようだった。
その後ろ姿に、橋乃宮さんが声を掛ける。
「おい、海李。山本が来いって言ってたぞ」
けれど、その呼びかけに対して動く気配はない。
再び「おーい」と声を掛けられ、しばらくしてからようやくのことで反応を見せた。枕にしていた両腕を伸ばし、その片方の腕に頭を預けて、反対の手で頭を搔く。
「……はあ ……めんど」
体を起こして天井を見上げたまま動かずにいたけれど、うなだれるように頭を下げ、不承不承といった様子で机に手を着いて席を立った。
呼び出されることに不満がありそうな顔をして、頭を左右に振りながら、来た通路を戻って教室を出て行く気配がした。
彼の存在が消えたことで、私は呼吸を忘れていたことに気付いた。まるで酸素不足の金魚のように、新鮮な空気を体内に取り込もうと何度も大きく息をする。
横から私を覗き込んで、橋乃宮さんが言った。
「ごめん。あいつのこと、怖かった?」
「あっ、いえ」
「ほんとは、すげぇいい奴なんだけど、ちょっと事情があって荒れててね」
「……はい」
「まあ、態度悪いけど、許してやって」
「……はい」
私は小さく返事をした。
その会話の直後に授業が開始となった。
同時に、橋乃宮さんは堂々と寝る体勢を作り始めた。右腕を前に伸ばして頭を乗せ、左手で眼鏡を外してそれを机の左上に置く。穏やかな息と共に彼の体から余分な力が抜けて、この短時間で、本当に睡眠に入ったのだとわかった。
授業中に、ここまで潔く寝ている人を初めて見た。以前の学校は『勉強』以外が存在しない場所だったから。
私の非現実は、彼にとっての日常なのだと主張しているようだった。
その驚く様な彼の一連の行動が、むしろ私の心に落ち着きを取り戻させた。
私の脳裏に、少し痩せた海李君の姿が蘇る。
今日の彼は、私の知っている海李君ではなかった。
伸びた髪の毛と、精気のない顔つき。
以前、放っていた輝きとは対照的な無気力な振る舞い。
うまく表現できないけれど、今の彼は、感情を捨てて殻に閉じこもっているかのように見えた。
これが、百合さんが言っていた『周りを拒絶』した姿なのかもしれない。
正直、あれほどまでに面変わりしてしまっているのが信じられなかった。
別人のようだった。
お兄さんの死から3年で、私はこの世を去った。
海李君にとって、私はお兄さんほど大切な存在ではなかっただろう。
けれど、短い期間で立て続けに起きた身近な人間との別れが、彼に精神的な負担を強いているのは見て取れた。
たった3年で、また海李君に辛い経験をさせてしまった。
私のせいでごめんなさいと何度も心の中で謝った。
それと同時に、海李君への想いは封印しなければいけないのだと、改めて認識させられた。
もう、叶わぬ恋なのだと……
あの人に条件を提示された時点で、当然それはわかっていたことではある。気持ちを伝えることすら許されないと理解はしている。
そもそも、私がこの世界へ帰って来た目的は、そこではないから。
ただ……
伝えられなかった想いが、私の中で静かに泣いている気がした。
それにしても……。
この再会の連鎖は、偶然にしては出来過ぎている。あまりにも不自然すぎる気がした。
あの人が、今の状況を作り出したのだろうか……
こちらの世界に干渉できる力があるのかは不明だけど、現状を見る限り、そう考えたほうが納得がいく。
もし、仮に、私の想像通りなのだとしたら、私に力を貸してくれているのか、もしくは試されているのか、どちらでもない意図でここに送り込まれたのか、その真意はわからない。
けれど、いずれにせよ目の前に差し出された機会を無駄にしない。
時間は限られている。
私に何ができるのか。
どうしたらか海李君の心の痛みを和らげることができるのか。
策など何も無いけれど、これから手探りで見つけていくしかない。
休み時間になり、私の周りに小さな人だかりができた。
人に囲まれるというのが初めてのことで、その迫力に圧倒されてしまった。
まるで自分の欲求を満たすように、次から次へと質問が投げかけられる。本当に他愛もないこと。例えば「どこに住んでいたの」とか「趣味は」とか。
それに対して、私自身の回答をするべきか、この姿での回答をするべきか悩んだ。この姿には『過去』がないから、後者であれば創作するしかない。
どう返答しようか迷っていると、その沈黙が気になったのか、橋乃宮さんが起き上がり助け舟を出してくれた。
「おまえらさぁ、ガキじゃないんだから、こいつを囲んでやるな」
彼の一言で、周りに居た人達がバツが悪そうにお互いの顔を見回す。そして、誰ともなく無言のまま去って行った。
「ありがとう、ございます」
「おう」
彼は、再び睡眠の姿勢をとって、外部との関わりを遮断した。
橋乃宮さんがさりげなく対応してくれたおかげで、その後はクラスメイトから囲まれることはなく、隣人の静かな寝息だけを聞くことになった。
そして。
朝、空席になった前の席は、1日中、主人を迎えることはなかった。
海李君は教室に戻って来なかった。




