決意
そこは、音も景色もない場所だった。
上も下も横も一面が真っ白で、どこに終わりがあるのかわからない空間だった。
影もない、
光もない、
白以外に何もない。
私の着ている物も白だった。
白以外が存在しない異質な場所。
けれど、それを怖いと感じることはなかった。
ふわふわと心地良い空気に包まれている安心感。
ここがどこかわからないけれど、そんなことはどうでもいい気がした。
ずっと、このまま、ここにいたい。
私は、誰?
それも、どうでもいい気がした。
何も考えることなく、この安らげる白い中で、ただ、ふわふわしていたい。
望むのは、それだけ。
穏やかな浮遊感に身を委ねていたら、
目の前に白が集まって来た。
周りとは違う、もっと濃い白。
ぼんやりと眺めていると、それが徐々に人の形となって姿を現した。
濃い白が言う。
「初めまして」
直接、頭の中に響き渡る声にいい気分を邪魔されて、その存在を不快に思った。
顔を横に向ける。
また、声が届いた。
「さくらさん、初めまして」
……さくらさん?
「さくらさん、こっち向いて」
さくらさん?
「さくらちゃん」
聞いたことのある音だった。
私は、ゆっくりと顔を前に向けた。
濃い白は、色をまとい、ただの白でなくなっていた。
若い男の人の姿に造形されていた。
「こんにちは」
色のあるそれに、心地よい白を壊された気がした。
不快が増して、私は口を開くことなく睨みつける。
その不快な色が言う。
「君は、ずっと、ここに居たい?」
こくりと頭を下げる。
「ここでいいの?」
こくり。
「……海李は?」
かい、り?
「百合さんは?」
ゆりさん?
「叔父さんは?」
おじさん?
「君と関りを持った人達は、今、失意の中にいるよ」
その言葉を合図に、頭の中に、色のついた映像が次から次へと流れ込んできた。
小さい頃の辛い日々、
お母さんとの暮らし、
私を大切にしてくれる人たちとの、出会いと楽しい毎日。
これまでの私の全てが、津波のように押し寄せてきた。
そして最後に見えたのは。
その大切な人達が、辛そうに泣いている姿――
どうしたの?
何故、泣いているの?
どうして、そんなに辛そうな顔をしているの?
嫌だ。
みんなが泣いている姿を見たくない。
……苦しい。
先程までの心地良い気分とは真逆の、胸が張り裂けそうなほどの苦しみが、刃となって私に切りかかる。
「それはね、君がいなくなって、みんなが悲しんでいる姿だよ」
胸に手を当てたまま、顔を上げて彼を見る。
「ここに居たい?」
「……いやだ」
「どうして?」
「あの人達の元へ帰りたい」
「ここが、どこかわかる?」
首を横に振る。
「ここはね、いわゆる死後の世界」
「……し、ご?」
えっ……
しごは死後?
頭の中が真っ白になった。
ただただ茫然としていた。
「……どうして?」
「君の記憶には刻まれていないけれど、事故にあって、ここに来ることになったんだよ」
「……い、つ?」
「初雪が降った日」
「……」
「立っていた君に、後ろから車が追突したんだ」
空を見上げていた時に、体を襲った衝撃と、心に吹き荒れた恐怖の記憶が蘇る。
私の瞳が映した最後の映像──
「……嘘、だ」
「嘘じゃないよ。君の魂が、ここにいるのが証拠じゃない?」
そんな…… そんなの嘘…… 嘘だ……
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ……
帰りたい。
みんなの所に帰りたい。
彼の言葉を受け入れたくなくて、首を横に振り続けた。
振り続けたら、私の居場所に帰れるかもしれないと思ったから。
「もし、戻れるとしたら、君は元の世界に戻りたい?」
「戻れ、る? ……戻りたい」
「何故、戻りたいの? ここに居たら、苦しいことからも辛いことからも解放されるよ。泣かなくてもいい。人に気を遣わなくてもいい。恐怖もない。痛みもない。全てのしがらみを断ち切って、この心地よい空間に身を置けるんだ。もし、君がこの場所に居たいと言うのなら、今、君の心に戻ってきた感情は、僕が全て消してあげる。全てから解放してあげる。さっき、君が感じた気持ちのままで、ここに居られるよ。それでも戻りたい? 心穏やかに、ここで過ごしたら?」
「戻りたい、です」
私は迷わずに戻る選択をした。
「……どうしても?」
首を縦に振る。
「その先に、辛いことが待っているとしても?」
「はい」
「君を、あちらの世界に送り返してあげることは可能なんだけどね……」
「本当ですか!?」
「ただ、可能の中に不可能があるんだ。……君を今のままの姿で送ることはできない。この意味が理解できる?」
小さく首を横に振る。
「そうだよね。つまり僕が言いたいのは、君が、君の体に戻れる状況にないということなんだ。だから戻るとするなら、君は違う人の姿にならなければいけない。……それでも、本当に戻りたいと言えるかい?」
正直に言えば、彼の言葉の意味は半分も理解が出来なかった。
けれど、それでも。
私は首を縦に振る。
「あちらに戻ったら、君は、男性の姿で生活することになる。君を大切に思う人達に、自分だと伝えられず、全く知らない人として存在することになるということだよ。こう言えば、わかってもらえる?」
「男性?」
「そう」
それは、つまり……
海李君へ想いを伝えることはできないということ……
「……それでもいいです」
「戻って、何がしたいの?」
「泣いていたのが私のせいならば、あの人達を泣かせたままにしたくない」
「そうなんだ。ただ、戻してあげるとしても、君に与えられる期間は1年間。その期限がきたら、またここへ戻ってくることになるよ」
「……1年? 1年でもいいです」
「考えてごらん? たった1年間だよ。1年経ったら、また辛い別れが待っているんだ。わざわざ戻る必要がある? 泣かせたままにしたくないと言ったけれど、他の人のことなんて放っておけばいいんじゃない? ここで、心地良い時を過ごせばいいんだ」
「嫌です」
「じゃあ聞くけど、違う姿になった君に何ができるの?」
「戻ってみなければわかりません」
「0からと言うより、マイナスからのスタートだよ?」
「ここが死後の世界だと言うのなら、私に幸せを与えてくれた人達に、恩を返すどころか悲しみを置いてきてしまいました。みんな、大切な人との辛い別れを経験しているのに、私が、その悲しみの上塗りをしてしまった。あの人達が、私のことで泣いたままでいてほしくない。笑顔を取り戻して欲しい。幸せでいてほしい。例え微力でも、その為に何かできることがあるはず。だから戻らせてください」
「だけど、その人達は、姿を変えた君が近寄ることを拒むかもしれないよ?」
「それでもいいです。遠くからでも、何かできるかもしれない」
「苦しくて辛くて、戻らなければよかったと後悔するかもしれないよ?」
「でも、戻らないほうが後悔する」
「大切な人達の側にいるのが、君だと気付いてもらえなくてもいいの?」
「はい」
「たった1年しかないのに、何かできるのかなぁ?」
「戻ってみなければわかりません。何もできないかもしれません。でも、何かできることがないか模索します」
「……そう。これだけ言っても、そこまで決意が固いのならば戻らせてあげる」
「本当、ですか?」
「ただし、いくつか条件がある」
「条件?」
「第1に、期限は1年間。延長はない。第2に、別人として生活すこととなる。この2つは話した通り。第3に、中身が君だと名乗ってはいけない。まあ、別人になってしまっているのだから、それを信じる人はいないだろうけどね。第4に、万が一名乗ってしまった場合、君の意思に関係なく、ここへ強制送還されることになる。それが、どんな状況であったとしても。例外は認めない。それでも気持ちは変わらない?」
「はい」
「本当に戻ることを選ぶんだね?」
「はい」
「何か聞きたいことはある?」
「いいえ」
「それでは許可しよう。いいね、くれぐれも先程の条件を忘れないように」
「はい」
「じゃあ、行っておいで。健闘を祈る」
いともあっさりと、彼が両手で私の肩を押した。
白い床に吸い込まれるように、私の体は下へ下へと流れていく。
落下するというのではなく、まるで白に吸収されるかのように――




