思い出
次の日曜日に、私は、依頼されていた絵と共に喫茶店に向かった。
本来は鉛筆デッサンだけの予定でいるけれど、依頼を受けたこの絵には特別に色を付けた。
それは、感謝の印でもあるし、小学生の頃に頂いた優しい思い出に色を付けて残したい、そんな気持ちからだった。
喫茶店に到着すると、先週作った看板が、入り口に立て掛けられているのが目に入った。宮志真さんが用意してくれたらしい。
その看板を横目にドアを開ける。
「土日は暇」と宮志真さんが言っていた通り、今日は、空席のほうが多かった。
「こんにちは」と声を掛けて入店すると、厨房で調理をしていた宮志真さんが手を挙げて、こっちにおいでと言うように無言で手招きをする。
それに従ってカウンター席の前まで行くと、「先週の人、もう来てるよ。絵、描けた?」と小声で聞いてきた。
眉間に皺を寄せて心配そうな表情の宮志真さんに「はい、描けました」と一言だけ答えて、私は店内をぐるりと見回し彼女の存在を探す。
入口に一番近いテーブルに1組、1つ空けてもう1組。その2組ではなかったので、奥の席に目を向ける。
座席を隠すように大きな観葉植物が置かれていて
わかりづらかったけれど、一番奥の席で、こちらに背をむけて座っているのが彼女ようだった。
「じゃあ、行ってきます」
「おう。行ってらっしゃい。後で私も見に行っていい?」
「はい」
ちょっと不安そうに私に手を振って、急いで調理を再開した。
私は、肩から下げていたポスターケースを両手で持ち、彼女の居る席に向かう。
キュッキュッと靴が床を鳴らす音を聞き取ったらしく、近付く私に気付いて振り向いた。
「あっ、こんにちは」
席に辿り着く前に声を掛けられ、私も挨拶を返す。
「こんにちは。お待たせ致しました」
席の真横に立ち、彼女の左横に別の女性が座っていることに気付いた。
私の視線が自分の隣に向けられているとわかって、彼女は慌てて説明を始める。
「実は、先週の話をしたら、祖母が自分も行くと言ったので一緒に連れて来ました」
懐かしい顔に会って、私は自然と笑みが出た。
少しやつれた感はあるけれど、あの上品な雰囲気は全然変わっていない。身だしなみへの気の遣い方や、伸びた背筋もあの頃のままだった。
「座ってください」と勧められたので、2人のが向かいの席に腰を下ろす。
「こんにちは。私のこと、覚えていらっしゃいますか?」
にこやかに微笑んでいるお婆さんに声を掛ける。
「うさぎちゃんでしょ? うさぎちゃんて言ったら、また怒られるかしら? さくらちゃんよね? しっかり覚えてるわ」
あの頃と変わらぬ優しい話し方で、私の名前を口にした。
思い出が一気に蘇る。
公園の前での会話や、頂いた栞とヘアゴム。3人で眺めたタイサンボクの花。
小学生だった頃、母以外からもらった唯一の優しい記憶。
「お元気だった? 最後にお会いしてからどれくらい経つかしら? あなたが中学に上がってから、顔を合わせることがなくなってしまったわね。主人が、もう一度あなたに会いたいって言ってたわ」
元気なく笑うと、こぼれそうな涙を隠すように手にしていたハンカチを目に当てた。隣で私達を見ていた彼女が、お祖母さんの背中をさすりながら言う。
「祖母が、どうしてもあなたに会いたいって言ったんです。知ってる子だろうからって」
「そうなんですね。わざわざ足を運んでいただいて、ありがとうございます。私も、ずっとお会いしたかったので、久しぶりにお顔が見られて嬉しいです」
皮肉なことに、偶然とはいえ、お爺さんが他界したことで再会することになった。
嬉しいけれど、そこには悲しい現実も存在していた。
中学生になっても会いに行けば良かったと、今更になって後悔している。
胸に込み上げてくるものがあった。
目頭が熱くなって、涙が出そうになるのを必死で堪えた。
私は、大きく深呼吸した後、静かにポスターケースの蓋を開け、中から絵を取り出した。それを広げずに、テーブルの上からお婆さんに差し出す。
「ご依頼の絵です。写真のお爺様ではありませんが、お二人の幸せな時間を描きました」
数秒の間、赤くなった目で私を見つめる。
まるでスローモーションのようにゆっくりと視線を絵に移し、それを両手で受け取った。
しばらくそのまま動こうとせず、手の中の丸まった状態の白い筒を眺めていたけれど、紙の端を左手で掴んで、本当にゆっくりゆっくりと広げ始める。
A1サイズの大きい紙に描いたから、広げている途中でお婆さんの顔が隠れてしまった。
「まあ」
そう言ったきり、続く言葉が聞こえなかった。
代わりに、隣のお孫さんの息を呑む気配がする。
「お祖父ちゃんとお祖母ちゃんだ」
まるで踊るように楽し気に、いつも仲良く腕を組んで歩いていた。
その幸せそうな様子で、公園付近を散歩していた頃を描いた。
あれほど仲が良かった2人だから、お爺さんが隣にいないのが本当に辛いのだと思う。
火事で持ち出したのが写真だけだと言っていた。
価値のあるものではなく、お爺さんの思い出を選ぶほど、遠く離れても最愛の人のそばに居たかったということなのかもしれない。
写真は焼けてしまったけど、お婆さんの傍らに、微笑むお爺さんを届けたかった。その一心で描いた。
「素敵な絵ですね。幸せが伝わってきます」
いつの間にか2人の横に立っていた宮志真さんが、腕を組んでその絵を見ていた。
「私も、そう思います。2人でいる時は、こんな幸せそうに笑っていたんだって知りました」
お孫さんが答えると、絵を下げて、お祖母さんが顔を見せた。
涙で頬が濡れていた。
「ありがとう。本当にありがとう。主人の大切にしていた物を全て失った挙句、写真まで焼けてしまったのは、火事を起こしたことへの罰なんだと思っていたの。もう顔を見ることはできないと諦めていたわ。でも、ここに、あの時のままの主人がいる。これから毎日、また顔が見られるのね。本当に何とお礼を言ったらいいか……」
そう言って、お孫さんに絵を預けてハンカチで顔を覆う。すすり泣く声が聞こえた。
その受け取った絵に視線を向け、再び顔を上げて私を見ると、お孫さんが申し訳なさそうな顔をした。
「先週、見なくても描けると仰っていて、正直、疑っていました。自信がある様子でしたが、普通なら無理だろうと。実際、人の顔ってはっきり記憶していないですよね。今、私は母親の顔ですら曖昧にしか思い出せません。だから、失礼ですが期待してはいませんでした。祖母にも、そう伝えていました。ごめんなさい。でも、この絵は写真以上です。2人が飛び出してきそうなくらい。見なくてもここまで正確に描けるなんて、凄い才能ですね。こんなに素敵に仕上げてくださってありがとうございます。あなたとお会いできて良かったです」
「こちらこそ、恩返しをさせてもらえる機会を頂いて感謝しています」
「あの、恩返しとは? 祖母とはどういう経緯で知り合ったんですか? とても気になっていたんです」
ちらりとお祖母さんを見る。
彼女は、少し落ち着きを取り戻した様子で、ハンカチを折りたたんだ後に顔を上げた。
赤くなった目で私にウインクしてから横を向く。
「それはね、私達だけの秘密よ」
まるで少女のように可愛らしく小首を傾げて、お孫さんに向かって微笑んだ。その言葉に「意地悪」と頬を膨らませて、表情を戻して私に向き直った。
「それで、あの、お代は?」
「これはプレゼントさせてください」
「えっ!? でも、こんな傑作をただで頂く訳にいきません」
「私は、小学生の頃に、お二人から温かい気持ちを頂きました。そのお返しだと思ってください」
お孫さんがお祖母さんを見た。その視線を受けて、彼女が口を開く。
「あなたが絵を描くアルバイトをしているって聞いたわ。だから、しっかりとお金を払わせて欲しいんだけど」
困ったような顔をして、膝の上に置いていたバックから財布を取り出す。
もともと代金を頂く気はなかった。
けれど、頂かないのが逆に困らせることになるのであれば、それはお返しにはならない。
色々と考えた挙句、私は、ここで提示している金額を頂くことにした。
「それでは、500円、頂けますか?」
「この絵で500円なんておかしいわ。適正価格で払わせて」
「その金額で、こちらで絵を描かせて頂くことになっています。それに、私は絵に関して素人なので、それ以上は頂けません」
二人は困惑した表情で見つめ合っていた。
そこへ、2つ隣の席を片付けていた志真さんが、忍び足をするように腰を低くしながら近付いて来て、私達のテーブルの横に立った。
「あのぉ、関係のない私が口出すのもおかしいですが、さくらちゃんの気持ちを汲み取って、その金額で手を打てばいいんじゃないですか?」
腕を後ろで組んで、2人を交互に見ていた。
宮志真さんの言葉に「どうする?」というような顔で、お孫さんがお祖母さんに視線で話しかける。それに対してしばらく無言だったけど、にこやかに微笑んで口を開いた。
「わかりました。それでは、さくらちゃんの気持ちを有難く頂きます」
そう言って、お財布から500円を取り出して手のひらに乗せ、私に差し出した。
「本当にありがとう。大切にします」
私は、そのお金をお婆さんの手から受け取って、お礼を言った。
「こちらこそ、ありがとうございました」
道路の角を曲がるまで手を振り続けていた二人を見送った後、私は店内に戻った。
キッチンで洗い物をしていた宮志真さんが、その手を止めて話しかけてきた。
「百合から聞いてたけど、本当に上手だね。前にいた大学生より上手いよ」
それに対して素直にお礼を言っていいのかわからなかったけど、一応「ありがとうございます」と返した。
「それにしても、本人を見ないであそこまで描けるって凄いね。あの絵を見るまで本当に心配だったよ。お孫さんがSNSに上げてくれるって言ってたし、これからお客さんが増えるんじゃない?」
せめてものお礼にと、彼女の提案で、今回の絵と店舗前の黒板の写真をSNSにあげて広めてくれると言っていた。
スマホやパソコンを持っていない私は、インターネットが及ぼす影響に関して無知だから、その効果が如何ほどかわからない。
本当は、あまり目立つことをしたくなかったけれど、折角の厚意を無碍にするのも気が引けて、有難くお受けすることにした。
「まあ、でも、すぐに客足が伸びるとは限らないけどね」
宮志間さんが笑って言った。
今日は、あの絵を渡す以外に予定がなかったので、待機の時間になった。
先週、座っていた席を指して「ここ、お借りしてもいいですか?」と聞くと、
「うん。お客さんがいない時は、そこがさくらちゃんの定位置でいいよ」そう言って洗い物の続きを始める。
特にやることがないので、練習がてら宮志真さんを描くことにした。
作業していて、ふと、あることが頭に浮かぶ。
叔父さんと百合さんと海李君に、クリスマスプレゼントを買えるかもしれない、と。
クリスマスまであと2か月弱あるとはいっても、1枚の単価を低めに設定しているから、高価な物をプレゼントできるほどの収益は期待していない。
けれど、初めて自分の力で得たお金で、あの人達に感謝の気持ちを贈りたいと思った。
目標ができたことで、俄然、やる気が湧いてきた。
15分程で宮志真さんの似顔絵が完成した。
彼女を見ると、忙しそうに調理をしていたので、その絵は帰りに渡すことにした。
壁に掛かっている時計を見ると、3時45分を少し回ったところだった。またやることがなくなってしまったので、何をして過ごそうか悩む。
これから、こういう空いた時間に何をするか、それも考えておこう。
とりあえず、目に入る物をデッサンでもしようかと鉛筆を握った時、ドアベルの音がしたので無意識にそちらに目を向ける。
ドアを半開きにして、不安そうな顔をした若い女性が上半身だけを覗かせていた。店内に入らずに、中の様子を伺っているようだった。
「こんにちは」
小さめの声で呼びかけているので、キッチンの宮志真さんには届いていない。忙しそうな彼女の代わりに、椅子から降りて私が返事をした。
「いらっしゃいませ」
その声に気付いた宮志真さんが「お客さん?」と、厨房から身を乗り出して、ドアの方を見た。
入口を封鎖したままの彼女に「どうぞ」と声を掛けたけれど、相変わらず入って来る気配が無い。
そのままの体勢で、彼女は、恐る恐るといった感じで口を開いた。
「あの、似顔絵を描いてくれるっていうSNSを見て来たんですけど……」
予想外の展開の速さに驚きを隠せず、宮志真さんと私は無言で見つめ合って、再び彼女に視線を戻す。
「友達の投稿を見て近所だったから来ちゃったんですけど、予約とか要りますか?」
「いえ、予約は要りませんよ。どうぞ、中へ入って」
私よりも先に宮志真さんが返事をして、不安そうな彼女に入るように促した。
その言葉で安心した顔になると、手にしていたバックを胸に抱きかかえ、小股でチョコチョコとカウンターの前まで来て言った。
「実は、私を描いて欲しいんじゃなくて犬の絵をお願いしたいんですけど、それって大丈夫ですか?」
「……はい、大丈夫です」
「よかった。あの、この子なんですけど……」
そう言って、スマホの画面を私に見せた。
わんちゃんのお客さんが帰った後、様子を見ていた店内のお客さんが自分達も描いて欲しいと言い出し、結局、あと2人描くことになった。
対面している間、相手は動かずにポーズを取っているだけなので、会話をしなくてもいい状況だと気付いた。
本当は、特徴を捉えるために数分だけ凝視すれば顔を覚えられるのだけど、「見て描いているふう」を装えば話をしなくて済む。
とても有難いことだった。
2人目に描いた人を送り出し、時計を見ると4時55分になっていた。
私は、デッサンで使った道具をバックに仕舞って帰り支度をし、空いたテーブルの食器を片付けている宮志真さんに声を掛ける。
「ありがとうございました。時間なので帰ります」
その場で振り返って右手を上げ「はいよ、お疲れ」と挨拶を返してくれた。
そこで、さっき描いた絵の事を思い出し、バックを大きく開いて、束ねた用紙の中から宮志真さんの似顔絵を取り出す。それを持って彼女の近くまで行き、背後から声を掛けた。
「あの、これ、さっき描いたんですけど、よかったら」
テーブルを拭いていた作業を中断して振り向き、私の手元に視線を向ける。
「ん? 何? くれるの?」
「はい。さっき時間があったので描いてみました」
私から紙を受け取り、それをまじまじと見て顔を上げた。
「えっ? これ貰っていいの?」
「はい」
「ありがとう。それにしても本当に凄い腕前だね」
もう一度、絵に視線を戻した後、急に大きな声を上げた。
「あっ! これさあ、しばらく店に貼っていい? そしたら、お客さん増えるかもしれないし」
「はい」
「じゃあ、今夜、旦那に自慢してから貼ろう」
「あはは。あの、それじゃあ、私はこれで」
「うん。また来週ね」
「はい、ありがとうございました」
挨拶した後、店を出てドアの前で空を見上げる。
ここに着いた時には青一色だった上空が、今は薄い水色とオレンジ色のグラデーションに変化していた。日の入りが早くなり、すでに辺りは薄暗くなり始めている。
その空を見て何だか少し寂しい気持ちになり、帰ろうと足を踏み出す瞬間に右側から声がした。
「お疲れ」
「ひぇっ」
不意打ちの登場に、喉から変な声が出てしまった。
肩に掛けようとしていたバックが、私の手から逃げて地面に落ちる。
「何、その声」
可笑しそうに笑っている笑顔があった。
「なんだ、海李君か。びっくりしたぁ。心臓がバクバクしてるよ」
「ごめん。まさか、そんなに驚くとは思わなかった」
中腰になって、落ちているバックを拾い、自分の肩に掛ける。
「あっ、ごめんね、ありがとう」
バックを受け取ろうと手を出すと「俺が持つよ」と断られてしまった。
伸ばした手の行き場がなくなり、慌てて引っ込めて反対側の二の腕を掴む。
「あっ、ありがとう。今日も、友達の家に行って来たの?」
「ううん。暗くなる時間が早いから迎えに来た。帰ろ」
「そうなの? わざわざありがとう。なんだか私、お姫様みたいだね」
「この程度でお姫様って…… じゃあ、お姫様抱っこでもして帰る?」
「いえ、流石にそれは……」
「じゃあ、おんぶ?」
お祭りの帰りにおんぶしてもらったのを思い出して顔が熱くなる。
「自分で歩いて帰れるから。それより、帰りにスーパー寄ってもいい? 海李君の好きなイチゴ牛乳買って帰ろ?」
「えっ? 奢ってくれるの?」
「うん。今日、実はね……」
私達は、暗くなり始めた道を、笑い合いながらのんびりと家路に着いた。




