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アルバイト

 叔父さんから『土曜日に食事に行こう』とのお誘いがあり、あの料亭で、お昼ご飯をご馳走になる約束をした。

 最近、断らなくなったからか、叔父さんからの誘いが以前の何倍にも増えている。

 

 食事の途中で、これから日曜日の2時から5時まで、喫茶店で似顔絵を描くアルバイトをすると伝えた。

 反対されるのではないかと、内心では怯えていた。

 けれど、心配していた私の気持ちをよそに、叔父さんは、大きく目を見開いて笑顔で言った。

「凄いじゃないか。さくらは、絵が得意なのかい?」

「上手かどうかはわかりませんが、絵を描くのは好きです」

「そうか。これからは、好きな事も嫌な事も色々と経験してみるといい。そうやって、人は成長していくんだからね」

「はい」

 背中を押してもらい、心の片隅に存在していた小さな不安が消えていくのがわかった。

 しかし、叔父さんの言葉を心強く感じていたのも束の間、

「その喫茶店というのは信用できる所なのかい? 危ない所ではないのかい?」

と過保護な顔を覗かせて、私を笑わせた。

「大丈夫です。百合さんのお友達が経営している所なので」

「そうか…… だが、心配だ。明日、付いていこうか?」

「一人で大丈夫です」

「そうかい? わかった。じゃあ、何かあったら僕に連絡するんだよ。いいね?」

本当に一緒に行くつもりだったのか、断られて残念そうな顔をした。

 お父さんがいたら、こんな感じで心配されるのかもしれない、と少しだけ親子の感覚を味わった気がする。

 

 その話の最中で叔父さんのスマホが鳴り、画面を見て「悪いが、少し席を外すよ」と電話のために中座した。

 しばらく一人で料理を楽しんでいると、息子さんが入ってきた。

 その様子を無意識に目で追っていた。毎回、この人の所作の美しさに目を奪われる。ここの食事は好きだけど、それ以上に、息子さんの姿を見るのが楽しみだったりもする。

「本日は苺のババロアをご用意致しましたが、お好きでいらっしゃいますか?」

「はい、好きです」

 テーブルに乗せられたお皿には、円形のケーキ状になっているババロアが2つ乗っている。ブルーベリーと苺を飾ったもの、もう1つの上には細かく刻んだチョコと生クリームが乗っていた。

 叔父さんに連れてきてもらって5度目になるけれど、その度に私の為だけにデザートを用意してくれる。忙しい中、こんなに手厚い対応をしてもらうのを申し訳なく思っていた。

「いつも、ありがとうございます。ですが、私の為に、お手間を取らせているのではないですか?」

「いいえ。さくら様にお召し上がりいただけるのが嬉しくてお作りしておりますので、ご心配なさらないでください」

「ありがとうございます。……そうだ」

ふと思い出し、私は、数日前から用意していた絵を彼に渡した。

 その筒状になっているものを、不思議そうな顔をして両手で受け取る。

「こちらは?」

「お礼というには陳腐ですが、いつも美味しいデザートを頂いているので」

「拝見してもよろしいですか?」

「はい」

ゆっくりと、輪ゴムで留めたものを外して紙を広げた。

「これは……」

「私には何の取り柄もないし、自分で稼いでいないのでプレゼントも買えません。だから、感謝の気持ちを込めて描きました。いつも素敵なデザートをありがとうございます」

A3サイズの紙に、お店の入り口で優しく微笑む着物姿の息子さんを収めた。

 正直、この人の美しさを表現しきれている自信はないけれど。

 彼は、それを見て眉をしかめた。

「ありがとう…… ございます」

もしかして迷惑だったのだろうか……

歯切れの悪い言葉と表情が気になった。

「あの、ごめんなさい。何か気に障りましたか?」

「いえ、あの、嬉しくて……」

その息子さんの言葉と同時に、叔父さんが電話を終えて戻って来たので、途中で会話が切れた。


 私達の間に流れる空気に異変を感じたのか「どうしたんだい?」と、息子さんと私を交互に見ながら心配そうに座る。

「あの、こちらを頂戴しまして」

差し出された絵を息子さんから受け取り、叔父さんは食い入るように見入っていた。

「これ、さくらが?」

「はい」

「凄いじゃないか」

「そうですか?」

「でも、本人を前に描いた訳ではないだろう? 写真を見ながらでもないだろうし」

「見たものは記憶できるので、被写体がない状態でも描けます」

「ほお」

再び絵に視線を戻し、じっくりと観察した後に息子さんに返すと、彼は、その絵を大事そうに胸に抱え「失礼致します」と部屋を出て行ってしまった。様子が気になったけど、追いかける訳にもいかない。

 障子が閉まるのと同時に叔父さんが言った。

「さくらの絵が、あれほどまでに素晴らしいとは思わなかったよ。正直、驚いた。僕も色々な絵を鑑賞してきたが、君の絵には魂が宿っているように感じる。見る人を感動させる絵だね」

「ありがとうございます」

褒められたことも嬉しかったけど、私の絵が認められた気がして、それが何より心を躍らせた。少しだけ自信を持って、明日からのバイトに挑める。


「見たものを記憶できるというのは、瞬間記憶能力のことだろうか? 妹も同じようなこと言っていた。頭の中にカメラがあるから、見たものを瞬時に記憶できるのだと」

「はい。そうです」

前のめりで話を聞いていたけど、返答を聞いて、腕を組んで座椅子の背もたれに寄り掛かった。

 ふーっと息を吐き出して首を横に振る。

「君たち親子は凄いね。僕は、妹のその能力が羨ましかったんだ。まさか、さくらも同じだったとは」

叔父さんは、もう一度、首を横に振った。

 そして何かを思い出したように、急に机に肘を着いて前傾姿勢になった。

「それより、僕は悲しいよ。彼にはプレゼントしたのに、僕には無いのかい?」

そこに納得がいかないようで、口をへの字にして迫ってくる。まるで駄々をこねる子供のようだった。

 会う回数が増すごとに、クールな叔父さんのイメージが変わっていく。

「叔父さんには、もっと大きな物をプレゼントします」

「じゃあ、リクエストしていいかい?」

「はい」

「さくらと2人のものがいい」

「わかりました」

 他の人の前では社長としての威厳があるのだろうけど、今、目の前にいる叔父さんは甘えっ子にしか見えない。

 この驚くような激変ぶりは、叔父さんと私の距離が近くなったから、なのかもしれない。

 とても可愛がってくれるこの人が、私のそばにいてくれることに感謝しかない。



 日曜日の朝、海李君から電話があった。

 受話器越しに話すのは初めてかもしれない。機械を通して聞こえる声は、いつもとちょっと違う感じがした。

「あ、おはよう。海李だけど」

「おはよ。珍しいね、どうしたの?」

「今日さ、喫茶店に行くじゃん」

「うん」

「場所、わかる?」

「うん、百合さんが地図を描いてくれたから。それに、そんなに遠くないから大丈夫だよ」

 小さく咳払いをする音が耳に入った。

「……あの、俺、一緒に行こうか?」

昨日の叔父さんと同じセリフに、思わず笑いだしてしまった。

 過保護すぎる2人に、私はどれだけ心配されているのだろう。

「なんで笑うの?」

「昨日、叔父にも同じこと言われたから。心配してくれてありがとう。1人で行けるから大丈夫だよ」

「……わかった。じゃあ、何かあったら連絡して」

「うん。じゃあ、頑張ってきます」

「夕方、家で待ってる」そう言って、海李君は電話を切った。

 同伴を断った時の海李君も、あの時の叔父さんと同じ顔をしていたんだろうか。 

 電話越しではわからない表情を想像して可笑しくなってしまった。



 約束の時間は午後2時だった。

 店舗は通りに面した立地で分かりやすく、百合さんの地図のおかげで目的地はすぐに見つかった。

 腕時計を見ると、1時50分を指していた。

 少し早いけれど、喫茶店のドアを開ける。心地よいドアベルの音が響いた。

「こんにちは」

声を掛けて店内に入り、中を見回すと、左側にある5卓のテーブル席が満席になっていた。客層は様々で、色々な声が入り混じってとても賑やかだ。

 どの人が百合さんのお友達かわからずにキョロキョロしていると、奥からトレーを持った小柄な女性が出てきた。ピンク色のショートヘアで、活発そうなイメージだった。

「あれ? もしかして百合の紹介の子?」

私を見て声を掛けてきた。見た目と違って、とてもハスキーな声にギャップを感じる。

「はい、こんにちは」

「ごめん、今日、珍しく凄い忙しくなっちゃってさ。そこの椅子に座って待っててくれる?」

言いながら、テーブル席と反対側にあるカウンターの席を指さす。

 5脚あるうちの3つはお客さんが座っていた。

 私は「はい」と返事をして奥の一番端の空いている席に腰かけ、もう一度店内を見回す。

 忙しそうに小走りで動き回っている彼女以外、他に従業員らしき姿はない。

 こんな日に来てしまって心苦しくなった。


 ざわついている空間が何だか落ち着かなくて、壁に掛かっている花のリースや、至る所に置かれている観葉植物を見ていた。全体的に緑が多くて癒される空間の造りだ。

 店内のレイアウトから厨房に視線を移すと、シンクに食器が山積みのまま放置されているのに気付く。このお客さんの人数を相手に、洗い物まで手が回らないのだろう。

 それが気になって、申し訳ないと思いつつ、私の横を通り過ぎようとしていた彼女を呼び止めた。

「あの、よろしければお皿を洗いましょうか?」

足を止めて私を見ると、お皿の山が出来ているシンクと私を交互に見た。

「いや、悪いからいいよ」

「接客のお手伝いはできませんが、お皿洗いは得意です」

実際、お母さんと2人の時は、お皿洗いは私の担当だった。

 彼女は、右手の人差し指を顎に当てて、しばらく何か葛藤している様子だったけど、

「じゃあ、頼んでいい? それ使ってくれる? ごめんね、助かる」

と壁に掛かっている青いエプロンを指さした。

 言い終わるか終わらないかで、身をひるがえすように急ぎ足でホールに戻る。

 言われた通りエプロンをしようと手に取ると、彼女が着けるにしては大きめの生地だと気付いた。男性の物のようだけど、他の従業員は、今日は休みなのかもしれない。

 それを着けて、私は急いでシンクに向かった。


 次から次へと運ばれてくるお皿を片付けて、一段落したところへ彼女が戻って来た。

 フロアのお客さんも、カウンターに1人の女性と、1卓の2人だけになって落ち着いたらしい。

 大きく息を吐き「ありがとね」と言って、厨房の端に置かれている丸椅子に座る。全身の力が抜けたように、壁に体重を預けて足を投げ出した。

「本当に助かった。凄い手際いいし、洗い方も綺麗だし、うちの旦那と大違いだよよ」

 彼女の隣の椅子を叩いて「ここ座って」と声を掛けてくれた。

 私は、エプロンを外して元あった場所に返し、彼女の隣に座る。

 今の話の内容からすると、大きさと色から、エプロンの所有者は旦那さんかもしれない。

「もうさぁ、日曜にこんなに混むことって滅多にないのよ。びっくりしちゃったわ。それより、待たせた上に手伝わせちゃってごめんね」

「いえ、お皿洗いは好きなので」

「そうなの? 変わってるね。あっ、バタバタしてたせいで自己紹介もしてなかった。私は、宮志真 友美、よろしくね」

「松多部さくらです。よろしくお願いします」

気さくな感じで話しやすい人だ。少しだけ安心した。


「それはそうと、前に、ここで絵を描いていた学生が置いていった物があるんだけど」

「よっこいしょ」と立ち上がると、厨房の奥に行って小さな黒板と思われる物を持って戻って来た。

「店内に入らないと、絵を描いてることわかんないじゃん。うち、平日はサラリーマンで混みあうけど、土日は来客数が減るのよ。だから前の子は『似顔絵描きます』って案内板を作って、店の入り口に立てて置いてたわけ。それを見て入って来る人もいたから、わりと効果あったよ。やってみる?」

手にしていた50cmくらいの黒板と、チョークの箱を渡された。

「はい、是非」

「絵を描くのは来週からにして、今日は、それを作ったら? そこの空いてるカウンター席を使って書いていいよ。あと、店内用のポップも作ってくれたら貼っておくけど」

「はい」

 私は、入ってきた時と同じ席に座って、黒板を目の前に思案していた。

 ただ一言『似顔絵を描きます』では、目に留めてはもらえないだろう。

 これの元所有者の人は、どんな広告を掲げていたのか気になった。

 白と赤と黄色のチョークを見つめながら、色々な構図を頭の中で作成する。けれど、やはり実際に書いてみなければわからないと思い、白いチョークを手にした。


 いざ書き込もうとしたその時「すいません」と声がしたので振り返ると、カウンターの反対の端の席に座ったいた若い女性が、私を見下ろすように背後で立っていた。

「ごめんなさい、話を聞くつもりは無かったのですが、耳に入って来て。……似顔絵を描かれているのですか?」

彼女は、組み合わせた両指を胸の前でぎゅっと握りしめ、不安げな様子でこちらを伺っている。

「はい、一応」

「あの……」

次に発する言葉を選ぶように、ゆっくりと一言一言発声した。

「本人がいなくても、写真をお見せして似顔絵を描いていただくことは可能ですか?」

「はい、大丈夫です」

「例えば、顔の一部分が切れてしまっていても、再現してもらう事ってできますか?」

彼女の言っている意味が理解できなかった。

「座って話したら?」

私達の様子を見ていた宮志真さんが、厨房から声を掛けた。

 彼女は「ありがとうございます」とお礼を言い、ロボットのようなぎこちない動きで私の右隣へと座った。

「どういうことでしょうか?」

「実は、祖母の家が2年ほど前に火事で全焼しました。その1年ほど前に祖父が他界しています。火事の中、祖母が唯一持ち出したのが祖父の写真だけだったのですが、それが右目から上が焼けてしまっていて…… 現存している写真がそれしかないので、絵なら焼けてしまった部分を再現してもらえるかもしれないと思って、失礼を承知でお声を掛けさせてもらいました」

 あまり期待はしていないけど……

 そんな心の声が聞こえてきそうな表情だった。

「特徴をお聞きして、焼けてしまった部分を補うことはできます。ですが、実際に見なければそっくりに仕上げるのは難しいと思うので、納得して頂ける仕上がりになるかは保証できません。それでもよろしいですか?」

「えっ? 描いていただけるんですか?」

「はい。あまり自信はないですが、ご期待に添えるよう努力します」

「本当ですか!? ありがとうございます。祖母も喜びます」

「今、写真をお持ちですか?」

「写真はないんですが、スマホになら」

そう言ってポケットから機体を取り出して操作し、1枚の画像を私に見せた。

 画面に表示されていた写真は、スーツを着ている高齢の男性の姿だった。

 確かに右目から上が焼け落ちているのがわかる。

 ただ、スマホで写真を撮るときに少し離して撮影していて、しかも全身を映しているものなので顔が確認しづらい。

「顔が見えるようにしてもらっていいですか?」

「はい」

彼女は、親指と人差し指を使って画像を拡大させ、再び私に画面を向けて見せた。

 あれ? 

 この方って…… もしかしたら……

 顔全体が見えなくても、その人に見覚えがあった。

「失礼ですが、おばあ様は隣の県にお住まいですか?」

何の関係があるのだろうと言いたそうな顔で、眉をしかめて答えた。

「家が無くなってしまったので、今は、私達とこの辺りに住んでますが」

「じゃあ、以前は?」

「えっ…… 隣の県に住んでいましたが」

「大きな猿と象の遊具がある公園の近辺にお住まいでしたか?」

「……はい、そうです」

 やはり、想像していた人だった。こんな偶然もあるのだと驚いた。


 高揚した私とは対照的に、怪しげな者を見るような目をして、彼女は私から少し身を引いた。気味悪がられても仕方ない問いだったかもしれない。

「私も、引っ越す前は、その辺りに住んでいました。おじい様とおばあ様が散歩されている時に、何度もお会いしたことがあります」

「ああ、なるほど、そうなんですか。だから祖母が以前住んでいた場所をご存じだったんですね。よかった。ごめんなさい、てっきり変な人かと……」

彼女の言う『変な人』が、どういう人物像の事を指すのかわからないけど、質問をしていた時の敵対的な表情が友好的なものに変わって、肩の力も抜けたようだった。

 ふと、先程の彼女の説明が頭をよぎる。

「おじい様は、お亡くなりになったんですね」

「はい、病気で」

 この先、会うことはないかもしれないと思ってはいたけれど、『会うことはない』と『二度と会えない』とでは意味合いが全く違う。

 もう会えないんだ……

 その悲しい現実が、私の鼻の奥を不快に刺激した。

 涙が落ちそうになるのをこらえて、私は彼女に言った。

「……絵をお渡しするのに、1週間、お時間を頂けますか?」

「はい、それは構いませんが…… じゃあ、写真はどうしたらいいですか?」

「いりません。見なくても描けるので」

「……はい?」

「大丈夫です、信用してください」

腑に落ちないような顔で「わかりました」と言い、来週、また来店する約束をして、彼女は会計を済ませて店を出た。


 私達の様子を厨房から心配そうにチラチラと見ていた宮志真さんが、トレーを片手にフロアに出てきて、彼女のいた席の食器を片付けながら聞いてきた。

「ねえ、こんな言い方したら悪いけど、あんな安請け合いしちゃって大丈夫?」

不安そうな顔をしている。

「はい。お会いしたことがある方なので大丈夫です」

「会ったことがあるって言っても……」

 言いたいことはわかる。

 ただ、説明しても理解してもらえないだろうと思って「来週、描いて持ってきます」とだけ言っておいた。

 今日は、似顔絵を描く為にA4サイズの用紙しか持ってきていない。もっと大きな紙に描いて渡したかった。なので、今、依頼された件は家で作業するつもりだった。

 小学生の頃の優しい思い出をくれた2人に、せめてものお返しとして、私の精一杯を注ぎ込もうと思っている。


 カウンターで一人になった私は、初期の段階から手を付けられずにいた、深緑一色のままの黒板と向き合った。

 とりあえず、似顔絵を描くという事、描き上げるおよその時間、金額、それらを表記しておけば大丈夫だろうか。

 3色のチョークを使ってふんわりと全体的な下書きをしたはいいけれど、金額を決められずに困ってしまった。

 前の人は、いくらに設定していたのだろう。

 オーダーを取り終えて戻って来た宮志真さんが、黒板を覗き込んで助言をくれた。

「前の子は、1枚千円貰ってたよ」

そう言って、厨房に入っていく。

「では、500円にします」

「何故!? 百合に描いたやつを画像で見せてもらったけど、凄い上手だったよ。500円なんて安すぎだよ! もっと上げたら?」

「いえ、私は絵の勉強をしたことのない素人なので、その金額で十分です」

そう言って、今、話した料金設定を黒板に記載した。

 もともと、お金を稼ぐことが目的ではない。

 自分の可能性を探すために来たのだから、受け取る金額は高くなくてもいい。

「まあ、さくらちゃんがそれでいいならいいけど」

宮志真さんは、納得できないというような顔で、オーダーの料理をし始めた。


 今日は、今後の準備に時間を費やした。

 黒板の案内板を仕上げ、店内に貼らせてもらうポップを5枚作成した。

 完成して時計を見ると、針が4時50分を指している。集中していたから、あっと言う間だった。

 後ろを振り返ると、2組のお客さんがテーブル席で談笑している姿が見えた。

 来店したことにも気付かないくらい没頭していたらしい。

「あの、宮志真さん。今日は、これで失礼します。ありがとうございました」

私の声で、洗い物をしていた手を止めると「ちょっと待って」とタオルで手を拭き、口をピンクのリボンで縛った透明の袋を持ってきた。

「これ、手伝ってもらったお礼。本当に助かった。ありがとね」

中には、数種類のナッツが乗った大きめのクッキーが3枚入っている。

 きっと、お店で売っている商品なのだろう。

「好きでやったことなので頂くわけには……」

「いいから食べて。黒板とポップは、そのまま置いていっていいから。じゃあ、また来週ね」

「では、遠慮なく頂きます。ありがとうございます。また来週、お願いします」

 お店を出る時に「気を付けて」と声を掛けてくれた。

 宮志真さんにお辞儀をして、私はドアをそっと閉める。


 体の力を抜くように「ふーっ」と息を吐き、帰ろうと体の向きを変えたところで、予想もしていなかった人物の姿が目に飛び込んできた。

「海李君、何してるの!?」

 入口から少し離れた場所で立っていた彼に驚いた。

「いや、出掛けた帰りに通りかかったから、一緒に帰ろうと思って待ってた」

「そうなんだ、ありがとう。どこに出掛けたの?」

「えっ、あの、うん、友達の、家?」

「何故、疑問形?」

「えーっと…… 記憶喪失かな?」

「新たな疑問形」

「まあ、いいじゃん。帰ろ」

ちょっと慌てたように話を終わらせると「このまま、うちに行く?」と聞いてきた。「うん」と返事をして、どちらともなく歩き始める。

「今日、どうだった?」

心配そうに顔を覗き込んで聞いてきた。

「行く前は、やっぱり不安だったけど、宮志真さんがいい人で続けられそう。クッキーもらったの。3人で食べよ」

 今日、お店が混んでいて手伝ったことや、看板とポップを作ったことなどを話しながら、二人で海李君の家へ向かった。

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