道
午後に海季君と出掛ける約束をしていた。
高橋さんのことは気掛かりではあったけれど、それ以上に、心待ちにしていた外出に胸が高鳴っていた。
引っ越して来てからの行動範囲が、家と学校と有富家だけという私に「たまには違う空気を吸ったほうがいいよ」と海李君が言った。
「隣町まで出掛けるから、一緒に気分転換に行こう」と誘われ、今日は、バスで移動している。
あまりバスに乗ったことのない私は、車窓から見える景色を楽しんでいた。
これまで、お母さんと出掛ける時は、主に徒歩か自転車だったし、稀に遠出するにしても、私鉄の駅が近かったので電車を利用していた。
だから、少し高めの位置から、街の中を通り抜ける風景がとても新鮮だった。
お母さんとの買い物と同じくらい、この日を待ち侘びていた。
初めて足を踏み入れた街は、私が住んでいる所に比べて都会だった。
高層の商業施設が目立ち、人や車の往来も多い。これだけの人が、何処から来て何処へ向かっているのだろうと疑問に思った。
道沿いのショーウィンドウを眺めながら、のんびりと歩く。
可愛い雑貨屋の前で立ち止まったり、飲食店の食品サンプルを見ながら「本物みたいだね」と驚いてみたり。これまで、こんなふうに街中を歩いたことがなくて、何もかもが私の胸を躍らせていた。
目にする全てを描きとめておきたくなる程、とても楽しい一時を過ごしていた。
そんな中、不意に、学校での高橋さんとのやりとりが頭に浮かぶ。
気分転換に海季君が誘ってくれたのに、彼女を思い出すことで、楽しい時間を台無しにしたくない。
その悩みの種を、頭の中から懸命に追い出そうとした。
けれど.そう考えれば考えるほど、高橋さんのことでいっぱいになった。
海季君に聞いたら、彼女がどんな人物なのかわかるかもしれないと、そんな考えが過る。
けれど、中学時代の話をすることで、彼の思い出したくない過去を引きずり出す可能性もあると気付いた。尋ねるのは自分の関心を満たす為だけのエゴだし、何より、楽しい時間を壊したくなかった。
この件は、自身で解決するべきだと、自分の迷いを戒めた。
「さっきから黙ってるけど心配事?」
隣を歩く海李君が、背中を丸めるように覗き込みながら聞いた。
ずっと高橋さんのことを考えて無言になっていたせいで、彼との会話が疎かになってしまっていた。
「ううん、何も」
「大丈夫? 気分悪い?」
「平気、凄い元気」
「調子悪くなったら隠さないで言って」
立ち止まって心配そうに言う。
全然、関係ないことで気を揉ませてしまったことを後悔した。
「ごめんね、心配させて。でも、本当に大丈夫だよ」
納得してくれるかわからないけど、笑顔を作って元気をアピールしてみせる。
やはり怪訝そうな顔はしたけれど、それでも彼は私の言葉を受け入れてくれた。
「うーん、わかった。でも、隠し事は無しだよ」
「うん」
これ以上の心配をかけないよう、私は、無理矢理に高橋さんを頭の中から追い出した。
気分を変えてアーケードを歩いていると、遠くから海李君を呼ぶ男性の声がした。
「おーい、海李」
「えっ?」
立ち止まった彼に合わせ、私も歩みを止める。
そこまで混雑しているわけではないけど、どこから声がしたのかわからなかった。
キョロキョロと辺りを見回すと、今、歩いてきた方向から、長身の男性が走り寄って来て、海李君の前に立った。
太い縁の黒縁眼鏡に、目が隠れそうなほどの長めの前髪が被っている。初めて会う人だった。
「おう、陽介。どうした? 買い物?」
「店の買い出し。おまえは?」
「俺は、ギターの弦を買いに」
2人は、楽し気に会話を始める。
海李君が、友達といる姿を見たことがなかったから、普段、私と話している時とは違う顔が目新しく感じた。
しかし、同じくらいの大きな身長の2人が前に立つと、小柄な私には、そびえたつ山のようだった。少し圧迫感すらある。
その山の片割れが、視線を下げて私の存在気付いた。前髪の掛かった眼鏡の奥の瞳が、一瞬、大きく見開かれた。
「こちらは?」
海季君に尋ねる。
「松多部さくらさん」
「前、話してた?」
「そう」
「さくらちゃん、こいつは橋乃宮陽介。俺の親友」
親友という事は、さっき高橋さんの話に出てきた人なのかもしれない。
「松多部さくらです」
自己紹介をすると、彼は、優しい笑顔で、声を出さずに頭を軽く下げる。
そして慌てた様子で「ごめん、時間ないから行くわ。じゃあな」と、これから私達が向かう方向に、凄い速さで走り去って行った。
その、あまりの忙しなさに、今日は嵐のような人と関わりある日だと、小さくなる後ろ姿を眺めながら思った。
海李君が「行こうか」と歩き出す。
彼とは対照的に、急ぐ理由が無い私達は、のんびりと目的地に向かった。
歩いている最中、海李君が唐突に話し始めた。
「元々は兄貴の夢なんだけど、俺、将来は音楽の仕事に付こうか考えてるんだ」
「音楽?」
「そう。シンガーソングライターってやつ。作詞作曲して、それを歌う」
「そうなんだ。凄くいいと思う。お兄さんも喜んでくれるよ」
「そう思う?」
「うん。お兄さんの夢だったとしても、海李君が自分の進みたい道として選んだのなら、きっと海季君を応援してくれるよ」
「……だといいな」
はにかんで下を向き、昔を懐かしむような優しい表情をした。
楽器店につくと、海李君は顔なじみらしい店員さんと熱心に話し始めた。
内容が全く理解できなかったので、時間を持て余した私は一人で店内をぶらつくことにした。
色んな楽器の展示品や機材などが並んでいて、何に使うのか分からない物まで初めて目にするものばかりだった。
辺りを眺めながらぶらぶらと回っていると、楽譜を並べているラックが視界の隅に映り、そこへ移動して、陳列された一覧に目を向ける。
顔写真の表紙の物や、単色の紙に名前だけ記載された物、英語の文字が書かれている物と色々な楽譜が並んでいた。
その中の一冊を、何気なく手に取って開いてみる。
沢山の音符が書かれているうえに、見たことのない記号まであった。
学校で習う程度の知識しかない私には、解読不能な暗号にしか見えない。
「何してるの?」
後ろから海李君の声がした。
振り向くと、先程までは持っていなかった小さな紙袋を手に近付いてきた。
楽譜を見せる。
「海李君も、こういうの作ってるの?」
「うん、そうだね」
「凄いね。私には、これがどういう音楽になるのか想像もできない」
それを私の手から受け取って「このアーティスト知ってる?」と聞いてきた。
楽譜の表紙に名前が書かれていたけど、それが海李君が言うアーティストのことなのかもわからなかった。
「家にテレビ無いしスマホも持ってないから、名前も顔も知らない」
「そっか。これ、俺の憧れの人なんだよね。正しく、天才って感じの人。こんなふうに自分だけの音を作りたいんだ」
ページをペラペラとめくりながら、時々、無味深げに動きを止めて楽譜を見ている。その姿が何だか楽し気に映って、彼の好きな世界を覗いてみたくなって聞いてみた。
「今度、その人の曲を聴かせてくれる?」
私がそう言うと、ページをめくる動きを止め、いきなり手の中の楽譜をパタンと音を立てて閉じた。
そしてポツリと「知らないままでいいよ」と言った。
『海季君の世界に触れられる』と、私の中で勝手に期待を膨らませてしまっていた分、その言葉が、彼のテリトリーに入ることを拒絶されたようで、胸の奥をチクッと攻撃した。
二人の間に、ちょっとだけ距離ができたような物悲しさを覚える。
「……うん」
何だか顔を見ていられなくて下を向いた。
その私の微妙な表情に気付いたのか、慌てた様子で楽譜をラックに戻し、体をこちらに向けて言った。
「違う、誤解しないで。俺、これから頑張って絶対に有名になる。だから、さくらちゃんが一番最初に知るアーティストは俺がいい。さくらちゃんの好きな人だって言ってもらえるくらい頑張るから、それまでは他の人のことを知らなくていいよ」
そう言った直後、真っ赤な顔になって横を向いた。
海季君の赤面に釣られて、私まで顔が熱くなる。
拒絶されていた訳ではないとわかった途端、落ち込みかけていた心が急速で元気になった。
今日は、私の心も嵐のように騒がしい日らしい。
「わかった。じゃあ、海李君の音楽が私に届くのを楽しみに待ってる。約束だよ」
小指を彼に差し出した。
驚いた顔で、少しためらいがちに私の小指に自分の小指を絡める。
「うん、待ってて」
相変わらず冷たい手をしていた。
買い物を終えて、私達はそのまま海李君の家に向かった。
リビングに入ると、百合さんが「待っていました」と言わんばかりに、私達に座るように促した。
言われるまま着席すると、唐突に「さくらちゃん、絵を描いてみない?」と言った。
「どういうことですか?」
「さくらちゃん、とても絵が上手だから、それを生かして何かできないかなって考えてたの。友達に話したら、彼女が経営している喫茶店の一角を貸してくれるって言うの。そこで、お客さんの似顔絵を描いてみたらって」
「えっと、それって……」
「以前、知り合いの美術大の生徒さんが、勉強の為にやっていたらしいの。お小遣い稼ぎも兼ねて。勿論、場所は無料で提供してくれるわ。土日で、さくらちゃんの都合がいい日に来てもいいって。どう? やってみない?」
それだけ話して「飲み物持ってくるわね」と席を立った。
海李君を見ると「物は試しでやってみたら?」と微笑んでいる。
正直なところ、今の生活に変化など求めていないから、突然の提案に戸惑った。
最近、2人のおかげで、人と対面することに徐々に慣れ始めてきた。
けれど、絵を描いている間、知らない人と向かい合わなければいけないと思うと、少し怖くなってしまう。
百合さんが私の事を考えて用意してくれた機会だけど、私にはハードルが高い気がした。
トレーを手に戻って来て、海李君と私の前にマグカップを置いて席に座り、話を続ける。
「まあ、乗り気じゃないのはわかるわ。誰でも初めて何かをする時は不安になるもの。でも、自分の中の可能性を見つけるなら、絵だけに限らず、色々と試してみなければわからない事ってあるじゃない? 行ってみて楽しかったら続ければいいし、合わなかったら辞めればいい。深く考えることはないわ」
「絵を描くのは好きだけど、私にできるか……」
「海季も言ってたけど、物は試しよ。とりあえず1日行ってみたら?」
そう言って、テーブルの反対側で、優しく微笑みながら私を見ていた。
全くの知らない人からしたら、この程度で悩んでいるのが馬鹿らしく見えるかもしれない。でも、私には、簡単に決断できる問題ではなかった。
シーソーのように気持ちが揺らいでいた。
百合さんが言うように、1日だけ行ってみる?
それとも初めから断る?
行ってみる?
やめておく?
どちらも選択できずに悩んでいた。
脳内をグルグルと駆け巡る葛藤に疲れて、助けを求めるように正面に座る海李君を見た。私の視線を受け止めて、優しく微笑みながら頷く。
「大丈夫。何かあったら助けるから」
単純かもしれないけど、その笑顔と言葉が、迷っている私の背中を押した。
海李君が将来の道を見つけたように、私も、自分の未来と可能性を探すために、大切な一歩を踏み出すべきなのかもしれない。
「ありがとうございます。行ってみます」
少しだけ勇気を出して、新しい世界に踏み込んでみようと思う。




