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領主の印

第9話 領主の印


 馬車の中。ミリアと向かい合って座り、私は頭の中でそろばんを弾いていた。前世の経理部の癖だ。指が、無意識に空中で動く。


 上流の村の働き手は、ざっと二十五人。堰の解体と水路の修繕、早くて一週間。日当は——相場から考えて、一人銀貨二枚が妥当なところ。


 二十五人かける七日かける銀貨二枚。金貨に直すと、三十五枚。


 この国では、金貨一枚が銀貨十枚。前世の為替より、よほど分かりやすいレートだ。


 三十五枚の金貨。私の手持ちは——ゼロ。


 真珠の首飾りの三十枚は、今夜、下流の村への麦の買い取り代に消える。金庫は空っぽ。つまり「日払い」の約束は、絵に描いた餅だ。


「……お嬢様。ため息が、三回目です」


 ミリアが、心配そうに覗き込んできた。


「ため息くらいつかせてよ。こっちは算数が合わなくて泣きそうなの」


「お金、ですか」


「お金よ。約束した日当、三十五枚の金貨。私の財布は、風が吹き抜けるわ」


 ミリアが、黙り込んだ。何か考え込んでいる顔だ。……この子、まさか自分の給金を差し出す気じゃないでしょうね。


「ミリア。あんたの給金には手を出さないわよ」


「えっ、どうして分かったんですか」


「顔に書いてあるの。前世の部下にも、そういう顔をする子がいたわ。給料を前借りして、実家に仕送りしてた子」


 ……その子、結局ブラックな残業で倒れたっけ。私が経理で、残業代の改竄に気づいてやれなかった。——嫌なことを思い出したわね。


「大丈夫。心当たりはあるの」


「心当たり……?」


「ええ。領地で一番お金を持っていそうで、一番お金を出さなそうな人」


「ダルトン様……?」


「違うわ。もっと上。——父よ」


---


 館に戻って、私は書斎で考えた。


 父に金を出させる。ただの「おねだり」じゃない。——これは、取引よ。


 考えてみなさいな。今の領地で、ダルトンに対抗できる「名分」を持っているのは誰? 私じゃない。十七歳の令嬢の戯言なんて、誰も聞かないわ。


 侯爵の印がいるの。領主の名で命令を出せる、正規の権限が。


 ダルトンは今、領主の名を騙って動いている。偽物の権威に対抗できるのは、本物の権威だけ。


 前世の会社で学んだわ。稟議書に社長のハンコがなければ、どんな正しい企画もゴミ箱行き。逆に、ハンコさえあれば赤字事業だって動く。権限って、そういうものよ。


 印がいる。父の私財と、一緒に。


 ——それに、ね。正直に言うと、父とは一度、ちゃんと話しておかなきゃいけなかったの。


 前世の私に、父と呼べる人は事実上いなかった。両親は仕事人間で、顔を合わせれば金の話ばかり。……だから、なのかしら。転生してからのこの父の——弱さが、どうにも他人事に思えなくて。


 ミリアを呼ぶ。


「ミリア。父に会いに行くわ。——帳簿を、三冊とも持ってきて」


「三冊とも、ですか……!」


「ええ、全部よ。今日こそ、決着をつけるの」


---


 父の執務室の前で、私は一度だけ深呼吸した。


 ノック。三つ。


「……入りなさい」


 部屋の中は、薄暗かった。カーテンが半分閉まっていて、机の上には書類の山。……いや、山に見せかけた、ただの紙の束ね。ダルトンが「ご覧ください」と置いていった、読む必要のない報告書たち。


 父——ローゼンハイム侯爵は、椅子に沈み込むように座っていた。五十代半ば。白髪が増えて、頬はこけている。……二年後に娘を処刑台に送ることになる男には、見えない。ただの、疲れたおじさんだ。


「エリザベート……どうした。学園は、休みなのか」


「休んだわ。今日は領主の娘としてじゃなく——債権者として来たの」


「債権者……?」


 私は、帳簿を三冊、机の上に並べた。どん、どん、どん。


「見て。三年分の、領地の帳簿。……墨の色が、ところどころ違うの。分かる?」


 父が、帳簿を手に取った。ページをめくる指が、震えている。


「こ、これは……」


「新しい墨で、数字が書き換えられているの。支出が水増しされ、収入が削られている。三年間で消えた金の総額は——金貨で、八千枚を超えるわ」


「八千……!?」


「やったのは、ダルトンよ。管家が、領地の金を抜いていたの。金庫は空っぽ。王都の商会への借金だけが残っている」


 父の顔から、血の気が引いていく。……知っていたのね。この人、薄々は気づいていたんだわ。


「父さん。知ってたんでしょ。ダルトンの暮らしぶりが、管家の給金じゃ賄えないってこと」


「…………」


「三年前、庄屋が借金を理由に村ごと取り上げられたこと。上流の村が水を独占していること。……全部、ダルトンの差し金よ。知ってたんでしょ?」


 長い沈黙。カーテンの隙間から夕日が差し込んで、父の横顔を赤く染めた。


「……すまない」


 搾り出すような声だった。


「分かっていたんだ。ダルトンの屋敷が、年々立派になっていくのを。王都の商会の連中が、館に出入りするのを。……分かっていて、見ないふりをした」


「どうして?」


「怖かったんだよ……!」


 父が、顔を両手で覆った。


「ダルトンに逆らえば、王都の商会を敵に回す。商会を敵に回せば、領地は干上がる。……それに私は、領主として何一つ成し遂げられなかった男だ。父としても、娘に何も残してやれなかった。……すまない、エリザベート。すまない……」


 嗚咽が漏れた。五十がらみの男が、娘の前で泣いている。


 ……前世の社長を思い出したわ。不正を見抜けず、粉飾決算の判子を押して、最後は泣きながら辞任した社長。弱い人間は、どこにでもいるのよ。悪人じゃない。ただ、弱いだけ。


 でも、弱いだけじゃ済まされないのが、領主という立場だ。


 私は椅子を引いて、父の向かいに座った。


「父さん。泣くのは、後でいいわ」


「……え?」


「今泣いたって、金庫は空っぽのままよ。私が来たのは、父さんを責めるためじゃない。——お願いがあるの」


 父が、涙に濡れた顔を上げた。


「二つよ。一つ。父さんの私財を、貸してちょうだい。日当の支払いに、金貨で百枚いるの」


「百枚……! そ、そんな大金、私財にも——いや、待て。……ある。まだ、手をつけていない金がある」


 父が、机の引き出しの奥から小さな箱を取り出した。開けると、金貨がぎっしり。


「これは……お前の、嫁入りのために貯めていた金だ。少しずつ、ダルトンの目を盗んで……」


 ……嫁入りの金。王子との婚約のための、持参金。


 胸が、ちくりと痛んだ。この弱い父が、それでも娘のために、管家の目を盗んで貯めていた金。


「……ありがとう、父さん。でも、これは借りるんじゃない。投資よ」


「投資?」


「ええ。水路が直れば、収穫が戻る。収穫が戻れば、税収が戻る。……そしたら、嫁入りの金なんてすぐに取り戻せるわ。経理の常識よ。未来に投資しない奴に、未来はないの」


 父が、小さく笑った。涙の残る、情けない笑顔。


「……お前は、いつからそんなことを言うようになったんだ」


「いつからかしらね。……さて、二つ目よ」


 私は、まっすぐ父を見た。


「領地の印を、私に預けてちょうだい」


「印を……!?」


「ダルトンは今、領主の名を騙って動いている。偽物の権威を止められるのは、本物の権威だけ。……父さん、私に領主代理の権限をちょうだい。印があれば、私は正式に動ける」


 父が、息を呑んだ。印を渡す——それは、領地の実権を渡すということだ。


「……いいのか。お前は、まだ十七歳だぞ」


「十七歳で、断罪が決まっている令嬢よ。失うものなんて、もうないわ」


 ……言ってから、しまったと思った。断罪のこと、父は知らないはずだ。ゲームの知識なんて、説明できない。


 でも父は、深くは問わなかった。ただ、じっと私を見つめていた。


 やがて父は立ち上がり、書棚の奥から桐の箱を取り出した。開ける。中には、ずっしりと重そうな青銅の印が収まっている。ローゼンハイム家の紋章が刻まれた、領主の印。


「……エリザベート」


 父が、印を両手で持ち、私の前に差し出した。


「頼む。……私の代わりに、領地を頼む」


 私は、印を受け取った。ずっしりと重い。……この重さが、領地三万人の生活の重さなのね。


「……任せて。父さんは、もう泣かなくていいの。後は、私がやるから」


 父の目から、また涙がこぼれた。でも今度は、少しだけ違う涙に見えた。


---


 執務室を出て、廊下を歩きながら、私は懐の印を握りしめた。


 金は確保した。日当は、明日から払える。麦の輸送は、今夜、川を下る。


 そして——領主の印を、手に入れた。


 これで私は、正式な「領主代理」だ。ダルトンに対抗できる、名分ができた。


 帳簿の証拠は、まだ切っていない。最後のカードは、取ってある。


 明日、ダルトンの前に立つ。領主の印を、懐に。

第9話をお読みいただき、ありがとうございます。今回は父・ローゼンハイム侯爵との対峙回でした。弱さゆえにダルトンの不正を見逃してきた父の懺悔、そして娘に託された領主の印——嫁入りのために貯めていた金貨百枚も、日当の支払いに回ります。いよいよ次回は、管家ダルトンとの直接対決! 三年分の帳簿という最後のカードを切る時が来ました。面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります!

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