帳簿の罠
第10話 帳簿の罠
朝。執務室の机の上で、桐の箱が静かに佇んでいた。
蓋を開ける。青銅の印。ローゼンハイム家の紋章が、朝日を受けて鈍く光っている。
……重い。昨夜、手に取った時よりも、ずっと重く感じる。
いや、重いのは印じゃない。印にくっついてくる「責任」の方だ。
前世の会社で、初めて部長になった人が言ってたっけ。「ハンコを押すってことは、その分の責任を背負うってことだ」って。……その人、半年で胃潰瘍になってたけど。
「お嬢様。お支度ができました」
ミリアが、帳簿を三冊抱えて立っていた。三年分の領地の帳簿。墨の色がところどころ違う、ダルトンの「作品」だ。
「ありがとう。……その前に、バルトを呼んでちょうだい」
「バルト様を、ですか?」
「ええ。今日のことは、バルトにも知っておいてもらう必要があるの」
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やがて、老執事バルトが執務室に入ってきた。六十歳。白髪をきっちり撫でつけた、昔気質の執事だ。
最初は私の改革に眉をひそめていた人。……でも、水路の件では黙って職人たちを手配してくれた。口では文句を言いながら、手は動かすタイプ。前世の会社にも、こういうベテランがいたわ。口うるさいけど、いざという時は頼りになる。
「お嬢様。……これは」
バルトの目が、机の上の桐の箱に止まった。蓋が開いていて、中の青銅の印が見えている。
「……まさか。領主の印……!?」
「ええ。昨夜、父から預かったわ。正式に、領主代理として」
バルトが、深く息を吸い込んだ。しわの刻まれた顔が、わずかに震えている。
「……侯爵様が……自ら……」
「そうよ。……バルト。今日、私はダルトンのところに行く。帳簿の件で、話をつけに」
「お嬢様……! ダルトンは、ただの管家ではありません。王都の商会と繋がっている男です。下手をすれば——」
「分かってる。だから、バルトにも知っておいてほしいの。……万が一、私に何かあったら、この印と帳簿を、父に届けて」
沈黙。バルトが、じっと私を見つめていた。
やがて、老執事は深々と頭を下げた。
「……承知いたしました。……お嬢様。老僕も、微力ながらお仕えします。何かあれば、いつでもお呼びください」
……おや。意外とあっさり認められたわね。最初はあんなに反対してたのに。
「ありがとう、バルト。……頼りにしてるわ」
バルトの目尻が、少しだけ緩んだ気がした。
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管家の執務室は、館の奥まった一角にあった。
廊下を歩きながら、私は頭の中で段取りを確認する。
今日の目的は、ダルトンを「試す」こと。証拠を全部切って、一気に潰すんじゃない。
前世の監査で学んだわ。怪しい取引先を潰す時は、まず小さな矛盾を突いて、相手の反応を見る。相手が言い訳をすればするほど、ボロが出る。……逆に、相手が開き直ったら、それはそれで「次の一手」の材料になる。
帳簿の「試し」と、印の「権威」。二段構えよ。
ミリアが、小声で言った。
「お嬢様……本当に、大丈夫ですか」
「大丈夫よ。……たぶん、ね」
「たぶん、ですか!?」
「冗談よ。……半分ね」
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ノックもそこそこに、私は扉を開けた。
「おはよう、ダルトン」
ダルトンは、書類に目を通していた。顔を上げる。その目が、一瞬だけ私の後ろのミリア——そして彼女の抱える帳簿の束に止まった。
「……お嬢様。いったい、何の御用で」
声は丁寧。でも、目が笑っていない。……この男、笑顔の練習をした方がいいわよ。前世の営業部長も、こういう「笑ってない笑顔」の持ち主だった。決まって、何か隠している時の顔だ。
「座っていいのよ。……いや、立ったままでもいいわ。どうせ、すぐに座りたくなるでしょうから」
「……?」
私は、ミリアに目配せした。ミリアが帳簿を三冊、ダルトンの机の上に並べる。どん、どん、どん。
ダルトンの頬が、ぴくりと動いた。
「お嬢様。これは……?」
「三年分の、領地の帳簿よ。……ねえ、ダルトン。ちょっと教えてほしいことがあるの」
私は、一冊目の帳簿を開いた。指で、あるページを示す。
「ここの支出。『水路修繕費、金貨四十枚』って書いてあるわね。……でも、この墨、周りと色が違うの。新しい墨で、後から書き換えられたみたい」
「…………」
「あら、黙っちゃった。じゃあ、次。これ。『麦の買い取り、金貨百二十枚』。……この数字も、元の数字の上に重ねて書いてあるわ。透かして見ると、下に『六十枚』って読めるの」
ダルトンの額に、汗が滲み始めていた。
「それから、こっち。『王都商会への返済、金貨三百枚』。……ねえダルトン。この返済、領地の金庫から出たことになってるけど、金庫は空っぽだったわよね? 空っぽの金庫から、三百枚も出せるの? 魔法かしら」
「お、お嬢様……!」
ダルトンが、椅子から立ち上がった。
「帳簿の読み方も知らないお嬢様が、勝手なことを……! これは記帳の訂正です! 後から正しい数字に直すのは、当たり前の事務処理で——」
「訂正? 三年間で、八千枚を超える訂正?」
私は、にっこり笑った。……前世で、粉飾決算の担当者を問い詰める時の笑顔だ。我ながら、性格が悪い。
「ねえダルトン。教えて。三年間で消えた金貨八千枚は、どこに行ったの? 訂正で消えるお金って、どういう仕組みなのかしら。経理の常識として、ぜひ知りたいわ」
「そ、それは……!」
ダルトンの顔が、青くなったり赤くなったりしている。……あらあら。余裕の仮面が、剥がれてきたわね。
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「……お嬢様は、ご存じないのですよ」
ダルトンが、低い声で言った。汗を拭いもせず、じっと私を睨んでいる。
「領地の経営というものが、どれほど複雑か。王都の商会との付き合いが、どれほど繊細か。……十七歳のお嬢様に、分かるはずがない」
「あら、説教?」
「忠告です。……商会を敵に回せば、この領地は干上がります。麦も売れず、借金も返せず、領民は飢える。……それでも、よろしいのですか」
……この台詞。昨夜、父も同じことを言っていた。「ダルトンに逆らえば、王都の商会を敵に回す」って。
なるほどね。父にこの「恐怖」を植え付けたのは、こいつだ。恐怖で縛って、逆らえないようにする。……前世のブラック企業でよく見た手口だわ。「会社を辞めたら生きていけないぞ」って脅す上司と、同じ構造。
「ダルトン。……その台詞、父にも言ったわよね」
「……何のことです」
「『商会を敵に回せば領地は干上がる』って。父は、その言葉に縛られて、三年間何もできなかった。……よくできた洗脳ね。感心するわ」
「なっ……!」
「でも、残念。私は父とは違うの。……脅しには、慣れてるのよ。前世で、散々やられてきたから」
……あ、しまった。「前世」って言っちゃった。まあ、こいつには何のことか分からないでしょうけど。
ダルトンの目が、細くなった。
「……お嬢様。あなたは、何も分かっていない。商会の会長がどれほどの力を持っているか——」
「ああ、その商会の会長ね。ゴルド商会の」
私は、わざと名前を口に出した。
ダルトンが、息を呑んだのが分かった。
「……な、なぜ、その名前を」
「帳簿に、何度も出てくるもの。『ゴルド商会への返済』『ゴルド商会よりの借り入れ』。……ねえダルトン。その商会との取引も、そのうち詳しく聞かせてもらうわ。楽しみにしてて」
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私は、懐から桐の箱を取り出した。蓋を開ける。青銅の印。
ダルトンの目が、見開かれた。
「こ、これは……領主の印……!? なぜ、お嬢様が……!」
「父から預かったわ。……正式にね」
私は、印を高く掲げた。
「ダルトン。私は今日から、父の名代として領主代理を務める。……つまり、あなたの上司よ」
「なっ……!」
「命令は一つ。……今後、領地の支出はすべて、私の決裁を通すこと。ダルトンの独断での支払いは、一切認めない。……もちろん、過去三年分の支出についても、領収書と証憑の提出を求めるわ。三日以内にね」
ダルトンが、机に手をついた。肩で息をしている。
……どう? この一手。帳簿の「試し」と、印の「権威」の二段構え。前世の監査で学んだわ。相手を追い詰める時は、証拠と権限を同時に見せるの。どっちか一つじゃ、逃げ道を作っちゃうから。
さあ、ダルトン。どう出る? 謝罪? 言い訳? それとも——
ダルトンが、ゆっくりと顔を上げた。
……笑っていた。
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「……ふ。ふふふ。なるほど。なるほどねえ、お嬢様」
背筋が、ぞくりとした。この笑い方。……前世で、横領がバレた課長が、最後に見せた笑い方だ。開き直りの笑い。
「お見事ですよ、お嬢様。十七歳にしては、上出来だ。……でもね」
ダルトンが、引き出しから一枚の紙を取り出した。私の前に、ぱさりと置く。
「これを、ご覧なさい」
……払い出しの記録。日付は、昨日。金額は、金貨百枚。名目は「領主私財よりの借り受け」。そして、受け取り人の欄には——私の名前。
「……これは」
「昨日、父上——侯爵様の私財から、金貨百枚が持ち出されました。受け取ったのは、お嬢様。あなたです」
ダルトンの笑みが、深くなった。
「金庫が空っぽなのは、ご存知のはず。その上で、日当だの麦の買い付けだのと金をばらまく。……その金、いったいどこから出したのです?」
「それは……!」
喉が、詰まった。……確かに、この金は父の私財。父が自ら渡したもの。でも、それを証明できるのは父だけ。……そして父は、今もダルトンを「怖がっている」。
「父上を脅して、私財を奪った。……いえ、もっと正確に言いましょうか」
ダルトンが、一歩前に出た。その目は、もう笑っていなかった。
「——お嬢様こそ、領地の金を横領していた。証人がいますよ」
第10話をお読みいただき、ありがとうございます。いよいよ管家ダルトンとの直接対決、第一ラウンド! 帳簿の改竄を突きつけ、領主の印で支出権限を押さえたエリザベート——のはずが、まさかの反撃。「横領していたのはお嬢様の方だ」と言い放つダルトン。その言う「証人」とは一体……? 次回、絶体絶命のピンチにどう立ち向かうのか、お楽しみに! 面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価をいただけると励みになります!




