赤字の帳簿
朝。蝋燭の燃えかすと、山のような帳簿に囲まれて目が覚めた。
「……首が、痛い」
前世で決算期に机で寝落ちした時と同じ痛みだ。経理部八年、机で寝るのは慣れっこだったけど、こっちのベッドはふかふかだったはずなのに。なんでわざわざ帳簿の上で寝たんだ、私。
「お嬢様! おはようございます——きゃっ!? お、お嬢様、そのお姿!?」
朝食を運んできたミリアが、悲鳴を上げた。髪はぼさぼさ、目の下には隈。鏡を見なくても、ゾンビのような顔をしている自覚はある。
「ミリア。いいか、これは『徹夜明けの経理の顔』っていうんだ。慣れてくれ」
「徹夜明けの……経理……?」
「うん。昨日言った帳簿だけど——」
私はぱらぱらと帳簿を繰りながら、昨夜の発見を整理する。
まず一つ。水路修繕費。三年で三倍。おかしい。領都の外を流れる水路は、昨日窓から見た限りでは干上がっていた。直した形跡なんて、どこにもない。
二つ。孤児院助成金。三年間、受領印の筆跡がまったく同じ。普通、担当者は変わる。変わらないのは……そもそも受け取った人が存在しない時だ。
三つ。総収入と総支出の差が、金庫の残高と合わない。消えた金の額は——農家一軒が十年働いても稼げない額だ。
「……ねえミリア。水路ってさ、最近直した?」
「水路、ですか? えっと……直っておりませんね。下流の村では、毎年水不足で困っていると聞きます」
「だよねぇ」
修繕費は三倍に膨らんだのに、水路は直っていない。消えた金の行き先は、火を見るより明らかだ。
承認印を押しているのは、管家のダルトン。ゲームの断罪イベントで、確か『領地の金を横領していた悪徳管家』として名前が出ていた。ゲームではエリザベートの罪に数えられていたけど——あれ、絶対こいつの単独犯だ。
……いや、単独かどうかはまだ分からない。横領の常習犯は、大抵どこかと繋がっている。金を抜くだけじゃなく、抜いた金をどこかに流す相手がいる。前世で見た粉飾のパターンだ。
「ミリア。ちょっと聞きたいんだけど——ダルトンって、王都の商人と付き合いある?」
ミリアの目が、ぱちくりと瞬いた。
「……よく、ご存じですね。王都のゴルド商会と、文通をされていると聞きます。夜中に馬車が出ることもあるとか」
ゴルド商会。王都の大商会だ。ゲームでは名前だけ出てきた気がする。領地の穀物を買い叩いていた、あの商会——
「ふぅん。夜中の馬車ねぇ」
前世の勘が、にやりと笑う。深夜の密会。金の受け渡し。古典的すぎて、逆に確信が持てる。
「お嬢様……まさか、ダルトン様を疑って——」
「疑ってるんじゃない。確信してる」
言い切った瞬間、書斎の扉がノックされた。
「お嬢様。朝食の後でよろしければ、執務のご相談が——」
バルトだ。初老の執事は、入ってくるなり山積みの帳簿を見て、目を丸くした。
「お、お嬢様。まさか一晩中、帳簿を……?」
「ええ。でね、バルト。聞きたいことがあるの。水路修繕費、三年で三倍になってるんだけど——水路、直った?」
バルトの表情が、一瞬で曇った。
「……直っておりません。ダルトン様がお取り仕切りで、わたくしどもには口出しできず——」
ほら、やっぱり。バルトも薄々気づいている。でも言えない。ダルトンは侯爵——つまり私の父親の信任が厚い。老執事は、忠誠と現実の間で黙ってきたんだ。
「バルト。あなたはこの屋敷で一番長く働いてるんでしょう? 領地のことを、一番知ってるんでしょう?」
「は、はぁ……」
「じゃあ、私の味方になって。ダルトンの嘘を、一つずつ暴いていくの。協力してくれる?」
バルトはしばらく黙って、それから深く頭を下げた。
「……お嬢様がそこまでおっしゃるなら。このバルト、命に代えても」
よし、一人確保。まずは屋敷の中に味方を作る。前世で学んだ鉄則だ——不正を暴く時は、まず内部に協力者を作れ。一人で突っ走ると、潰される。
前世の会社でもそうだった。営業部の部長が架空発注で裏金を作っていた時、最初に味方につけたのは、長年その部長に仕えてきたベテランの事務員さんだった。長くいる人ほど、嘘の匂いに気づいている。でも、一人では声を上げられない。だから、声を上げるきっかけを待っているんだ。
「バルト。一つだけ聞いていい? ダルトンは、いつからこの屋敷の金庫を握ってるの?」
「……かれこれ十年ほどになりますかな。侯爵様がご病気で伏せられた時期に、実務を一任されて以来——」
十年。十年もあれば、帳簿の改竄なんて朝飯前だ。しかも父親は病気を理由に実務を投げた。優柔不断というより、現実逃避だ。このままだと、侯爵家ごとダルトンに乗っ取られる。
「バルト。お父様は、ダルトンのことをどう思ってるの?」
「侯爵様は……ダルトン様を全面的に信頼しておいでです。わたくしが何か申し上げても、『ダルトンに任せておけば大丈夫だ』と——」
なるほど。父親は完全に取り込まれている。そりゃそうだ。十年かけて信頼を築いた相手を、娘の一言で疑うわけがない。父親を味方につけるには、動かぬ証拠がいる。
「分かった。じゃあ、証拠を掴むまで動かない。バルトは今まで通り、ダルトンに従順な執事でいて。いいね?」
「……承知いたしました。お嬢様のお考えがあってのことと、お察しします」
老執事の目に、久しぶりに光が戻った気がした。忠誠心はある。ただ、長い間、使い道がなかっただけだ。
昼過ぎ。私はミリアを連れて、屋敷の中を「散歩」した。表向きは、落馬後のリハビリ。実際は、使用人たちの噂話の収集だ。
洗濯場では、こんな話が聞けた。
「ダルトン様のお部屋、最近は鍵がかかってるんですって。昔は開けっ放しだったのに」
「王都からの手紙が、月に何通も届くのよ。ゴルド商会の封蝋だって、料理番のトムが言ってた」
馬丁の詰め所では、こんな話も。
「夜中の馬車? ああ、先週も出たよ。ダルトン様が直々に乗り込んで、明け方に戻ってきた。荷台には何も積んでなかったけどね」
……何も積んでいない荷台で、明け方に戻る。行きは空っぽで、帰りも空っぽ。なら、何をしに行ったのか。答えは一つ——金の受け渡しだ。荷物じゃなく、金を運んだんだ。
前世の経理部で、私は何度もこういう話を聞いた。架空の修繕費を計上して現金を抜き、夜中に業者と山分けする。古典的なスキームだ。古典的だからこそ、証拠が残る。
「ミリア。あんた、耳がいいね」
「えへへ。メイドの嗅覚ってやつです」
ミリアは得意げに胸を張った。十八歳。機転が利いて、度胸もある。この子は使える。いや——味方にしたい。
夕方。書斎に戻ると、バルトが渋い顔で待っていた。
「お嬢様……ダルトン様が、帳簿の閲覧をおやめになるよう、侯爵様に進言されたそうです」
「は? 私が帳簿を見るのが、なんでダメなのよ」
「『お嬢様は数字などご覧にならない。落馬の衝撃でおかしくなられたのでは』と……」
ははーん。来た来た。牽制だ。私が帳簿を漁っていることに、ダルトンが気づいた。で、父親を使って止めさせようってわけ。
でもね、ダルトン。あんたのその焦りが、何よりの証拠だよ。やましいことがなきゃ、止める必要なんてないんだから。
「で、お父様はなんて?」
「侯爵様は……『娘の好きにさせてやれ』と。ダルトン様は、あまりいい顔をされませんでしたが」
おっ。父親、意外と分かってる? いや、違うな。元のエリザベートの父親は、優柔不断で管家に丸投げの人だ。たぶん「面倒だから」で流しただけだ。でも、結果オーライ。
「そう。じゃあ、遠慮なく続けるわ」
……夜。十一時を回った頃。ミリアがそっと私の部屋に来た。
「お嬢様。厩舎の方で、馬車の音がします」
窓から中庭を見下ろす。月明かりの中、一台の馬車が厩舎の陰に停まっていた。フードを被った男が、ダルトンと何かを受け渡している。袋だ。ずっしりと重そうな、小さな袋。
金の袋——そうとしか見えない。
「ミリア。あのフードの男、見覚えある?」
「……ゴルド商会の紋章のついた外套を、以前見たことがあります」
やっぱり。ゴルド商会。王都の大商会と、我が家の管家が、深夜に金の袋を受け渡す。領地の金が、王都に流れている。領地を食い物にしているのは、ダルトン一人じゃなかった。
断罪まであと二年。敵の顔が、少しずつ見えてきた。
さあ、次はミリアだ。この子を本当の味方につける。孤児院の話も、聞かせてもらわなきゃ——
第2話をお読みいただき、ありがとうございます。帳簿の数字を追っていたら、管家の嘘と王都の商会の影が見えてきました。エリザベートの戦いは、まだ始まったばかりです。面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価をいただけると嬉しいです。皆さんの応援が、エリザベートの改革の力になります。次回は、侍女ミリアの秘密に迫ります。お楽しみに!




