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第4話 滝の記憶、すれ違い



マイカは、二人の姿を追って遊歩道を歩いた。

石段を上がった先に、小さなカフェがあった。


白い壁に、白いパラソル。

湖を見渡せるテラスには、五月の柔らかな風が通り抜けている。


二人は、湖の見える席に座っていた。

マイカが近づくと、女性が顔を上げた。


「あら……?」


マイカは少し緊張しながら、頭を下げる。

「お久しぶりです。ナルミ君のお母さん。マイカです。中学の同級生の」


一瞬、女性は目を見開いた。


「まあ……マイカちゃん?」


「はい」


「こんなに大きくなって……」


思わず、マイカも笑ってしまう。


「もう二十五歳ですから」


「そうよねえ。私の中では、まだ中学生の印象が残ってるもの」


隣の男性も、穏やかに笑った。

「本当に久しぶりなんだね」


「はい。学校以来です」


「そうか」


男性はそう言って、柔らかく微笑んだ。

「せっかくだから、座っていったら?」


「あ……はい。ありがとうございます」


マイカは二人の向かいに座った。


注文した紅茶が運ばれてくる。

白いカップから、細い湯気が立ち上っていた。


「ナルミはねえ、本当に元気な子だったのよ」


母親が懐かしそうに言った。

「学校でも、よく騒いでたでしょう?」


「はい」


マイカはうなずく。

「サッカーばっかりしてました」


「そうでしょうね」


母親が笑う。


「家に帰ってきても、泥だらけでね。何度、服を洗ったか分からないわ」


「分かります」


マイカも笑った。

「学校でも、いつも走り回ってました」


「でしょう?」


母親の顔が、少し嬉しそうに緩む。

「友達も多かったし。あの子がいると、家の中まで明るくなるような子だったわ」


「……はい」


マイカは紅茶を一口飲んだ。


しばらく、ナルミの昔の話が続いた。

サッカーのこと。

学校での悪ふざけ。

家に帰ってくるなり、お腹が空いたと言っていたこと。


どれも、マイカの知っているナルミと重なっていた。


「……あの子、今頃どうしてるのかしらね」


母親が、ぽつりと言った。

マイカは顔を上げる。

母親は湖を見ていた。


「私はね」


少しだけ間を置いてから、静かに続ける。

「あの子は、まだどこかで生きてるような気がするの」


その声には、悲しさよりも穏やかな願いがあった。


「この滝の向こうの森でね。霧が濃くて、昔はあの森を抜けると家への近道だったの。あの日あそこにナルミはいたような気がするの」


母親は、遠くを見るように目を細める。


「だから、もしかしたら今もどこかで……なんてね」


マイカは何も言わなかった。

ただ、その言葉を静かに聞いていた。


やがて母親が、マイカの顔を見る。

「マイカちゃんは、最近どうなの?」


「私ですか?」


「ええ。結婚とか」


「あ……」


マイカは少しだけ困ったように笑った。

「実は、挙式の直前で中止になりました」


「まあ……」


「彼が、私の友達と浮気してたらしくて」


母親の表情が変わった。

「で、恋人と親友をいっぺんに失いました」


「………なんなのそいつ、そんな男呪ってやんなさいよ」


剣呑な様子でナルミ君のお母さんが言い放つ。


「いや、呪うのは駄目だよ」


隣の男性が、苦笑しながら言った。


「でも、あんまりじゃない……!」


「それはそうだけど……」


二人のやり取りを見ていたマイカは、思わず吹き出した。

「ふふっ……」


「どうしたの?」


「いえ……」


マイカは笑いながら首を振った。


「なんでもないです」


母親もつられるように笑った。

少しして、男性がマイカを見る。


「しかし、見る目がないねその男は、こんな素敵なお嬢さんをねえ」


「本当にね」


母親も頷く。


「でも良かったじゃない、マイカちゃん、結婚前にそんな男だって判って。その彼、結婚してからも絶対何か問題あるのよ」


「ありがとうございます」


マイカはなんだか嬉しくなって、笑いながら、小さく頭を下げた。


その言葉が、今の自分には思っていた以上に嬉しかった。

誰かに味方してほしかったのかもしれない。

自分は間違っていなかったと、ただ言ってほしかったのかもしれない。


マイカは紅茶のカップを両手で包んだ。


*


破談にまつわるデリケートな話を重ねるうち、いつしか互いを労わるような穏やかな雰囲気になり、自然と、湖の底にいるナルミの話題へと移っていった。


しばらくして、母親が静かに話し始めた。


「ナルミがいなくなってからね。私、一人であの子を育てていたでしょう?」


「……はい」


「夫が亡くなってからは、何をするにも一人で決めなきゃいけなくて」


母親は、少しだけ笑った。

「だから、この人には本当にいろいろ相談したの」


隣の男性が黙って頷く。


「ナルミのことも。学校のこととかね」


「……そうだったんですね」


「ええ」


母親は湖を見る。

「夫が亡くなる前に、この人に頼んだらしいの」


「頼んでいた?」


「私とナルミのことを、頼むって」


男性が、静かに続けた。

「病院でね。あいつがそう言ったんだ」


「……」


「だから、俺にできることはしてやりたかった」


母親は小さく頷いた。

「私も、それに甘えていたんだと思うわ」


「甘えていた?」


「一人で全部抱えるのが、怖かったのよ」


母親は、ほんの少しだけ笑った。

「子どもを育てるって、大変だから」


その言葉に、マイカは黙って耳を傾けた。


「それに……私、ずっと夫を忘れたわけじゃないの」


「はい」


「でも、時間は過ぎていくでしょう?」


母親は湖を見つめたまま言った。

「ナルミが大きくなっていくのを見ながら、私も生きていかなきゃいけなかった」


その言葉は、とても静かだった。


「だから……一緒にいてくれる人がいることを、ありがたいと思ったの」


「はい」


マイカは、ゆっくり頷いた。


それは、裏切りなんかではなかった。

誰かを忘れたからでもない。


ただ、残された人が、その先も生きていくために必要だったものなのだ。


ふと湖の向こうを見る。

滝へ続く森。


その先に、ナルミ君はいる。

十四歳のまま、あの日から動けずにいる少年。


――ナルミ君は、知らなかったんだ。


夫を失った女性の悲しみも。

一人で子どもを育てていた母親の不安も。

その母親を支えていた人のことも。


ただ、自分の大切なものが、全部失くなってしまうように思えたのだ。


「……ありがとうございました。今日お話できてよかったです」


マイカが言うと、母親は優しく微笑んだ。

「こちらこそ。昔のナルミの話ができて、嬉しかったわ」


「私もです」


マイカは立ち上がった。

「また、どこかでお会いできたら」


「ええ」


二人に頭を下げて、マイカはカフェを出た。

石段を下りながら、湖のほうを見る。


赤レンガの廃墟が、木々の向こうに小さく見える。


マイカは、そこへ戻っていった。


*


「白石」


ナルミ君が顔を上げる。


「どうだった?」


「うん」


マイカは、ナルミの隣に腰を下ろした。

「お母さんと、少し話してきた」


「……母さん、元気だった?」


「うん。元気だったよ」


ナルミは、少しだけ安心したような顔をした。


マイカは、ゆっくり話し始めた。


お母さんが、ナルミのことを今でも大切に思っていること。

昔のナルミの話をすると、嬉しそうに笑っていたこと。


そして、父親が亡くなったあと、一人でナルミを育てて心細かったこと。


「……一人だったんだな」


「うん」


「母さんが?」


「そう」


ナルミは黙った。

マイカは続けた。


「お母さん、お父さんを忘れてたわけじゃないよ」


「……」


「でも、ナルミ君を育てながら、自分も生きていかなきゃいけなかったんだと思う」


「……そうか」


それだけだった。

けれど、その声には、少しだけ力が抜けていた。


「あのおじさんも、ナルミ君のお父さんに頼まれてたんだって」


「……俺たちのことを?」


「うん」


ナルミはしばらく何も言わなかった。

やがて、小さく息を吐く。


「……俺、勘違いしてたのかな」


「たぶん」


マイカは、すぐには言葉を足さなかった。


「誰かが悪かったんじゃなくて」


ナルミが呟く。

「……俺が、何も知らなかっただけなのかも」


「うん」


マイカは静かに頷いた。

「十四歳じゃ、分からないこともあるよ」


ナルミは少しだけ笑った。


「白石も、分かんないことあるじゃん」


「あるわよ」


「だろ?」


「当たり前でしょ、私だってまだ若いんだよ」


二人の間に、少しだけいつもの空気が戻った。


マイカは、赤レンガの遺構を見渡した。

この、少し神秘的な場所は、彼を閉じ込めていた檻だったのだろうか。


それとも――。


あの日。何もかもが変わってしまうのが怖くて。

この先へ進みたくないと、十四歳の彼が強く願ったその願いを、ここがそっと受け止めていたのだとしたら。


ナルミ君の心が壊れないよう、時を止めて守ってくれたのだとしたら。


だから、時間が止まり、彼はここから出られなかった。


そして今年、同じように「消えてしまいたい」と深く願った私の心と共鳴して、この結界の扉が開いた……。


そんなふうにも、マイカには思えた。

もちろん、本当のことは分からない。


けれど。


ナルミはもう、あの日のことを思い出した。

母親の気持ちも、少しずつ分かり始めている。


ならば――。


この場所に留まり続ける理由も、少しずつ変わっていくのかもしれない。


夕方になるにつれて、湖の色がゆっくりと変わっていく。

淡い夕暮れの光が差していた。


その中に、二人の小さな影がある。

大人になったマイカと。

十四歳のままのナルミ。


静かな湖と、滝へ続く森。


その景色を包むように、夕暮れが少しずつ深くなっていった。


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