第5話 光と伴に
初夏の光と伴に、やがて梅雨へ向かう狭間。
朝から、湖は凪いでいた。
そして、水面は満ちていく。
ひと月という時間そのものが、密やかに終わろうとしている。
遠くに見える森の木々。
新緑の葉が、夕方の光を受けて揺れている。
「白石」
「なに?」
ナルミは森を、見つめながらぽつりと言った。
「母さん、今幸せかな」
一緒に森の方向を見つめていたマイカが、振り向きゆっくりと頷く。
「うん」
「そうか」
ナルミはしばらく黙っていた。
森の向こうから、風が吹いてくる。
やがて、ナルミは小さく息を吐いた。
「……変な感じだな」
「何が?」
ナルミは湖へ目を戻した。
「俺、これまでずっと、ここでのひと月が早く終わればいいと思ってたんだ」
マイカはナルミを見る。
「だって、ずっとここにいるの、嫌だったから、早く終わって、ちゃんとどっか行きたかったんだ」
そう言って、少し笑った。
けれど、その笑みはすぐに水面へ落ちた。
「なのにさ」
「うん」
「終わるって分かったら……」
ナルミの靴先が、岸の砂をそっと擦る。
「もう少しいてもよかったなって思う」
湖を見つめたまま続けた。
「白石と話したり、飯食ったり、くだらないことで笑ったり……」
そこで言葉が途切れる。
「……もうちょい、あってもよかった」
「……そっか」
「……俺、白石といられるの今日が最後だと思う」
「わかるの?」
ナルミは小さく頷いた。
「うん、もう無理っぽい」
少し黙り、やがて、ほとんど独り言のように言った。
「でも、よかった」
「え?」
「俺さ……中学の頃、白石のことがなんか気になってたんだ」
マイカは黙ってナルミを見る。
「会えると嬉しかったり、もっと話したいと思ったりしてさ、なんでこんな気持ちになるんだろうって、自分でもよく分かんなかった」
ナルミは一度、目を伏せた。
「ここで白石と会って……やっと分かった」
それからまっすぐマイカの目を見て。
「……あの頃のあれ、あれがたぶん『恋』っていうもんなのかなって」
マイカの胸の奥が、キュンと鳴る。
「あの頃は、よくわかんなかった感情だった」
ナルミ君は照れくさそうに笑った。
「……でも、俺がちゃんと大人になってたらさ、すげぇいい男になって、白石にプロポーズする未来もあったかもしれないな」
「え?」
マイカは目を瞬く。
「白石はちょっと損したな」
「……ふふ」
マイカの口から、小さな笑いがこぼれた。
25歳のマイカからみると、照れながらのその少年の告白は、ずいぶん可愛く思えて。
「でも、私も、中学の時ナルミ君のことかっこいいって思ってたよ」
「マジ?」
「足速かったし」
「なんだ、そりゃ」
「リレーとかさ、ぶっちぎりだったじゃん」
「そこか」
「輝いてた」
「……ありがとな、白石」
ちょっとだけ、むくれて笑う。
「だから、このひと月で俺ちゃんと考えた」
「何を?」
ナルミは一度だけ湖を振り返った。
水面の光が、彼の頬を横切る。
「誰のことも好きになれない人生なんて……きっと、つまんないよ」
「うん」
「誰かと恋して、結婚して……普通に年取ってさ」
「………うん」
「だから、もし本当に生まれ変われるなら……今度は、ちゃんとそういうの経験したい」
マイカはただ、その言葉を胸の奥にしまう。
湖面に細かな波紋が広がり、ナルミの髪が揺れる。
夕暮れの中で、その輪郭がだんだんと薄れつつあった。
ナルミは言葉を探すように、少しだけ目を伏せた。
声が途切れる。
マイカは一歩、ナルミへ近づきかけた。
けれど、足は止まる。
湖を背に石段の上に立つその姿は、沈みかけた夕暮れの向こうで、今にも湖の景色に溶けていきそうだった。
それでも、言葉を選びながら、彼は懸命に何かを伝えようとしている顔だった。
「マイカ」
たった一度だけ、彼はその名前を呼んだ。
「傷ついても、誰も好きにならないより、ずっといいと思う」
「……!」
「誰かを好きになった時間は、宝物だ。………ちゃんと怒って、ちゃんと泣けよ。……そんで、ご飯たくさん食べて、普通に生きろ」
涙で視界が滲む。
「ナルミ君……!」
「……じゃあな、白石」
マイカはとっさに手を伸ばしながら、大きな声で叫んだ。
「ここでの時間、私の宝物だった!」
視界が滲む。
「……ずっと忘れない!」
その瞬間。
夕日に照らされた古い赤レンガの壁が、じんわりと温かな色を帯びた。
ひび割れた隙間から、まるでナルミの旅立ちをそっと見守るかのように、淡い光の粒がいくつも、いくつも溢れ出す。
それは、十四歳の彼の心をずっと閉じ込め、大切に守り続けてくれたこの場所からの、最後の贈り物のようだった。
光の粒は優しい風になって、ナルミの身体をそっと包み込み、空へと押し上げていく。
ナルミは最後、嬉しそうに笑った。
そして、光に満ちた遺構から――
ゆっくりと、溶け。
やがて、消えた。
*
ああ、どうか
この先、どこかで転生して。
まっさらな人生が彼に訪れますように。
マイカは静かに祈った。
* * *
六月になり、雨が降った。
五月の間だけ、その姿を見せていた赤レンガの建物も、少しずつ水の底へと沈んでいく。
一部、梅雨に入る頃には、完全に見えなくなった。
湖面には、今何もない。
ただ、風が吹けば、小さな波が光を弾くだけ。
それからマイカは、故郷を離れた。
あのひと月を胸の奥にしまったまま、前に進むために。
うまくいくかは分からない。
また迷うかもしれない。
それでも。
誰かを好きになることも。
誰かと笑うことも。
何かを始めることも。
もう、怖がらなくていいような気がした。
誰かを愛した時間が、いつか終わることがあったとしても。
その時間まで消えてしまうわけではない。
あのひと月、ナルミが教えてくれたこと。
*
そして、一年後。
五月。
山の緑は、また濃くなっていた。
雪解けの水や春の雨が山を下り、初夏を迎え、その年も月の始めが近づくころになると、水位が少しずつ下がり始めた。
湖の奥から、赤いものが覗いている。
水面から現れたのは、古びた赤レンガの壁だった。
去年と同じように。
ひっそりと。
何事もなかったように、そこに佇んでいる。
マイカは岸辺に立って、それを見つめていた。
風が吹く。
新緑の森が揺れる。
湖面に散った光が、きらきらと遠くまで続いている。
「……ナルミ君」
小さく名前を呼んだ。
返事はない。
季節はまた巡る。
水は満ち、また引き。
森は芽吹き。
光は何度でも湖面に降り注ぐ。
マイカは、もう一度だけ遺構を見つめ、それから、ゆっくりと歩き出した。
広い湖と、豊かな森と、初夏の空の中に、風に吹かれて歩いていく。
向こうには、どこまでも続く青い空がある。
夏の光だけは、いつまでも湖の上に残っていた。
(Fin)




