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第3話 結界の綻びと、母の影


五月も半ばを過ぎる頃には、湖畔へ向かうことは、マイカにとってすっかり日課になっていた。


最初は、彼に会うために来ていた。

けれど今では、ここへ来て、湖を眺めながら話す時間そのものが、少しずつ日常になっている。


その日も、二人は取り留めのない話をしていた。


学校のこと。

昔の町のこと。

彼が覚えている、くだらない友達との悪ふざけ。マイカが知らない十一年間の話を彼は知らない。


けれど、そんなことも今では不思議と気にならなかった。


「白石、ちょっと元気になったじゃん」

「そう?」

「うん。最初に会ったとき、もっと怖い顔してた」

「……失礼ね」

「だって、すげえ暗かったし」

「ナルミ君……」

「今は普通」

「それ、褒めてる?」

「たぶん」

「たぶんって何よ」

そんなやり取りに、二人で笑う。



――そんな穏やかな日が、何日か続いていた。


その日も、湖畔へ向かう途中だった。

マイカはふと、滝へ続く遊歩道の先に人影を見つけた。

一人は、五十歳くらいの女性だった。

淡い色の服を着て、長い髪をきちんとまとめている。年齢を感じさせない、というよりも。

年齢を重ねたからこそ出る、落ち着いた美しさがあった。


その隣を、一人の男性が歩いている。

女性に合わせるように、少し歩幅を落として。

何か話しかけては、穏やかに笑っている。


二人の距離は近かった。

けれど、馴れ馴れしいという感じではない。

長い時間を一緒に過ごしてきた大人の、静かな空気感があった。


マイカは、なぜか足を止めた。

「……あの人」

隣にいたナルミも、同じ方向を見ていた。


そして――


ナルミの顔から、笑顔が消えた。

「……母さん?」

その声は、さっきまでとはまるで違っていた。


十四歳の少年が、何年も会っていなかった母親を呼ぶ声だった。


マイカはナルミを見る。

「……お母さん?」


ナルミは答えなかった。

ただ、女性の姿を見つめている。


そして、その隣にいる男性へ視線が移った瞬間。

空気が変わった。


湖畔の景色が、ぐにゃりと歪んだ。


「……っ」


彼が一歩、後ろへ下がる。


「ナルミ君?」

足元の地面が揺れたように見えた。

いや。

揺れているのは地面ではない。


ナルミを囲んでいる、あの見えない境界そのものだった。


空間が波打つ。

遠くにいる母親の姿が、一瞬だけ滲んだ。


そして――


ナルミの中に、忘れていた景色が流れ込んできた。


父親が病院にいた頃。

まだ八歳だったナルミは、病室の椅子に座っていた。


白いシーツ。

消毒液の匂い。

窓から差し込む午後の光。

ベッドの上の父親は、以前よりずっと痩せていた。

その横には、父親の親友がいた。


「後は頼む」

父親が、静かに言った。


「分かってるよ」


「俺がいなくなったあと、彼女一人じゃ大変だろうから」

「そんなこと言うなよ」

「いや。分かってるんだ」


少し間を置いて。

「俺に何かあったら、あの二人を頼む」

その言葉の意味を、八歳のナルミはまだよく分かっていなかった。


ただ。


父親の友達が、黙って頷いていたことだけを覚えている。




* * *



父親が亡くなったあと。

その男性は、ときどき家に来るようになった。


母親の様子を見に来たり。

何か壊れたものを直してくれたり。

ナルミに声をかけたり。

ナルミにとって、嫌いな人ではなかった。

父親の親友。

それだけだった。


けれど。


十四歳にもなると、少しずつ変わっていった。

ある日の夕方。

玄関を開けると、いつものように男性がいた。

「おかえり、ナルミ」

「……ただいま」

「学校、どうだった?」

「普通」

「友達とは仲良くやってるのか?」

「まあ」

「サッカーは?」

「普通に」

男性は少し笑った。


「この前、試合で点取ったんだって?」

ナルミが顔を上げる。

「……なんで知ってんの」

「お母さんから聞いたよ」

「ふーん」


ナルミは靴を脱ぎながら、少しだけ顔をしかめた。


「おじさん、いちいち聞かなくてもいいじゃん」

「そうか?」

「俺、もう子どもじゃないし」

「そうだな。もう十四歳だもんな」

「……そうだよ」

「学校だって普通に楽しいし」

「そうか」

「友達もいるし」

「うん」

「サッカーもやってる」

「うん」


ナルミは少し間を置いて、

「だから、大丈夫」

そう言った。


男性は、少しだけ笑った。

「……そっか、じゃあ、安心した」


ナルミは振り返らなかった。

そのときは、それだけだった。


ーー少し鬱陶しい

それだけ。


父親の友達だから嫌いになれないし、母親に何かしてくれてることも分かっている。

だからこそ。自分でも、どうしてこんなに苛立つのか、よく分からなかった。


そして――あの日。


前日に雨が降っていた。

森の中は、まだ水を含んでいた。

木々の葉から、ぽた、ぽた、と雫が落ちている。


地面は柔らかく湿っていて、靴の裏に泥がまとわりついた。滝へ続く道に入ると、町の音は急に遠くなった。


鳥の声も。人の声も。


ただ、どこか遠くから水の音だけが聞こえていた。

ナルミは、そこで聞いてしまった。

母親と、父親の友人の声。


「……もう、ナルミも十四歳だから」

母親の声だった。

「そうだな」

「この先のことも、ちゃんと考えなきゃ」

「うん」

何の話をしているのか。

全部は聞き取れなかった。


けれど。

そのあとに続いた言葉だけは、はっきり聞こえた。


『一緒になろうか』


ナルミの足が止まった。

胸の奥が、ひどく冷たくなった。

――一緒に?

母さんと。

おじさんが?

どうして。


父さんが死んで、まだそんなに経っていないのに。

いや。もう何年も経っている。

それなのに。

ナルミの中では、父親がいなくなった時間だけが、まだそこに残っていた。


父さんを忘れるの?

母さんまで。

おじさんまで。

二人とも、父さんのことをなかったことにするの?

頭の中がぐちゃぐちゃになった。



気がつけば走っていた。


「ナルミ!」

母親の声がした。


けれど、振り返らなかった。


雨上がりの木々が、左右から覆いかぶさるように迫ってくる。


湿った土の匂いが、鼻の奥に残る。

足元には、雨を吸った落ち葉が重なっていた。

踏みしめるたびに、ぐしゃ、と沈む。


「はっ……はっ……」


息が苦しい。

視界が細かく揺れる。


木々の隙間から見えていた空も、すぐに遠ざかっていく。代わりに、白い霧が少しずつ濃くなっていった。


滝が近づいている。

遠くで聞こえていた水音が、少しずつ大きくなる。


ゴォォォ……。

低く、絶え間ない音。


白い霧が、木々の間を流れてくる。

前が見えにくい。

それでも、足を止めることができなかった。


「母さん……!」

呼んでも、返事はない。

もう一度、呼ぼうとした。


そのときだった。

足元の土が崩れた。


「――っ!」


身体が前へ投げ出される。


「母さん――!」

次の瞬間。


白い霧の中へ。

身体が、落ちていった。



* * *




「――っ、は……!」



ナルミは激しく息を吸った。

目の前の景色が戻ってくる。


湖。

赤煉瓦の遺構。

五月の光。


そして、目の前にしゃがみ込んでいるマイカ。

「ナルミ君……?」


ナルミは答えなかった。

まだ、呼吸がうまくできない。

額に手を当てて、目を閉じる。


「……思い出した」


「え?」


ナルミはしばらく黙っていた。

頭の中に、さっきまで見えていた景色が、途切れ途切れに浮かんでいる。


雨上がりの森。

白い霧。

滝の音。

そして――母親の声。


「……俺、滝に落ちたんだ」


マイカが息をのむ。

ナルミは、まるで自分自身に確かめるように続けた。

「あの日……足を滑らせて」

「……うん」

「森の中で、偶然……母さんと、あのおじさんが話してるのを聞いたんだ」


そこで、言葉が止まる。

ナルミは眉を寄せた。


「……何の話だったっけ」

しばらく考える。


そして、ぽつりと。

「……再婚するって、話」


マイカは何も言わない。


ナルミの記憶が、少しずつつながっていく。

「俺……それ聞いて」

喉が詰まる。

「なんか、頭が真っ白になって……」

一度、息を吸う。

「気づいたら、夢中で走ってた」

「……」

「母さんが呼んでた気がする。でも、振り返れなくて」


ナルミは自分の手を見る。

その手が、わずかに震えている。

「それで……滝の近くまで行って」

「足、滑らせて……」


そこまで言って、ナルミは顔を上げた。


「俺……あそこで、いなくなったんだな」

その言葉だけが、静かに湖畔へ落ちた。


マイカは、すぐには返事をしなかった。

ナルミが何を思い、何を誤解していたのか。

マイカには分からない。


ただ。

この少年が、長いあいだ自分でも思い出せなかった「あの日」に、ようやく辿り着いたことだけは分かった。




* * *



ナルミは俯いた。


「……おじさんが、嫌いだったわけじゃないんだ」

ぽつりとこぼす。

「ほんとは、いい人だったし」


マイカは黙って聞いていた。


「二人して……父さんを裏切ったみたいに思えちゃって……」

ナルミは、言葉を探すように少し間を置いた。

「……頭が真っ白になって……走ってた」


マイカは何も言わなかった。

ただ、そばにいた。

今の彼には、それで十分なのだと思った。


しばらくして、マイカは湖の向こうを見る。

先ほどの女性――ナルミの母親が、まだ遊歩道を歩いている。その隣には、あの男性がいる。


マイカは立ち上がった。


「ナルミ君」

「……ん?」

「私が、お母さんの様子を近くで見てくるよ」

ナルミが顔を上げる。

「……白石が?」

「うん」

「なんで?」

「なんでって、気になるから」

マイカは小さく笑った。


「ナルミ君は、ここにいて」

彼は少し迷ってから、頷いた。

「……分かった」


マイカは、二人の姿が見えるほうへ歩き出した。


遠くで、滝の水音が響いている。

赤煉瓦の建物は、五月の光の中で静かに佇んでいる。


風が静かに吹き抜けていく。



まるで、長いあいだ止まっていた時間を、そっと動かすように。

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