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第2話 十四歳のまま

翌日。


マイカは、また湖へ向かっていた。

昨日のことが、まだ夢のように思える。


あの場所へ行けば、本当にナルミ君がいるのだろうか。


そんなことを考えながら、昨日より少しだけ軽い足取りで坂道を下っていく。


手には、途中のコンビニで買ったお菓子と飲み物。

昨日は何も持っていなかったけれど。

今日は、少しだけ持ってきた。


木々の向こうが開ける。

湖は昨日と同じように、五月の光を受けて静かに輝いていた。


そして――


「お、白石」


(やっぱり、いた)


赤レンガの遺構のそばで、ナルミ君が手を上げる。

白いシャツに黒いズボン。

昨日と何も変わらない姿。


「……本当にいる」


思わず、マイカは呟いた。


「何それ」


「ううん。なんでもない」


「変な白石」


彼が笑う。


その笑顔を見ていると、昨日の出来事が少しずつ現実になっていく気がした。


「はい」


マイカは持っていた袋を差し出した。


「これ、食べる?」


「お、いいの?」


「ナルミ君のために買ってきたんだから」


「じゃ、遠慮なく」


ナルミは嬉しそうに袋を受け取った。


その様子が、あまりにも普通だった。


十数年前に突然いなくなった少年と。

その少年が消えたあと、大人になった自分。


本来なら、絶対に交わるはずのなかった二人が。

こうして湖畔で、お菓子を分け合っている。


なんだか、おかしかった。


「白石、それ」


ナルミが、マイカの手元を覗き込む。


「スマホ?」


「うん」


「前より大きくない?」


「そう?」


「画面、すげえ綺麗」


「今はこれくらい普通だよ」


「へえ」


ナルミ君は興味深そうに画面を見る。

動画を開くと、滑らかな映像が流れた。


「動画もこんな綺麗だったっけ?」


「昔よりは、ずいぶん進化してると思う」


「そっか」


画面を眺めながら、少しだけ感心したように目を丸くする。


マイカはふと思う。


自分たちは、平成に生まれて、スマートフォンも、インターネットも、子どもの頃から身近にあるもの。


だけど、そんな当たり前にある物も十一年の間に少しずつ姿を変えて、気付いたらずっと洗練されている。


そんな小さな変化を、ナルミ君は知らない。


「……あ」


画面を指差し、首を傾げる。


「これ、何?」


ニュースの見出しだった。

マイカも画面を見る。


「ん?」


「日本の総理って、女の人なの?」


「ああ……うん。今はそうだよ」


「えっ?」


ナルミが目を瞬かせる。


「そうなの?」


「うん」


「へえ……」


ナルミは、もう一度画面を見る。


「前と違うんだな」


「そりゃそうだよ。十一年も経ってるんだから」


「……ああ、そうだよな」


ナルミが、少しだけ黙った。

それから、ふっと笑う。


「そっか。十一年か」


その言葉を聞いた瞬間。

マイカの胸の奥が、少しだけ痛んだ。


世界は、ちゃんと進んでいる。

街も。

スマートフォンも。

政治も。

いろんなものが変わっていく。


なのに――


(世界はこんなに変わったのに、私は……)


そこで、言葉が止まった。


ナルミが、マイカを見る。


「白石?」


「……ねえ、ナルミ君」


「ん?」


「私ね」


マイカは、湖を見た。


「結婚するはずだったの」


「へえ」


「式場も決めてたし。ドレスも選んでた」


「うん」


「家具も一緒に見に行ってた」


「へえ」


「友達も、ずっと応援してくれてて」


ナルミは黙って聞いている。


「『大丈夫だよ』って」


「うん」


「『マイカなら絶対幸せになれるよ』って」


「うん」


「何度も相談に乗ってくれて」


「うん」


「それなのに――」


マイカの声が、少し震えた。


「その親友と、彼が浮気してたの!」


「……え」


ナルミが固まった。


「よりによって、私が一番信じてた二人が!」


「うわ……」


「しかも、私は何も知らずに相談してたのよ!」


「うわ……」


「『彼とうまくいかなくて』って!」


「それは……だいぶエグいな」


ナルミ君が眉をしかめる。


「絶対地獄に落ちるなそいつら」


「……え?」


「白石の彼氏、取ったんだろ?」


「……まあ、そうだけど」


「親友だろ?」


「そうよ!」


「そいつら泥棒じゃん!」


マイカは、思わず吹き出した。


「――泥棒って……」


「だってそうじゃん、白石の大事な時間を……!」


ナルミは真顔だった。


「そんな最低な奴ら、こっちから願い下げだよ!」


「……!」


胸の奥に、何かが落ちた。


今まで、誰かにそんなふうに言ってほしかったのかもしれない。


「……そうよ」


マイカは、少しずつ声を大きくした。


「私だって、悪くないもの!」


「うん」


「私、ちゃんと彼のこと好きだったし!」


「うん」


「友達のことだって、本当に大切にしてた!」


「うん」


「なのに……なのに……!」


涙が出そうになって、マイカは顔を上げた。


「一生呪ってやる!」


「おお!」


ナルミ君が目を輝かせた。


「呪え!」


「……」


「……いや、やっぱ呪うのは駄目だな、うん」


「どっちよ!」


思わず声が大きくなる。


次の瞬間。

二人とも、吹き出した。


笑ってしまった。

こんなに笑ったのは、いつ以来だろう。


マイカは目尻の涙を指で拭った。

泣いているのか、笑っているのか、自分でも分からない。


「……私、すごく怒ってたんだ」


ぽつりと呟く。


「うん」


「でも、怒っちゃいけないと思ってた」


「なんで?」


「だって……もう終わったことだし」


「でも、嫌だったんだろ?」


「……うん 」


「じゃあ、怒っていいじゃん」


ナルミ君は、それが当たり前のことみたいに言った。


マイカは少し黙った。

そして、小さく笑う。


「……そっか」


胸の奥にずっと溜まっていたものが、少しずつほどけていく。


誰かを恨み続けたいわけじゃない。

ただ、自分が傷ついたことを。

悔しかったことを。

ちゃんと「嫌だった」と言いたかったのだ。

それだけだったのかもしれない。


湖の水面を、風が静かに撫でていく。

しばらく二人で黙っていた。


やがてナルミ君が、ぽつりと言った。


「俺もさ」


「なに?」


「もう一回、十四歳からやり直したかったんだ」


マイカは彼を見る。

いつもの明るい顔ではなかった。

少し遠くを見るような目をしている。


「もっとサッカーやりたかったし」


「うん」


「好きな子ができて、付き合ったりとか」


「うん」


「そのうち結婚して」


「……うん」


「子どもとかも、できたりして」


ナルミは少し照れたように笑った。


「そういうの、これからだったのに」


その思い出が、マイカの胸に静かに響いた。


『これから』


その時間を彼は失ってしまったのだ。


自分もまた、少し前まではそう思っていた。

結婚して。

その先にある人生を歩いていく。

そう信じていた。


けれど、全部なくなったと思っていた。


「……私も」


マイカは、湖を見ながら言った。


「人生を、やり直したいな」


ナルミがこちらを見る。


「できるよ」


「……え?」


「白石なら」


あまりにも簡単に言うから。

マイカは、思わず笑ってしまった。


「……ナルミ君って、ほんと適当」


「なんでだよ」


「だって、そんな簡単に言うんだもの」


「簡単じゃないよ」


ナルミは少し考えてから言った。


「でも、まだこれからだろ?」


その言葉に、マイカは答えなかった。

ただ、湖の向こうを見つめた。


夕方の光が、ゆっくりと山の向こうへ傾いていく。

遺構が、淡い橙色に染まっていた。


湖畔には、二人の影が並んでいる。


大人になったマイカと。

十四歳のままのナルミ。


止まってしまった時間と。

これから進んでいく時間。


その二つが、ほんの一瞬だけ、同じ場所に並んでいるようだった。


マイカは、ふと笑った。


昨日までなら、未来なんて考えたくもなかったのに。


今日は少しだけ。

その先を見てもいいような気がした。




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