第1話 五月の湖と少年
このお話は5話完結です。
五月の風が、故郷の町を吹き抜けていた。
若葉を揺らし、坂道を下り、町の奥にある滝へ向かっていく風。白石マイカは、その風を頬に受けながら、ゆっくり歩いていた。
久しぶりの故郷だった。
古い商店も、坂の途中にある小さな喫茶店も、山の緑も。
(……昔と、何も変わっていない)
少し前なら、懐かしいと思っただろう。
けれど今のマイカには、その穏やかさが少し苦しかった。
どうして、こんなに何も変わらないのだろう。
自分だけが、取り残されたような気がする。
ついこの間まで、結婚するつもりだった。式場を決めて、招待状を出して。ドレスの試着をして、休日には二人で家具を見に行った。
「おめでとう」
そう言って喜んでくれて、優しく笑った友達。
何度も相談に乗ってくれた。彼との小さな喧嘩で落ち込んでいたときも、大丈夫だよ、と話を聞いてくれて背中を押してくれた。
だから、疑いもしなかった。
――あの笑顔が、全部嘘だったなんて。
知ったときには、何が本当だったのか分からなくなった。恋人だけじゃなく、いちばん信じていた友達まで、一緒になって自分を裏切っていた。
結局、 結婚は破談になって、2人は結ばれて。
式の準備をしていた時間が、砂でできた家のように、指の間からさらさらと崩れていった。
あの頃の自分は、愛する人と共に幸せになる事を疑いもせず、これから先、彼の隣で、温かな家庭を築いていくんだと思っていた。
(……それなのに今の自分は)
誰ももう信じられない。いつか別の人を好きになることさえ、怖い。
何もかもどうでもよくなって
(ああ、なんて、息苦しい、私なんて消えてなくなればいいのに)
だから、逃げるように帰ってきた。
遠くから2人の姿が視界に入るのも辛かった。
無価値で、とるに足りない人間。
もう最近では、ずっと自虐的な自分にも、
いい加減うんざりしていた。
でもここなら、何も起こらないだろう。
昔から知っている景色の中にいれば、少しは息ができる気がした。
* * *
けれど。
緑の山も、青い空も、五月の光も。
今のマイカには、眩しすぎた。
こんなに穏やかな世界の中で、自分だけがひどく傷ついている。そう思うと、胸の奥がきゅっと縮んだ。
やがて、遠くから水音が聞こえてくる。
町の奥にある大きな滝。
子どもの頃、何度も遊びに来た場所だった。
滝から流れ落ちた水は川となり、山あいを抜けて、やがて湖へ注いでいる。
(……ああ、この場所)
『5月になると水位が下がり、湖の奥からはやがて古い遺構が姿を現す』
ダム湖の底に沈んだ、明治時代からの建築物
山間の町の人から親しまれ、マイカも子どもの頃から、幾度となく訪れている
けれど、こうして見るのは久しぶりだった。
足を速める
木々の向こうが、ふっと開ける。
その先に、その湖があった。
光を受けた水面が、風に細かく揺れている。
遠くに滝の白い水流が見える。
そして、その湖の中に――
古い赤煉瓦の建物が浮かんでいた。
崩れた壁。
窓の跡。
水際に残る石。
赤い煉瓦は苔むし、ところどころに草が生えている。水に沈んでいたはずの古い建物が、湖の底からゆっくりとたちあがり、目を覚ましているようだった。
どこか遠い西洋の、古い城跡にも見える。静かでノスタルジックな雰囲気。けれど、ここは外国ではない。昔からこの町にある、古い発電所の名残だった。
滝と、川と、湖と。
その風景の中に、まるで異国の一枚だけが紛れ込んでいる。
マイカは、しばらく黙って眺めていた。
「……きれい」
自然に、言葉がこぼれた。
そのとき。
「……だろ?」
後ろから声がした。
マイカはハッとして振り返った。
風が吹き抜ける。
_そこには、1人の少年が立っていた。
白いシャツ。黒いズボン。細身で、日に焼けた肌。短い髪は、どこか無造作で、少年らしい。
マイカの視線が、その顔へ向く。
そして――
時間が止まった。
泥だらけのユニフォーム。夕暮れのグラウンド。
転がるサッカーボール。誰よりも先に走り出して、誰よりも大きな声で笑っていた少年。
教室の真ん中で、いつも何かふざけたことを言って。女子の前では、少し格好をつけて。
時々、おませなことを言っては、周りを笑わせていた。ちょっと生意気で、でも、眩しいくらい真っ直ぐでキラキラしていた少年。
――ナルミ。
マイカの記憶がよみがえる。
彼は
十数年前、突然いなくなった少年。仲が良かった、中学のクラスメイト。
この町からある日、霧のように消えた。
町の人からは、神隠しにでもあったんじゃないか、と噂され、行方は今も、分からないままになっている筈の男の子だった。
その彼が
(えっ……!それなのに。目の前にいる。十四歳のまま?………なんで、そんなことって……)
「……白石?」
その声を聞いた瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
「……ナルミ君なの?」
驚きで声が震える。
少年も、じっとマイカの顔を見た。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、眉が動く。
知っている。たしかに知っている顔だ。
けれど――
ナルミの記憶の中にいるマイカは、十四歳の女の子まま。目の前にいる女性は、長い黒髪を風になびかせ、昔よりずっと大人びた服を着ている。
細い身体も、柔らかな表情も、どこか都会的な雰囲気も、面差しは同じでも同じ人だと分かるのにすぐには結びつかない。
ナルミは少しだけ首を傾げた。
「……白石、だよな?」
その言葉に、マイカの胸が詰まった。
「う、うん、そうだよ」
「ああ……そっか、やっぱり」
ナルミは、ようやく安心したように笑った。
「おう。久しぶり、白石」
その笑顔だけは、何も変わっていなかった。
マイカは動けなかった。
どうして。
どうして、ここにいるの?
どうして――十四歳のままなの?
自分はもう二十五歳になった。
長い髪を伸ばし、大人の服を着て。
恋をして、結婚をしようとして。
そして、傷ついて、ここに立っている。
その間に、ナルミ君の時間だけが、どこかで止まってしまったようだった。
湖畔には、二人の影が並んでいた。
大人になったマイカと、十四歳のままのナルミ。
その間に流れたはずの共通の年月は、二人の間にはなかった。
「……なんで、ナルミ君、 全然変わってない」
やっと声が出た。
「何が?」
「だって……」
その先が言えない。
ナルミは不思議そうにマイカを見た。
「白石はなんか変わったな」
「……そりゃ、変わるよ」
思わず苦笑する。
「何年経ったと思ってるの」
「何年?」
ナルミは少し考えた。
それから、困ったように笑った。
「知らない」
マイカは、また言葉を失った。
ナルミはそんな彼女を見ていた。
しばらくして。
少しだけ、照れくさそうに視線を逸らす。
「……白石さ」
「なに?」
「なんか、すげえ、綺麗になった」
一瞬
マイカは何も言えなかった。
あまりにも唐突で。
あまりにも、十四歳らしい言葉だった。
「……そういうこと、急に言うの?」
「いや……」
ナルミは少し困ったように笑う。
「思ったから」
「昔は、そんなこと言わなかったのに」
「昔は言えなかったんだよ」
言ってから、ナルミは照れたように目を逸らした。
マイカの胸の奥が、小さく揺れた。
懐かしい。それだけではなかった。
ずっと昔に置いてきた何かが、ほんの少しだけ戻ってきたような。
けれど同時に、どうしようもなく切ない。
目の前の少年は、何も知らない。
自分が二十五歳になったことも。
あの日から、十年以上の時間が流れたことも。
そして――どうして自分が、この場所にいるのかさえ。
ナルミは、何事もなかったように湖へ視線を戻した。
「ここ、ずっときれいだよな」
その横顔は、昔のままだった。
風が吹く。
白いシャツの裾が、かすかに揺れる。
その向こうで、赤煉瓦の壁が静かに水面へ影を落としていた。
マイカは、ふと気づいた。
ナルミの足元には、湖へ向かう細い道がある。
けれど。そこから先へ進もうとすると――
そこだけがなにか、空間が歪み、弾かれるように拒まれる様子だった。
「俺、ここから出られないんだ」
「……出られない?」
「うん」
ナルミはあっさり答えた。
「なんか、戻されるんだ、ここから先に行こうとしても」
「戻されるって?」
「分かんない」
肩をすくめる。
「俺にもよく分かんないんだよ、ずっと 何でだろうと思ってる」
怖がっている様子はなかった。
困っている様子も、それほどない。
ただ、本当に分からないのだろう。
マイカも湖の向こうを見た。
滝の白い水。
五月の空。
赤煉瓦の壁。
その中に立つ、十四歳の少年。
まるで、彼の周りだけ別の時間が流れている。
「白石」
「……なに?」
「明日も来る?」
あまりにも普通に聞かれて。
マイカは、少しだけ笑った。
「……うん」
自分でも、どうしてそう答えたのか分からなかった。
「来るよ」
彼が笑う。
「じゃあ、また明日な」
「うん。また明日、ナルミ君」
マイカは湖をあとにした。
歩き出してから、何度も振り返る。
遠ざかるにつれて、彼の姿は少しずつ小さくなっていく。
それでも最後まで、白いシャツだけは五月の光の中に見えていた。
やがて木々が視界を遮り、その姿が見えなくなる。
マイカは足を止めた。
胸の奥が、まだ大きく波打っている。
(………何だったのだろう。今の出来事は)
幻?
それとも――私は夢を見ているのだろうか。
十数年前に突然いなくなった少年が、何事もなかったようにそこにすんなり立っていた。
中学生のまま。
私の名前を呼んで。
昔と同じ顔で笑って。
「また明日」なんて、普通のことのように言って。
そんなことが、あるはずがないのに。
けど、あれは、確かに彼だった。
声も。
笑い方も。
少し照れたときに目を逸らす仕草も。
何もかも、覚えている。
マイカは、自分の胸に手を当てた。
どくん、と心臓が鳴った。
夢なら、どうして胸がリアルに痛いのだろう。
そして――
私は、彼がそこにいることが嬉しい。
(まあ、……さっぱり分からないけどね、これって 白日夢かも)
ただ。明日になれば、また会えるのだ、また彼と話せるのだ。
(ああ楽しみだな)
そう思ってしまった自分に、不思議と戸惑いがなく
少し笑ってしまうけど。
五月の風が、長い黒髪をさらっていく。
その向こうで、湖は何事もなかったように光っていた。
マイカはもう一度だけ、振り返った。
けれど、もうナルミの姿は見えなかった。
湖と、古い赤煉瓦の遺構だけが、夕方の光の中に静かに残っていた。




