対峙1
「少し話があるのだけど、よろしいかしら」
温室の方角へと向かうクラトに私が声をかけたのは、古代文字の一件から数日経った日の夕方だった。
すぐに行動を起こさなかったのは、準備したいものがあったからだ。いつもより重たい鞄を右手に持ち、爪先から頭頂までまっすぐ姿勢を正す。
授業を終えた生徒たちが思い思いに過ごす時間は、伸び伸びとした空気が漂っていた。弾む声、軽い足音、今日の授業や休日の話。そんな賑やかさから離れて、クラトだけが橙色に染まった回廊を歩いていた。
「――」
岬で言葉を交わして以来、顔も合わせていなかった私に声をかけられるとは思っていなかったのだろう。彼は弾かれたように振り返った。
けれど、驚きは一瞬だった。長い前髪の奥の瞳が、すぐに冷えた色を取り戻す。薄く開いた唇から零れた声は、夕暮れの空気よりもずっと冷えていた。
「失礼ながら、こちらはあなたと話すことなどありませんが」
予想していたとはいえ、真正面から拒絶されると少し怯む。
いや、少しどころじゃない。できることなら今すぐ踵を返してアルドラ家の屋敷に帰り、温かいお茶を飲みながら焼きたてのお菓子を食べたかった。私は本来他人との衝突を避けたい人間で、クラトみたいな当たりのきついタイプとは相性が悪い。
でも、ここで引くわけにはいかなかった。
私は視線を逸らさず、口角を僅かに持ち上げて優雅に微笑んだ。名家の令嬢らしく、内心の動揺が顔に出ていないことを祈りながら。
「そうでしょうね。でも、あなたが話したいかどうかではなく、話す必要があるかどうかの問題です」
「必要?」
クラトの眉がぴくりと反応する。
探りを入れる必要はない。遠回しに切り出せば、その分だけ彼に逃げる隙を与えることになる。
私は爪先に重心を乗せて、声のトーンを落とした。
「あなたもよく知っている、呪いのことよ」
その瞬間、クラトの表情が変わった。
驚いた、というよりも、嫌な予感が的中したような顔だった。ずっと視界の端で意識していたひび割れが、とうとう足元で音を立てた時のように。
ほんのわずかに目を見張り、次いで、彼の視線が周囲へ走る。
辺りにはまだ生徒の姿があった。こちらを気に留める者はいない。けれど、誰かがふと足を止めれば届いてしまう距離だ。
クラトが一歩距離を詰める。背が高い分、急激に近付いた気がして、私は思わず息を止めた。
長い前髪が夕日に透けて、彼の瞳に落ちる影を濃くしていた。岬で腕を掴まれた時と同じ、冷えた空気が肌の表面に触れる。
「それは」
抑えた声だった。けれど、そこに含まれた鋭さに、背中がぞくりとする。
「この場で話すことではありません」
「では、場所を変えてくださる?」
どうにか声を震わせずに返した私を、クラトが無言のまま見据える。
疑い。警戒。苛立ち。いくつもの感情が浮かんでは消えて、最後にまた凪へと戻る。やがて短く息を吐いて、くるりと踵を返した。
「付いてきてください」
それだけ言うと、返事も待たずに歩き出す。
いや、一言こっちの都合とか確認するべきでは? 思わず突っ込みたくなったけれど、足を止めなかったということは、少なくとも話を聞く気はあるのだろう。
私は鞄の中の小箱に、そっと指先を触れた。
アルドラ家の薔薇の紋章が刻まれた小箱。その内側には、絹織物に包まれた小さな鉢植えが収められている。まだ蕾のままの花が。
これが役に立つかどうかはわからない。
けれど、クラトに私の言葉を信じさせるには、これしかなかった。
ひとつ、呼吸を整える。
岬へ向かった時のように、思いつきで飛び出したわけじゃない。進むべき道は見えている。そう自分に言い聞かせて、私は回廊を進むクラトの背中を追った。




