大海の一冊5
その夜、私は再び古代文字と戦っていた。
ホメロスに教わった通り、文字を読む方向と、添えられた記号の位置を意識する。それだけで解読がスムーズに進む気がした。気がしただけで、実際には一行をなぞるだけで頭が痛くなったけど。
でも、少しだけ意味のわかる部分もあった。
ぼろぼろに傷んだ「器」に関するページ。その先に、半分ほど破れた挿絵があった。
向かい合う二人の手。指と指を絡めるように組まれた、祈りにも契約にも見える形。
その周囲では、黒い線が複雑な曲線を描いている。片方の手首に刻まれた印から、もう片方へ流れるように。
「……呪いを移す手段」
ぽつりと呟く。
適当に読み飛ばしたつもりだったゲーム内の解説が、記憶のすみからじわりと浮かび上がった。
緻密な呪文によって組み立てられた魔法。優れた魔術師の家系であるイルドゥン家の人間にしか扱えないそれは、確か自らの手首に印を刻み、器に流れこむ呪いの矛先を移すものだ。
クラトはどこまで研究を進めているのだろう。
岬で見た、どこか焦燥を窺わせる表情を思い出しながら、私は一旦本を閉じた。代わりに紙を広げて、彼に伝えるべき内容を整理する。
森で呪いに遭遇したこと。ラズリとクラトの手首に同じ痣を見たこと。その痣について調べた結果、古い書物に辿り着いたこと。そこには呪いが国を滅ぼす災いであり、それを救うのが「器」であると記されていたこと。
これはゲームで得た知識じゃない。
もちろんベースにはシナリオとして読んだ設定があるし、解読できたのはホメロスのおかげだけど、私がこの世界の文献にあたって知ったことだ。
次に、森でクラトが使っていた呪文。
呪いに対峙するほどの大きな力を伴うあの術は、おそらく禁呪に該当する。
器や呪いに干渉する術は世界を危険にさらす禁忌とされ、関わりがばれたら極刑は免れない。一歩間違えればバッドエンドと同様に処刑される可能性もあったのだと思うと、森での出来事を目撃したのが自分で良かったと改めて安堵する。
とはいえ、クラトは現在進行形で禁呪に触れている。つまりは、器の身代わりとなる方法を調べている。
もちろん、それを咎めるつもりなんてない。ラズリを救うためならできる限り協力もする。
まずはそこからだ。
クラトに、私は敵ではないと思ってもらわなければならない。人間として信用される必要はない。利用できる相手だと思われるだけで構わない。
同じ場所に立たなければ、止めることもできないのだから。
(私が、呪いを移す術の存在を知っていることを明かすべきだろうか)
要点をまとめた紙をなぞりながら考えて、やめた。クラトが犠牲になることを望んで手伝うみたいで嫌だった。
ラズリもクラトも犠牲にならない、クラトルートでのみ開かれる救済への道。ホメロスルートを後押ししている私がどうすればクラトを光の下に連れ出せるのかはまだわからないし、乗り越えるべき問題はまだまだ山積みだけど、最低限の準備は整った、と思う。
「明日からのためにも、今日はもう寝よう」
令嬢に必要なのは気品や礼節だけじゃない、それを支えるための体力を維持しなければならない。
私は本を閉じて明かりを落とした。
香油の匂いをふわりと感じながらベッドに入って目を閉じると、ゲーム画面で見たクラトの姿が瞼裏にぼんやりと浮かぶ。
『二人で生きようとしたから、失敗した』
先祖の遺した研究記録を手に、クラトはそう言った。海の底みたいな静かな声だった。
『私は、同じ轍は踏まない』
ラズリが泣きそうな顔で名前を呼ぶ。縋るように手を伸ばしても、クラトは振り返らない。二人の手首には、黒い蔓のような印が浮かんでいる。淡々としたテキストに重なる、軋むような音を帯びた音楽。
全体的にぼんやりと記憶しているクラトルートで、あの場面だけははっきりと覚えている。




