大海の一冊4
「次は……かなり傷みが進んでる」
ホメロスが慎重にページをめくる。
そこは他のページよりもさらに状態が悪かった。紙の端は黒く変色して、破れが目立つ。インクが滲んで文字の大部分が欠けている行もあった。
「読める?」
「全部は無理そうだ。けど……」
ホメロスは目を細めた。
「『器』って言葉が何度も出てくる。清らなる器が救いをもたらす、とか。器は嘆きを受け入れる……いや、受け止める、か? この辺は欠けてる」
魂の流れ、魔力の系統。
ホメロスの読みあげる『器』の話は難解で、けれど私の知るゲームの設定に重なる部分もあった。
器とは、呪いを引き受けるもの。
呪いの痛みに寄りそう純粋な魂がその受け皿となる。
天使を思わせる挿絵は、どこかラズリを連想させた。
「……これ、」
ホメロスが一枚の絵を指した。
開いた手のひらから手首にかけて描かれた黒い印。蔓のように絡みついた、不吉な模様。
「ラズリの手にあるやつと、似てないか」
心臓がどきりした。
ホメロスは私を見ていた。いつもの気だるげな目ではない。ラズリのことになると、彼は驚くほど鋭くなる。
「ディア。お前、何か知ってんのか」
私はすぐには答えられなかった。
ここでどこまで話すべきか。
ラズリが呪いの受け皿であること。クラトがそれを知っていること。森でクラトが呪いを退けていたこと。彼の手首にも同じ痣があること。
どれも勢いで伝えて良い話じゃない。
本編のホメロスは現時点でラズリと呪いの関係は知らないし、ホメロスルートでホメロスとクラトが深く関わることもない。クラトが禁じられた術に関わっているかもしれない以上、事情を知る人間が増えること自体が危険かもしれない。
この場で私が話した一言が何を変えるのか、想像がつかなかった。
「……今は、まだ言えません」
だから、私は本の端に指を添えたまま、静かに返した。
ホメロスの眉がぴくりと動く。
「言えない?」
「調べている途中なの。あなたは信用するに足る人だけど、確かなことがわからないまま話せば余計に混乱を招くかもしれない」
「ラズリに関わることだろ」
「ええ」
目を伏せて、小さく首を縦に振った。否定はできなかった。
「でも、必ず話します。ラズリを大切に思っているあなたに、黙ったままにするつもりはありません」
ホメロスは黙って私を見ていた。険しいまなざしからは、簡単に納得したわけでないことが伝わってくる。
やがて、呆れ混じりのため息を吐いた。
「……わかった、今は聞かないでおく」
「ありがとう」
「ただし、俺はあまり気が長い方じゃない」
そっけない声を重ねるホメロスの目に、私が映っている。内心の焦りに気付かれないよう、なんとか姿勢を正しているアルドラ家のディア。
「ラズリが危険な目に遭うかもしれないのに、黙って待つつもりなんてないからな」
「……ええ、わかっているわ」
「あと」
ホメロスは肩をすくめた。
何か追求されるだろうかと、思わず身を固くした私を見て続ける。
「お前もひとりで抱え込むなよ、顔に出てる」
思わず言葉に詰まった。
顔に出ていただろうか。令嬢らしい毅然とした振る舞いをしているつもりだったのに、黄金の薔薇も推しの前では案外頼りない。
「……善処するわ」
「ああ」
頷いたホメロスが、昼食の包みを抱え直す。
「読めないところがあれば、また見せろ。時間がある時なら手伝う」
「いいの?」
「ラズリのことだからな」
そう言って、ホメロスは立ち上がった。
歩き出した背中を見送りながら、私はそっと胸に手を当てて息を吐いた。
クラトを救うために、本来接点のないホメロスを頼る。自分が明らかにゲームのシナリオとは違う道を歩き始めたことを恐れる気持ちと、助けてもらった安堵が同時に湧き上がって、心臓が慌ただしく鼓動を打っていた。
小さく呼吸を整えながら、手元の本を見下ろす。
呪い。災厄。器。魂。今まで設定として表面で捉えていたこの世界のことを、僅かながらも理解することができた気がする。
わかったことはまだ少ないけれど、これから一歩ずつ進んでいくしかない。
岬を訪れた時のように、思いつきのまま歩くのではない。明かりを掲げて、足元を確かめながら。




