大海の一冊2
私は息を殺して、本のページをめくった。
古いインクの独特の匂いが鼻先をかすめ、色褪せた紙が指先の下で乾いた音を立てる。
目当てのページを見つけるのに時間はかからなかった。ページを何枚かめくったところで手を止める。
開いた手のひらから手首にかけての図解。そこに浮かぶ、蔓が絡みついたような小さな印はゲーム画面で表示されていたものと同じだった。ラズリと、肖像画に残された王家の女性、そして森で見たクラトの手首に浮かんでいた黒い痣。
「見つけた……!」
声が震えた。これで、クラトと話すための手がかりができた。ゲームの知識ではなく、この世界に残された記録として、痣と呪いの関係を辿れる。
そう思った。思ったけど。
「……読めない」
挿絵の周囲にびっしりと書き込まれているのは古代文字だった。
私は、この世界の言語が読める。ディアとしての知識があるからなのか、転生者向けの親切設計なのかはわからないけれど、授業で使う教科書や貴族同士の手紙、妖精語と呼ばれる古い言葉も問題なく理解できる。
でも、この本は違う。
まず、文字なのか図なのかすらわからない。左右にくるくる巻いた線と、先の尖った記号のようなものが複雑に並んでいる。装飾ではなく、たぶんこれが本文なのだろう。
古代文字。
つまり、翻訳機能の対象外。
(肝心なところで不親切……!)
思わず本に向かって文句を言いそうになったけれど、まだ人がいることを思い出して口を閉じる。
挿絵をクラトに差し出し、これと同じものをラズリとあなたの手首に見ました、と言う自分を想像して頭を抱えたくなった。間抜けすぎる。それで何かわかるのかと冷たく返されたら終わりだし。
せめて、この印が何を示すのか、呪いとどう関わっているのか、そもそも呪いとは何なのか。それくらいは把握しておきたい。
私は本をそっと閉じて、両腕に抱えた。書庫から持ち出すのは本来あまり褒められたことではないけれど、ここは私の家だ。管理を任されている書庫番に事情をぼかして頼み込み、数日の閲覧許可をもらうことにした。
もちろん、ものすごく心配そうな顔をされた。
「お嬢様、本当にお部屋でお読みになるのですか?」
「ええ。時間をかけて取り組みたいの」
「古代文字で記された書物でございますよ」
「……ええ、そうね」
一文字も読めないの、とは、言えなかった。
◇
その夜から、私は辞書と格闘することになった。
机の上には件の黒い本。その傍に古代文字の解説書と古代王朝期の文法書、現代語との対応表を広げている。姿だけ見たら、勉学に燃える令嬢だ。
「……どれが主語?」
私は羽ペンを片手に、額を押さえた。
そもそも古代文字は前後の繋がりで形まで変わってしまうから、どの文字なのか判断するのが難しい。単語を探そうにもどこからどこまでが一語なのかわからない。しかも現代の言葉とは文法がまるで違うらしく、単語の意味を並べても文章にならない。
呪い。印。器。嘆き。
断片的に拾える言葉はある。けれどそれだけでは何もわからない。これは翻訳というより暗号解読に近い作業だ。
結局、何時間も粘った末に紙に書き出せたのは「手首の印は呪いに関係しているらしい」という、挿絵から容易に想像できる情報だけだった。
「……先が長い」
私は机に突っ伏した。
だからといって、諦めるつもりはない。
翌日から、私は本を学園にも持っていくことにした。休み時間や昼休みに少しずつでも読み進めるためだ。
分厚い本を辞書と一緒に鞄に入れると、手首が折れそうになった。いくらなんでも重すぎる。こんな分厚い本を持ち歩く令嬢なんてどう考えても怪しいけれど、今は体裁を気にしている場合じゃない。
午前の授業を終えるなり中庭に出て、ベンチに腰掛ける。背すじをまっすぐに伸ばして、黒い表紙の本を開いた。真昼の柔らかな光に照らされる文字をひとつひとつ追う。
「見て、ディア様が読んでいる本、古代文字で書かれているわ」
「やっぱりすごい方ね……」
「文字の判別すら難しいのでしょう?」
通りすがりの生徒たちが、尊敬のこもった目でこちらを見ていた。
……ごめん。何もわかっていません。
勤勉な令嬢の顔をしてページを捲りながら、頭の中でもう無理!と大の字になる。それでも辞書に載っている文字と似た形を探して意味を当てはめた。合っているのかどうかもわからない作業だったけれど、積み上げるしかない。
「……印、器、呪い……たぶん、ここが痣の説明で……」
「それ、上下逆だぞ」
背後から聞こえた声に、私は硬直した。
ゆっくり振り返ると、片手に昼食らしき包みを持ったホメロスが立っていた。いつものように無愛想な顔をして、私の開いている本を覗き込んでいる。
「……今、何て?」
「だから、それ、上下逆」
ホメロスは何でもないことのように言った。
「その文字、下から読むんだよ」




