第86話 限界のその先で
井坂は、最初の百を抑えた。
本当なら、もっと早く行きたかった。
でも、それをやれば途中で終わる。
今の身体は、もう限界に近い。
予選の反動が、
まだ足の奥に残っている。
息を吸うたび、胸の内側に鈍い痛みが走る。
それでも、前へ出る。
七位。
前に六人。
そのなかに、
畿内総合。
東陵大附属。
白城学院。
目指す場所が、
ちゃんと見える位置にいる。
二百手前。
井坂は一度、入ろうとしてやめた。
身体が拒否する。
“もうやめろ”と、
神経の奥が叫ぶ。
ここで入れば、たぶん戻れない。
それでも。
ここで入らなければ、
届かない。
井坂は歯を食いしばった。
次の一歩で、無理やり沈む。
その瞬間、
世界から音が消えた。
風も。
歓声も。
自分の足音も。
何も聞こえない。
あるのは、
足裏へ返る反発と、
前にいる背中だけ。
シンクロ。
浅くない。
昨日より、明らかに深い。
井坂の視界が鋭くなる。
七位の背中を一つ拾う。
六位。
さらに五位。
観客席が、遅れて爆発した。
「あれ朝倉じゃない!」
「潮見の三走、また入ったぞ!」
「誰だ、あいつ!」
「井坂だ!」
「県立潮見の井坂蒼真だ!」
一年マネ三人の声が、
そのざわめきの上から突き抜ける。
「井坂先輩ーっ!」
「いけーっ!」
「負けないでーっ!」
井坂には聞こえていない。
音がない。
ないのに、
みんなの熱だけが背中に刺さってくる。
前に畿内総合。
さらに東陵大附属。
その先に白城学院。
井坂は四百のなかの三百で、
無理やり別の場所へ足を踏み入れていた。
五位を抜く。
四位まで上がる。
前は三校だけ。
畿内総合。
東陵大附属。
白城学院。
そこまで持っていく。
そのためだけに、
身体の限界ごと前へ投げる。
最後の直線。
畿内総合の三走とほぼ並ぶ。
でも、抜き切らない。
抜き切るより、
蓮が受けた瞬間に喰える距離に置く。
それが最善だと、
意識が飛びかけるなかでもわかっていた。
受け渡し。
バトンが蓮の手に触れる。
その瞬間、
井坂の身体から力が抜けた。
一歩。
二歩。
そこで、膝から崩れる。
「井坂先輩!」
牧田が先に叫んだ。
白石が顔を青くする。
篠原はその場で泣き出した。
「いや、やだ、井坂先輩……!」
高梨が走り出す。
遥も一緒に飛ぶ。
でも、その前で、
井坂はもう意識を失っていた。
その倒れ方だけが、
蓮の視界の端に焼きついた。




