第84話 号砲の前
入場の時間が近づくにつれて、
競技場全体の音が少しずつ変わっていった。
ただ騒がしいだけの歓声じゃない。
何かが始まる前に、
大きな会場そのものが息をひそめていく感じだった。
決勝は八校。
白城学院。
東陵大附属。
県立潮見。
関西の強豪・畿内総合。
ほか四校。
全員が、ここまで残ってきた。
その時点で、軽い学校は一つもない。
スタート前、鳴海はスパイクの先でトラックを軽く叩いた。
真田が少し外側にいる。
東陵大附属の一走。
元中学王者。
今の時点では、自分よりずっと上の位置にいる相手。
それでも、同じ決勝のスタートに立っている。
その事実だけを、
鳴海は一度、自分のなかへ落とし込んだ。
蓮が横から低く言う。
「置かれても、切るな」
「はい」
「最後まで消えるな」
「はい」
鳴海の返事は短かった。
でも、それで十分だった。
倉橋は受け渡し位置をもう一度だけ確認する。
井坂は肩を回して、
一度だけ目を閉じる。
目を閉じた瞬間、
昨日の予選の“音のない区間”がよみがえりかけた。
怖かった。
はっきり、怖いと思った。
入れたくない。
本当は、もう一度あそこへ入るべきじゃない。
身体の奥が、そう言っている。
でも、それでも。
蓮へ届く位置まで持っていくには、
たぶん普通じゃ足りない。
井坂が目を開ける。
遥がその横顔を見て、
少しだけ息を詰めた。
高梨が小さく言う。
「宮坂先輩」
「うん」
「今日、たぶん」
「うん」
最後まで言わなくても、わかった。
一年マネ三人は、さっきまでよりもずっと静かだった。
牧田が両手を強く組んでいる。
白石は唇をかんでいた。
篠原はもう泣きそうな顔で、
それでも笑おうとしている。
「井坂先輩」
「ぜったい、戻ってきてくださいよ」
井坂は振り返らないまま、手だけ上げた。
「うるせえ。わかってる」
その乱暴な返事が、
逆に優しかった。
入場。
スタンドが大きくうねる。
選手紹介。
拍手。
学校名。
ざわめき。
全部がトラックの上へ降ってくる。
「On your marks.」
鳴海が前へ出る。
指先が地面に触れる。
体重が前へ乗る。
観客席の音が、すっと落ちる。
「Set.」
腰が上がる。
鳴らない号砲を待つ時間が、
異様に長い。
一秒にも満たないはずなのに、
その先にある四百メートル全体が詰めこまれているみたいだった。
誰も動かない。
空気だけが張る。
その張りつめた膜を、
破裂音が裂いた。
決勝が始まった。




