第82話 決勝前夜
決勝の前夜だった。
宿の廊下は静かで、
部屋のドアの向こうから、時々シャワーの音だけが聞こえた。
井坂は洗面台の前で、
濡れた髪を拭く手を一度止めた。
指先が、少し震えていた。
見なかったことにしようとしても、
見えてしまう。
今日の予選で入った浅いシンクロは、
“浅い”で済む反動じゃなかった。
呼吸の奥に、まだ変な空白が残っている。
足の重さじゃない。
熱でもない。
もっと奥の、
神経の芯みたいなところが削れている感覚だった。
「……やべえな」
小さくつぶやいた声は、
自分にしか聞こえなかった。
部屋へ戻ると、倉橋がベッドに腰かけていた。
「大丈夫?」
「何が」
「その顔」
井坂は鼻で笑う。
「顔で走ってないんで」
「走る前からそんなこと言う人、だいたい危ないよ」
返そうとして、返さなかった。
倉橋はこういうとき、
変に追い詰める言い方をしない。
だから、逆にごまかしづらい。
「……まあ、ちょっとだけ」
「ちょっと?」
「ちょっと多め」
倉橋は少しだけ苦く笑った。
「無理しないで、って言っても無理するんだろうけど」
「決勝で無理しない三走って、何」
「それはそう」
そこで二人とも少しだけ笑った。
笑ったあとで、
部屋の空気がまた静かになる。
井坂は天井を見たまま言う。
「でも、渡すよ」
「うん」
「三、四番手くらいまでには、何とか」
倉橋が驚いたように顔を上げる。
「そこまで行くつもり?」
「行かないと、朝倉先輩が白城まで届かない」
それは冗談の言い方だった。
でも、冗談じゃなかった。
そのころ別の部屋で、
西野はオーダー表を見ながら考え込んでいた。
そこへ蓮が入ってくる。
「西野、まだ起きてたの」
「朝倉くんこそ」
「寝る前に確認」
西野は少しだけ笑った。
「真面目だね、そういうとこ」
「言われたくない」
「失礼な」
言ってから、西野は表情を少しだけ締めた。
「井坂、明日たぶん無茶します」
「するだろ」
「止めますか」
蓮は少し黙った。
止めたほうがいい。
正しいのは、たぶんそっちだ。
でも、止めたら勝てない。
勝てないとわかっていて、
止める言葉を口にできるほど、
きれいな立場でもなかった。
「……戻ってこい、とは言う」
西野がゆっくりうなずく。
「それで十分です」
その少し離れた女子の部屋では、
遥が記録用紙を閉じたところだった。
高梨が隣でそっと聞く。
「宮坂先輩、寝られますか」
遥は少し考えて、首を横に振った。
「たぶん無理」
「ですよね」
高梨は苦笑した。
一年マネ三人は、さっきまで井坂の話で盛り上がっていたくせに、
今はもうだいぶ静かだった。
牧田が小さく言う。
「井坂先輩、明日、ほんとに大丈夫ですかね」
白石が唇をかむ。
「予選のあと、ちょっと顔やばかったよね」
篠原がうつむく。
「でも、絶対無理するじゃん、あの先輩」
高梨はその言葉に、何も返さなかった。
返せなかった、のほうが近い。
遥だけが静かに言う。
「無理はする」
「でも、無駄にはしない」
その言い方が、
妙に蓮に似ていた。
夜は深くなる。
それぞれが眠れないまま、
でも横になって、明日を待つ。
全国マイル決勝。
終わるレースじゃない。
終わらせるレースだった。




