第80話 音のない直線
蓮の手にバトンが触れる。
触れたはずなのに、
打音はしなかった。
音が、ない。
井坂の思い。
鳴海の耐えた脚。
倉橋のつないだ位置。
ベンチから飛んでくる遥たちの視線。
それが、ひとつの熱になって、
先に蓮のなかへ入ってくる。
次の瞬間、
世界から音が消えた。
歓声も。
風も。
トラックを打つスパイクの音も。
全部、置き去りになる。
音速を越えて、
自分だけが先に行ったみたいだった。
前に見える背中だけが、
異様にはっきりする。
肩甲骨の動き。
腕の振り。
接地の位置。
全部が細く、鋭い。
蓮は一歩目から前へ出た。
トップではない。
まだ前に数校いる。
でも、遠くない。
井坂がつないだ位置が、
それを可能にしていた。
バックストレートでひとつ拾う。
さらにもうひとつ寄る。
音はまだない。
ただ、脚は回る。
体が軽いんじゃない。
重さごと、前へ押し通せる感じだった。
第二コーナーを抜ける。
そこで、さらに一段深くなる。
音のない世界の底が、
もう少し先にある気がした。
そこへ手を伸ばしかける。
伸ばしたら、戻れなくなるとわかっているのに。
それでも、前にいる背中が、
そこへ行けと誘ってくる。
第三コーナー。
そこでようやく、音が追いついてきた。
遠くの歓声。
誰かの叫び。
スパイクの打音。
一気に世界が戻ってくる。
同時に、反動も来る。
脚の奥が重くなる。
肺が急に焼ける。
膝の下に鈍い重みが落ちる。
崩れそうになる。
でも、蓮はそこで落ちなかった。
ここから先は、
いつもの蓮の速さだった。
最終コーナーで粘る。
沈みかけた体を、腕ではなく脚で前へ押し返す。
音が戻ったあとの苦しさごと、
踏み切る。
直線。
東陵大附属のアンカーが前にいる。
その背中を捉える。
並ぶ。
抜く。
スタンドが爆発したみたいに沸いた。
「朝倉ーッ!」
「いけーっ!」
「抜けーっ!」
遥の声。
高梨の声。
一年マネたちの甲高い叫び。
全部が今度は、はっきり聞こえる。
残り五十。
先頭には届かない。
でも、東陵大附属の前で終わる。
それだけは外さない。
蓮はそのまま二着でフィニッシュした。
決勝進出。
そして、東陵大附属より前。
ラインを越えたあと、
ようやく呼吸が壊れる。
それでも、倒れはしなかった。
まだここで終わるわけじゃないからだった。




