第69話 速い春
地区は、速かった。
苦戦はしない。
でも、楽でもない。
春の大会独特のざわつき。
潮見を見る視線。
名前だけ先に知られている学校の空気。
個人四百の予選前。
蓮は余計なことを考えなかった。
前半は抑える。
風の向きだけ見る。
最後だけ上げる。
それで十分抜けた。
「余裕そうでしたね」
鳴海が言う。
「余裕じゃない」
「そう見せるの上手いっす」
「見せてない」
「そういうとこですよ」
井坂が横から入る。
「お前、朝倉先輩に慣れるの早すぎだろ」
「だって反応薄いから怖くないです」
「失礼だな」
「井坂先輩よりは」
「うるせーな」
女子マネ三人がその後ろで笑う。
「井坂先輩、今日もいじられてる」
「副部長より親しみやすいんじゃない?」
「やめろ、その評価」
そう返しながらも、井坂は鳴海のラップを気にして記録用紙を覗き込んでいる。
結局、一番陸上に熱い。
マイル予選。
四人が並ぶ。
「On your marks.」
「Set.」
鳴った瞬間、鳴海が前へ出た。
観客席が小さくざわつく。
一年の一走。
それだけで目を引く。
第一コーナーへの入りがいい。
出すぎず、鈍らない。
倉橋がそれをきれいに受ける。
外へ膨らまず、一度だけ呼吸を深く入れて、線を整える。
井坂の三走はまだ少し荒い。
でも、荒いまま落ちなくなった。
去年より、明らかに切れない。
そして蓮へ。
受けた瞬間、一瞬だけ空気が薄くなる。
深くはない。
浅い。
でも、四人の呼吸が同じ一秒に触れたことだけは分かる。
蓮はそのまま前を抜いた。
歓声が一拍遅れて降ってくる。
「今の見た?」
「一瞬、伸び方変わったよな」
スタンドで誰かが言う。
トップ通過。
難なく抜けた。
でも残ったのは結果だけじゃない。
競技場の外で、鳴海が興奮した顔で言う。
「今の、ちょっと来ましたよね」
井坂がすぐ返す。
「分かったふうなこと言うな、一年」
「だって空気変わったし」
「それはお前がうるさいからだろ」
「違いますって」
蓮はそのやり取りを聞きながら、静かに思う。
浅い。
でも、いた。
去年、自分だけが深く沈んでいた場所の手前。
その入り口に、今は四人で少しずつ近づいている。




