第52話 県へ向かう背中
県大会の競技場は、地区とは空気の密度が違った。
同じ県のはずなのに、名前のある選手が一気に増える。
黒瀬のいる東陵大附属も当然いる。
蓮がプログラムを開いたとき、真っ先に目が行ったのは男子四百のその欄だった。
黒瀬、一組。
朝倉、二組。
真壁は二百、瀬川は八百、井坂は四百。
倉橋の名前は、マイルの欄から消えている。
前日の最終確認で、瀬川は珍しく自分から全員の前で口を開いた。
「県では、シンクロは狙わないようにします」
真壁が眉を上げる。
「狙う狙わないでどうにかなるのかよ」
瀬川は蓮をみる。
「完全には無理です。でも、深く入らないようにすることはできます」
蓮は黙ってその言葉を聞いていた。
マイル通し練習の後、反動は確かにあった。
身体の芯が妙に空っぽになるような感覚。
脚は動くのに、遅れて重さだけが来る感じ。
あれを、県の個人種目で抱えたまま走るわけにはいかない。
瀬川は続けた。
「南関のときは、一回きりで押し切れたんだと思います。でも今は、あの感覚に身体がもう一回入ろうとしてる。だから、探りにいくと引っ張られます」
遥が腕を組んだまま言う。
「じゃあ、どう抑えるんですか」
「受け渡しの歩数と合図を固定する。必要以上に合わせにいかない。個人種目では、あの感じを思い出そうとしない。前半の入りも、予定以上に上げない」
「使うんじゃなくて、呼ばないってことか」
真壁の言葉に、瀬川がうなずく。
「そうです。県はまず走力で通す。マイルも、決勝まではそれで行きます」
蓮は短く息を吐いた。
制御というほど格好いいものじゃない。
ただ、境界に近づかないようにするだけだ。
それでも今の潮見には、その判断が必要だった。
八百メートル予選。
最初に走った瀬川の流れは、悪くなかった。
いや、むしろよく走った。
前半を冷静に入り、潰れず、最後までフォームも乱れなかった。
けれど県では、それだけでは足りない。
予選敗退。
戻ってきた瀬川は、悔しさを表に出さないままタオルで汗を拭いた。
真壁が言う。
「惜しかったな」
「惜しい、で終わる位置ですね」
「言い方が冷たい」
「そうでもしないと、次が見えないので」
蓮はその横顔を見ながら思う。
瀬川はいつも安定している。
でも、その安定は、悔しくないこととは違う。
負けても崩れないだけで、内側ではちゃんと削れている。
真壁の二百は、地区より明らかに良かった。
スタートも、カーブの入りも、最後の粘りも一段上がっている。
誰も見ていないところでやっていた自主トレが、ちゃんと形になっていた。
予選を抜け、準決勝を抜け、決勝まで行く。
周囲の学校の選手が、真壁のレーンを見て小さく名前を確認している。
その視線の変化だけで、ここまで来た実感があった。
小宮山は結果を記録表に書きながら、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
誰にも見えないくらい小さな変化だった。
蓮の四百も、県でしっかり決勝へ残る。
井坂は全力でぶつかったが、準決勝敗退。
走り切ったあと、初めて露骨に悔しそうな顔をした。
「くそ……」
それだけ言って、膝に手をつく。
蓮が水を渡す。
「悪くなかった」
「慰めになってないです」
「慰めてないし」
井坂は少しだけ笑った。
「そういうとこだよ、先輩」
「何が」
「優しいのに雑」
「うるさい」
そのやり取りのあと、井坂はふっと真顔に戻る。
「……でも、分かりました」
「何が」
「県って、速いだけじゃ足りない。揺れたら終わる」
蓮はすぐには返さなかった。
たぶん、それはシンクロの話でもあった。
引っ張られたら終わる。
浮いても終わる。
この県大会で潮見がやっているのは、勝つための加速じゃなく、崩れないための制御だった。
そのやり取りを、高梨が少し離れたところから見ていた。
蓮は誰に対しても必要以上に柔らかくはならない。
けれど、落ちた相手を放ってもおかない。
その距離の取り方が、高梨にはたまらなく眩しく見えた。
だがこの日の競技場には、それとは別のざわめきもあった。
潮見の4×400mリレーについて、他校の選手たちが小さく何かを言っている。
去年から噂になっている、あの受け渡し。
あの加速。
あの現象。
まだ誰も正体を説明できない。
だからこそ、名前だけが先に広がっていく。
県大会は、ただ勝ち負けを決める場所じゃない。
潮見にとっては、あの現象を抱えたまま、どこまで普通の勝負ができるのかを試される場所でもあった。




