第53話 スタンドの先輩たち
県大会最終日、スタンドに見覚えのある姿があった。
神崎と相沢だった。
気づいたのは西野が先だった。
「……来てる」
その一言で、潮見の視線が一斉に上へ向く。
神崎は相変わらず目立つような手の振り方をしない。
ただ、こちらに気づくと一度だけうなずいた。
相沢はその横で、めずらしくちゃんと立っていた。
「うわ、やば」
真壁が小さく言う。
「何がですか」
瀬川が聞く。
「ちゃんと走んねえといけない感じがすごい」
「もともとちゃんと走ってください」
「お前ほんとそこだよ」
二百メートル決勝。
真壁は第七レーンに立っていた。
ここまで来るまでの積み上げを、部の誰より自分が知っている。
放課後の加速走。
誰も見ていないカーブ練習。
主将としてではなく、選手として勝ちたくて積んだ日々。
その全部が、スタートラインの向こうに並んでいるようだった。
「行ける」
誰かが小さくつぶやいた。
本当にそう思わせるだけの予選と準決勝を、真壁は見せていた。
号砲。
飛び出しは悪くない。
カーブで置かれない。
むしろ食らいついている。
バック側からホームへ戻ってくる頃、一瞬だけ、本当に南関が見えた気がした。
だが、二百は甘くない。
直線で、わずかな差が順位になる。
真壁は最後まで前傾を崩さずに押し切ろうとした。
腕を振り、顔を上げず、意地で残す。
それでも、ゴールを抜けたあとに表示板へ出た順位は七位だった。
届かなかった。
でも、県で決勝に立った。
誰も見ていないところで積んだ一本一本が、ちゃんとここまで運んだ。
ゴール後、神崎はスタンドから小さく拍手していた。
相沢は両手を口に当てて叫んでいる。
真壁はそれを見て、少しだけ照れたように笑った。
ここまで走ってきた理由が、少しだけ分かった気がした。
午後、男子四百の決勝。
黒瀬と蓮が並んだ瞬間、スタンドの空気が少しだけ張った。
南関の頃から、黒瀬はずっと前を走っている。
蓮はそれを追う側だ。
差は縮まっている。
けれど、まだ越えていない。
スタートの位置につく。
号砲が鳴る。
黒瀬は前半から思い切りがいい。
速い。
それでも無謀には見えない。
蓮は置かれすぎない位置で耐え、第三コーナーへ入る。
そこから少しずつ差が削れ始めた。
行けるかもしれない。
第四コーナーで、そう思った者は少なくなかったはずだ。
黒瀬の背中は、視界の中で確かに近づいていた。
だが、直線に入っても、黒瀬は落ちなかった。
蓮は迫る。
脚を運び、腕を振り、最後まで前だけを見る。
それでも、最後の半歩が埋まらない。
先にテープを切ったのは、黒瀬だった。
一位、黒瀬。
二位、蓮。
蓮はゴール後に数歩よろめき、それでもすぐ顔を上げた。
追いつかなかった。
でも、離されもしなかった。
去年の南関より、ずっと近い二位だった。
黒瀬がゴール後に蓮を見て言う。
「来たな」
蓮は息を整えながら返す。
「まだだよ」
「その“まだ”が一番めんどいんだよ、お前」
それが、ある種の敬意だと分かるくらいには、蓮もここまで来ていた。
そして最後、男子4×400mリレー決勝。
潮見のオーダーは、真壁、井坂、蓮、瀬川。
倉橋はスタンドの最前列、テーピングの巻かれた脚を伸ばしたまま、誰より前のめりで見ている。
その少し後ろに神崎と相沢もいた。
スタート。
真壁が一走で持ってくる。
去年より荒れない。
部長として、最初の流れを壊さない走りだった。
井坂が受ける。
昔の自分から逃げるんじゃない。
倉橋の代わりでもない。
自分の足で、この一本に入る。
そう決めた走りは、荒いのに前へ出る。
向こう正面で無理に張らず、それでも落とさず、蓮へ繋ぐ。
受け取った瞬間、蓮の中で何かが深く沈んだ。
無音。
南関のときより、入りが速い。
井坂の勢い、真壁の流れ、スタンドにいる倉橋の視線、神崎たちの気配、その全部が一度に身体へ流れ込んでくる。
第三コーナー。
前との差が急に近い。
第四コーナー。
音が遅れ、世界が後ろから追いかけてくる。
スタンドで相沢が叫ぶ。
「行け、朝倉!」
神崎は黙ったまま、ただ目を逸らさない。
蓮はその全部より先に、瀬川へバトンを出す。
渡る。
瀬川がそのまま前へ出る。
完全に同じ現象ではない。
それでも、受けた速度がいつもより深く身体へ食い込んでいる。
最後の直線で一校抜き、もう一校に迫る。
ゴール。
県立潮見高校、四着。
南関東大会出場。
倉橋がスタンドで顔を覆う。
相沢が立ち上がって拍手する。
神崎は、初めてはっきりと笑った。
高梨は、気づけば泣いていた。
速かったからだけじゃない。
誰かが誰かを背負って、その一本がここまで届いたのが分かったからだ。
そして、そんな走りの中心にいる蓮から、もう目を逸らせないと思った。
遥はその泣いている高梨を見て、次に蓮を見る。
胸の奥が、今度は誤魔化せないくらい熱かった。




