第51話 お前の代わりじゃない
倉橋が離脱確定になった日の夕方、井坂はひとりで河川敷にいた。
呼ばれたわけでもないのに、足が勝手にそこへ向いた。
県大会のマイルは、たぶん自分が入る。
順当に考えればそうだ。
なのに、嬉しいという感情が少しもなかった。
「いた」
振り向くと、倉橋がいた。
歩く速度は遅いが、松葉杖はまだ使っていない。
脚にテーピングが厚く巻かれている。
「なんで来たんだよ」
「話したかったから」
「休めよ」
「お前も帰れよ」
そこでようやく、ふたりとも少しだけ笑った。
笑える空気じゃないのに、笑うしかない感じだった。
倉橋はベンチに座り、しばらく黙って川を見る。
先に口を開いたのは、井坂のほうだった。
「俺、最悪だ」
「何が」
「お前抜けて、俺が入るって、どっかで思ってた」
「思うだろ、それは」
「思いたくなかった」
「でも、現実だよ」
「分かってる」
倉橋は少し俯いて、それからぽつりと続けた。
「おれ、二走をちゃんと走りたかった」
井坂が見る。
「高校入ってすぐ任されて、ほんとにうれしかったんだ。中学じゃずっと補欠で、こういうの、もらえなかったから」
「……」
声が少し震える。
「初めてだったんだ。自分が繋ぐ側に入ってるって思えたの」
井坂の喉が詰まる。
「それで、無理した」
「……」
「ばかだよな」
「ばかだな」
「うん、ばか」
倉橋は笑いながら、でも目は赤かった。
「でも、一回だけでいいから、あの一本を本物にしたかった」
「本物?」
「仮じゃなくて。代わりでも、お試しでもなくて。ちゃんと俺が繋いだ一本だったって思いたかった」
その言葉で、井坂の目の奥が熱くなる。
「……っ」
「だから、お前」
倉橋が井坂を見る。
「俺の代わりとして入るな」
井坂は顔を上げられなかった。
「自分で入れ」
「……無茶言うな」
「言う」
「お前今ケガ人だろ」
「ケガ人だから言うんだよ」
しばらく、どちらも喋れなかった。
井坂はとうとう顔を覆った。
涙なんてしばらく流していないはずなのに、勝手に熱いものが出る。
「俺さ」
井坂がしゃくれた声で言う。
「また昔のやつら来た」
倉橋は黙って聞く。
「お前がケガした日も連絡来てた。来いよって」
「……」
「ちょっとだけ、戻りそうになった」
「うん」
「でも、お前があんな顔してたから、無理だった」
倉橋は泣きながら笑う。
「何だよそれ」
「俺、ちゃんと走るって決めたのに、また逃げるのかって思った」
「逃げるなよ」
「逃げねえよ」
「じゃあ、走れ」
「……走る」
短く言ったあと、井坂は少しだけ声を低くした。
「お前の二走、消さない」
その一言で、倉橋はついに俯いた。
泣き声は出さなかった。
ただ、肩だけが小さく震える。
悔しくて、情けなくて、それでも前を向きたいと思っているやつだけが流す涙だった。
帰り際、井坂は倉橋の肩を一度だけ叩いた。
「お前の代わりじゃなくて、俺が行く」
倉橋は目を赤くしたままうなずく。
「うん」
「でも、お前が繋いだとこから行く」
「……それは、許す」
階段のコンクリートは冷たかった。
夕方の空はやけに高かった。
二人のあいだには、悔しさも、情けなさも、信じてもらえたうれしさも、全部そのまま残っていた。
それでも最後に残ったのは、失ったものではなく、渡された重さだった。




