第49話 越えるべき予選
地区予選の日、朝の競技場はまだ冷えていた。
県へ上がるための最初の関門。
ここで落ちれば、その先はない。
大会の規模としては県ほど大きくない。
それでも、春の一本目としては十分すぎる重さがあった。
西野は男子四百メートルハードルの招集所で、明らかに顔が固かった。
スパイクの紐を結び直す指先が、少しだけ震えている。
遥が隣にしゃがむ。
「いける?」
「怖いです」
「だよね」
「跳べる気が全然しません」
「でも、逃げたい感じではないでしょ」
西野は少しだけ目を上げた。
「……はい」
「なら大丈夫。怖いまま行けばいい」
西野は小さく笑う。
「神崎先輩みたいなこと言いますね」
「さすがにそれは言いすぎ」
男子四百メートルハードル予選。
号砲が鳴る。
西野の一台目は高かった。
二台目も少し詰まる。
見ている側にははっきり分かる失敗だ。
けれど、途中で止めなかった。
向こう正面でリズムを必死に整え、最後まで転ばず、抜かれても腕を止めず、一本を走り切る。
結果は地区予選敗退。
県には届かない。
それでも、ゴール後の西野の顔は、泣きそうなくせに少し笑っていた。
「怖かったです」
戻ってきて最初にそう言った。
「でも、ちょっとだけ分かりました」
真壁がドリンクを渡す。
「何が」
「神崎先輩が、怖いの込みで走るって言ってた意味です」
遥がうなずく。
「十分だと思う」
西野はドリンクを受け取りながら、静かに息を吐いた。
「負けたの悔しいです」
「そりゃそう」
「でも、やってよかったです」
その言葉が、見ている側の胸にも残る。
男子では、蓮の四百は危なげなく予選通過。
前半から無理に目立たず、それでも他校の選手より一段余裕がある。
井坂も強引に押し切って通過し、倉橋は自己ベストに近い走りでギリギリ拾った。
「通った……」
倉橋が掲示を見上げて呟く。
その声が、自分で信じられていない響きをしていた。
瀬川の八百も安定して通過し、真壁も二百で県の可能性を残す。
さらに4×400mリレーも、ひとまず予選は抜けた。
大会の途中、高梨は記録用紙を書きながら、何度も蓮のほうを見ていた。
走っているときも、戻ってきたときも、蓮は表情を大きく変えない。
けれど西野にタオルを渡すときだけ、少しだけ目つきがやわらいだ。
その瞬間を見て、高梨はまた胸の奥が熱くなる。
速いから、だけじゃない。
強いから、だけじゃない。
この人は、ちゃんと周りを見ている。
それが分かるたびに、感情は少しずつ形を変えていった。
そしてその高梨の視線に、遥も気づいていた。
気づくたびに、胸の奥がわずかにざらつく。
まだ名前のない感情だった。




